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 中学生の皆さん、日本史の授業はどこまで進みましたか?定期試験への備えは万端でしょうか。
  今回は原始・古代の日本史を紹介します。狩猟から農耕へと移っていき、やがて「むら」が形成され「くに」にまとまっていく原始の歴史、飛鳥時代から平安時代(平氏が政権を握るまで)の古代の歴史について、見直してみましょう。小学6年生の皆さんも、日本の歴史の勉強をしていると思いますので、予習のつもりで読んでみてくださいね。
*「古代」については、奈良時代と平安時代とするなど、いくつかの考え方があります。

知って楽しい古文の物語

 100万年ほど前から、地球は氷河時代となり、氷期とやや温暖な間氷期を繰り返していました。この頃の日本は大陸と陸続きだったので、日本人の祖先たちはナウマンゾウなどの獲物を追って、大陸から移動してきたと考えられています。この頃、人々は石を打ち欠いてつくった打製石器を使って狩りや採集をしていました。そのため、この時期のことを旧石器時代といいます。
  約1万年前に最後の氷期が終わり、地球は暖かくなりました。この頃の人々は、狩りや採集だけでは食料が足りなくなったので、野生の動物を飼い慣らし、植物の栽培をはじめました。石を磨いてつくった磨製石器がつくられるようになったことから、この時期のことを新石器時代といいます。

縄文時代と弥生時代

 最後の氷期が終わって海面が上昇すると、日本列島は大陸から切り離されました。人々は、表面に縄目の文様をつけた縄文土器に食料を保存するなどしました。また、人々は地面を掘って屋根をつけた竪穴住居に住んでいました。この時期のことを縄文時代といいます。当時の暮らしぶりがうかがえる遺跡に、青森県の三内丸山遺跡があります。
  縄文時代の終わりごろになると、九州北部に稲作が伝わります。米づくりがひろまると、米の保存などに適した、うすくてか
たい弥生土器がつくられるようになりました。また、米づくりとともに青銅器や鉄器も伝わりました。銅鐸や銅剣などは、米の
収穫を祈るための道具だったと考えられています。

「むら」から「くに」へ

 稲作が広まると、水田近くの台地に「むら」がつくられました。やがてむらをまと
める「くに(国)」が現れ、くにどうしは土地や水をめぐって争うようになりました。佐賀県の吉野ケ里遺跡からは、収穫物を保存する高床倉庫の跡の他、深い堀や物見やぐら、矢が刺さった人骨などが見つかっています。
  長い間争いが続いていた倭(日本)ですが、邪馬台国の卑弥呼が女王になったところ、争いはおさまったと伝わっています。卑弥呼は魏(中国)に使いを送り、魏の皇帝から「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡100枚などを授けられました。

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古墳の登場

 卑弥呼の死後、大和(奈良県)地域に富と権力を持った豪族や王が現れました。これらの勢力が連合して大和朝廷という政権を
つくりました。
  3世紀後半〜4世紀初頭にかけて、この大和地域に大型の古墳である前方後円墳がつくられました。古墳とは、豪族や王の墓で、土を盛り上げて築いたものです。表面には石が敷き詰められ、頂上やまわりに埴輪が並べられていました。
  大和朝廷の中心人物は、5世紀ごろには大王と呼ばれるようになりました。こうした3世紀後半から6世紀の時代までを古墳時代といいます。大王は7世紀後半から天皇と呼ばれるようになります。
  この頃、中国や朝鮮の人々が一族でまとまって日本に移り住むことが増えました。彼らを渡来人と呼びます。538年には百済(朝鮮)より仏教も伝わりました。

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豪族の争いと聖徳太子

 6世紀、大和朝廷で豪族同士が争い、地方でも豪族が反乱を起こしていました。豪族の蘇我氏は、渡来人と結びついて仏教を取り入れようとします。587年、蘇我氏は仏教を取り入れることに反対していた物部氏をほろぼし、大きな権力をにぎりました。
  593年に天皇の摂政(女性の天皇や幼い天皇の代わりに政治を行う役職)となった聖徳太子は、蘇我 馬子とともに、天皇を中心とする国づくりを進めました。聖徳太子は、身分にかかわらず才能のある人物を役人に取り立てる冠位十二階の制度を設け、仏教の教えを取り入れた役人の心がまえ十七条憲法を定めました。
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豪族の争いと聖徳太子

 6世紀、大和朝廷で豪族同士が争い、地方でも豪族が反乱を起こしていました。豪族の蘇我氏は、渡来人と結びついて仏教を取り入れようとします。587年、蘇我氏は仏教を取り入れることに反対していた物部氏をほろぼし、大きな権力をにぎりました。
  593年に天皇の摂政(女性の天皇や幼い天皇の代わりに政治を行う役職)となった聖徳太子は、蘇我 馬子とともに、天皇を中心とする国づくりを進めました。聖徳太子は、身分にかかわらず才能のある人物を役人に取り立てる冠位十二階の制度を設け、仏教の教えを取り入れた役人の心がまえ十七条憲法を定めました。

仏教と飛鳥文化

 聖徳太子や蘇我氏によって仏教が広められ、都のあった飛鳥地方(奈良県)では仏教をもとにした飛鳥文化が栄えました。聖徳太子の建てた法隆寺は世界最古の木造建築物で、日本で最初に世界遺産に登録されたことでも知られています。
  また、聖徳太子は、隋(中国)の進んだ政治や文化を取り入れるために、小野妹子らを派遣しました。この使者を遣隋使しといいます。遣隋使には留学生や僧も同行しました。やがて、7世紀のはじめに隋にかわって唐が中国を統一すると、遣唐使が派遣されるようになりました。

仏教と飛鳥文化

 聖徳太子の死後、大きくなった蘇我氏の勢力を恐れた中大兄皇子(後の天智天皇)は、645年、中臣鎌足(後の藤原鎌足)とともに蘇我氏を倒しました。そして、唐の政治のしくみを取り入れ、天皇を中心とした国づくりをはじめました。これらの改革を大化の改新といいます。
  この頃、朝鮮半島では、新羅が唐と結んで百済をせめました。倭国は百済を助けるために大軍を送りましたが、663年、新羅と唐の連合軍に敗れました(白村江の戦い)。倭国は新羅や唐がせめてくるのに備えて、九州北部に防人と呼ばれる兵士を派遣したり、山城や水城を築いたりしました。
  白村江の戦いの後、中大兄皇子は即位して天智天皇となりました。天皇は全国の戸籍をつくるなど、改新の政治を行いました。天智天皇の没後、あとつぎをめぐる争いが起こります(壬申の乱)。この争いに勝って即位した天武天皇は、701年、唐の法律にならった大宝律令を定めました。律とは刑罰のきまり、令とは政治のきまりのことです。このしくみのもと、役人の位が定められ、地方は国・郡・里に分けられました。中央政府を朝廷と呼び、地方を支配するために送り込まれた役人を国司と呼びました。このような律令に基づいて政治が行われる国家を、律令国家といいます。
  律令国家では、戸籍をもとに、6歳以上の男女に口分田と呼ばれる農地を割り当てました。口分田は死後に国へ返さなければなりませんでした(班田収授)。また、地方の人々は、稲の収穫の約3%を納める祖、糸や絹など地方の特産物を納める調、年間10日間都で
働く(歳役)代わりに布などを納める庸などを負担しなければなりませんでした。
 

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福岡県の水城跡。水城とは直線状の堀と土塁で、敵から大宰府を守るために
築かれたと考えられています。

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平城京

 710年、都は奈良の平城京に移されました。京に都が移されるまでの時代を奈良時代といいます。平城京には天皇の住居のほか、市に各地から送られてきた産物などが並びました。また、和同開珎という貨幣も発行されました。
  一方で、地方では、鉄製の農具が広まり稲の収穫が増えました。しかし、日照りや水害などで田が荒れたり、重い労役に耐えられなくなったりして、逃亡する農民も増えました。人口も増えたので、口分田が不足します。そこで、743年、朝廷は墾田永年私財法を出しました。この法によって、新しく開墾した田は私有地(荘園)とすることができるようになりました。
  また、この頃、伝染病やききん、反乱が起こり世の中に不安が広がっていました。
そこで、聖武天皇は、仏教の力で不安をしずめようと考えました。国ごとに国分寺を建て、743年には東大寺に大仏をつくるよう命じました。人々に仏教の教えを説いていた僧の行基も、大仏づくりに協力しました。

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奈良時代の天平文化

 奈良時代、朝廷は唐の進んだ制度や文化を取り入れようと、たびたび遣唐使を派遣しました。鑑真のように、日本に渡って仏教の教えを広める唐の僧もいました。都では、仏教と唐に影響を受けた文化が栄えます(天平文化)。東大寺の正倉院には、聖武天皇や光明皇后ゆかりの品々をはじめとする、天平時代を中心とした美術工芸品が収蔵されています。

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正倉院

 このような国際的な文化が栄える一方で、日本の国のおこりや天皇の系譜などを確かめようとする動きも出てきました。『古事記』や『日本書紀』には、神話や伝承などをもとにまとめられています。また、国司に命じて各地の名産や伝説などをまとめさせた『風土記』もつくられました。和歌もさかんで、『万葉集』には、天皇や貴族、防人や農民などの歌がおさめられています。協力しました。

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平安京と摂関政治

 794年、桓武む天皇は都を今の京都に移しました。この都を平安京といい、鎌倉幕府が成立するまでの間を平安時代といいます。天皇は、それまであったむだな役職をなくして政治の立て直しをはかり、東北地方の蝦夷に対してたびたび軍を送りました。
  また、唐で仏教を学んできた最澄と空海は、いのりの力で国を守ろうと考えました。最澄は比叡山延暦寺(滋賀県)で天台宗を、空海は高野山金剛峰寺(和歌山県)で真言宗を広めました。
  平安時代に入ると、藤原氏は娘を天皇のきさきにして、生まれた子どもを次の天皇にすることで政治の実権をにぎりました。藤原氏は、大化の改新で活躍した中臣鎌足の子孫です。藤原氏は、天皇が幼い時は摂政、成人してからは関白という地位について政治を動かしました。こうした藤原氏による政治を摂関政治といいます。藤原氏は高い地位をほとんど独占して、荘園もたくさん持つようになりました。特に、11世紀前半の藤原道長と、その子頼通の頃が、藤原氏がもっとも権力をにぎっていました。
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平安時代の国風文化

image  894年、学者である菅原道真の意見などもあり、遣唐使が廃止されました。それまで唐風の文化がさかえていましたが、次第に日本独自の文化がみられるようになります。これを国風文化と呼びます。
  漢字を変形したかな文字ができ、人々はこれを用いて感情を豊かに表すようになりました。紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』などの優れた作品が生まれたのもこの頃です。また、紀貫之らがまとめた『古今和歌集』のように、和歌も再びさかんになりました。



紀貫之の日記文学『土佐日記』にも、かな文字が使われています。

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