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富士山を徹底リサーチ!
 富士山について、まずは基本的なデータを見てみましょう。

富士山の基本データ
・標高…3776m(日本最高峰=剣ヶ峰)
・容積…約400㎢
・所在地…静岡県(富士宮市、裾野市、御殿場市、富士市、小山町、芝川町)と山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)
・独立峰、活火山
・三霊山、三名山の一つ(他に立山、白山)
・登山シーズン…7〜9月上旬頃(変動有り)
・2013年登山者数(8合目付近にて計測・環境省)…30万721人
・登山道…吉田ルート、富士宮ルート、須走ルート、御殿場ルート
・「富士山・信仰の対象と芸術の源泉」として世界文化遺産に登録(2013年6月23日)
 
 右のデータの通り、登山シーズンの2か月だけで30万人以上(8合目地点)が訪れていることからもわかるように、「観光スポット」としても有名な富士山。山頂まで登らずに、5合目まで車やバスで行って山中湖や河口湖などを見渡す眺めを楽しむ人も多いようです。5合目であれば、4月中旬〜12月中旬頃まで行くことができます。
 

世界文化遺産登録までの道のり

 世界遺産には、建築物や遺跡などが対象の文化遺産、自然や生物、景観などが対象の自然遺産、文化と自然の両方に価値がある場合の複合遺産の3つがあります。また、人類が犯した悲惨な出来事を伝え、悲劇を二度と繰り返さないための戒めとなるものは負の遺産と呼ばれています。広島県の原爆ドームも、その負の遺産の一つです。
  世界遺産に登録されるためには、まずは登録を求める地域の政府機関による暫定リスト(登録の候補リスト)の提出が必要です。次に、推薦書と暫定リストをユネスコ世界遺産センターが受け取り、文化遺産候補であれば国際記念物遺跡会議(ICOMOS)、自然遺産候補であれば国際自然保護連合(IUCN)に登録するにふさわしいかどうかの調査を依頼します。そして、その調査結果をもとに判定され、さらに世界遺産会議での最終審議を経て、ようやく正式登録となるのです。
  富士山を世界遺産に登録しようという動きは、1990年代の初めからありました。当初は自然遺産の登録が考えられていましたが、登山客などが放棄するゴミ問題が解決されないといったこともあり、文化遺産登録を目指すことになりました。2007年には暫定リストに登録され、2013年4月30日、文化庁は国際記念物遺跡会議において富士山を文化遺産として登録するように勧告しました。そして、約2か月後の2013年6月22日、カンボジアのプノンペンで開催された第37回世界遺産委員会において、ようやく「富士山|信仰の対象と芸術の源泉」が世界文化遺産に登録されることが決定したのです。

 

富士山と富士信仰

 今回登録された「富士山|信仰の対象と芸術の源泉」を含めると、2013年時点で日本には世界遺産が17件あります(表1)。自然遺産が4件、文化遺産が13件です。富士山は文化遺産で、「富士信仰」と呼ばれる山岳に対する固有の伝統文化を表す証拠として、また浮世絵や近現代の西洋美術などに影響を与えたとして評価され登録となりました。登録前から観光地として国内外を問わず高い人気を誇っています。
  この世界文化遺産「富士山|信仰の対象と芸術の源泉」は、ぜんぶで25の資産で構成されています(表2)。その中に、文化遺産に選ばれた理由にもあげられた富士信仰にまつわるものがあります。
  富士信仰とは、富士山を神様に見立てて信仰や崇拝の対象とすることを指します。その代表的なものが浅間信仰(富士浅間信仰)と

呼ばれるものです。浅間大神という女性の神様を祭っています。この浅間大神は、コノハナノサクヤビメ(木花咲耶姫)であるとされています。コノハナノサクヤビメには火の中で子どもを産んだというエピソードがあることから、火の神様、または火を鎮める水の神様として祭られています。
  富士山は、少なくとも平安時代末期には信仰の対象となっていたようです。また、江戸時代には富士講と呼ばれるものが形成され、人々は富士詣(富士登山)をしたり、富士五湖(西湖、精進湖、本栖湖、山中湖、河口湖)や白糸の滝などで水行をしたりしました。また、富士山から持ち帰った溶岩を積み上げるなどして造られた富士塚は、大きいもので高さ10mほどです。この塚に登ると富士詣と同じご利益が得られるとして、江戸時代の人々はここを訪れたといいます。

東京都渋谷区千駄ヶ谷にある鳩森八幡神社の富士塚

 
 

富士山の自然

 文化遺産として登録された富士山ですが、豊かな自然環境も注目されています。富士山は玄武岩でできています。その誕生は約10万年前と言われていて、その後の長い火山活動によって現在の美しい形が形成されました。
  日本最高峰の剣ヶ峰3776mを誇る富士山は、高山帯から麓の低地帯までの幅広い植物分布があるのが特徴です。エゾタンポポにオオヤマザクラ、フジアザミなど、短い登山シーズン中でも山地ならではの植物やふだんの生活ではなかなか目にしない植物を楽しむことができます。また、特別天然記念物のニホンカモシカや、高山帯から亜高山帯で生息するホシガラスなどの動物にも出会えます。鳥類については、中部地方に生息するほとんどの種類が富士山麓で見られるということで、バードウォッチングに訪れる人も多いそうです。

 

▲ ニホンカモシカ

▲ ホシガラス

 

様々な富士山の姿

 昔々から、たくさんの人々を魅了してきた富士山。季節や場所、日時によって見せる姿が違うこともよく知られています。晩夏から初秋にかけて赤く見える赤富士は、山が朝日に染まることによって起こる現象です。古くから縁起のいいこととして親しまれてきました。また、1000円札のデザインにもなっている逆さ富士は、富士五湖の一つである本栖湖から撮影されたものがモデルになっています。逆さ富士は湖面が穏やかな時にしか現れないため、出会うことが難しいとされています。他にも、富士山頂と太陽が重なるダイヤモンド富士や、同じく月が重なるパール富士、頂上付近に雲がかかる笠雲など、見え方によって様々な呼び方があります。

 

▲ 赤富士

▲ 本栖湖の逆さ富士

 

頂上までを区切っている「〜合目」の意味は?

 山では頂上までの高さを「〜合目」という区切り方で表します。この「〜合目」という表現が初めて使われたのが、富士山だというのです。なぜ、このような呼び方になったのか。その理由の一つに、富士山を、米を量る升に例えたからというものがあります。また、昔は登山をする時に提灯で足元を照らしたので、油を1合使い切るごとに区切ったからという理由もあります。他にも、登山の時に飲んだ水の量を記録したなど複数の説があり、はっきりしていません。また、3ページの登山ルート図を見てみると、須走ルートには「6合目」と「本6合目」、「8合目」と「本8合目」があるのがわかります。「本6合目」や「本8合目」は戦前の6合目、8合目だそうです。
  さらに「〜合目」の実際の距離ですが、山によって異なっています。1合目から10合目まで正しく計測して定めた山はほとんどないそうです。面白いところでは、「会津富士」とも呼ばれる福島県の磐梯山で、その頂上は5合目です。この理由は、往復で合計10合目とする説や、富士山の標高のちょうど半分だからという説などがあります。

 

富士山の火山活動

 富士山は現在も火山活動を続ける活火山です。日本史上においても、大きな噴火の記録がいくつも残っています。最も古いものは『続日本紀』で、781(天応元)年に富士山から灰が降って来たと記されています。その後、800〜802(延暦19〜21)年にわたった延暦噴火、864(貞観6)年の貞観噴火、そして歴史上最後の記録となった1707(宝永4)年の宝永大噴火などがあったそうです。宝永大噴火は江戸時代に起こったもので、噴煙の高さが上空20qにもなったと伝えられています。降り注いだ大量の火山灰は、遠く江戸(東京都)にも積もったそうです。当時江戸に滞在していた朱子学者の新井白石(1657〜1725年)は、著書『折たく柴の記』の中で灰が降った時のことを記録しています。
  宝永大噴火の49日前には、宝永地震と呼ばれる巨大地震が発生しました。この地震と、その後の余震が噴火を誘発したのではないかと考えられています。こうした過去の事例から、現在、近いうちに富士山の噴火があるのではないかとも言われていますが、現在のところ、特に注目すべき異変の兆しは見受けられないそうです。

 

富士山に登頂した歴史上の人物

 歴史上、富士山に初めて登った人は役小角(634〜701年)と言われています。役小角は飛鳥時代から奈良時代にかけての呪術者で、修験道の開祖と言われている人物です。修験道とは、山での厳しい修行を経て悟りを開こうとする山岳信仰が密教や道教などに取り入れられてできたものです。こうしたことからも、かなり古い時代から富士山は神聖視されていたことがわかります。
他にも、真言宗の開祖である空海(弘法大師・774〜835年)や、浄土真宗の祖である親鸞(1173〜1262年)、日蓮宗の祖である日蓮(1222〜1282年)も富士登山をしたと記録に残っています。また、女性初の富士山登頂者は、江戸時代後期から明治時代初期を生きた高山たつという人でした。たつが登山を目指した当時は、富士山に女性は登ることができなかったそうです。そこで、たつは男装をして仲間に連れられこっそり登りました。彼女が登頂を果たした後年、1872(明治5)年に富士山の女人禁制は解かれました。
  このように様々な歴史上の人物とも縁のある富士山には、不思議な伝説も多く残っています。最後に、その中から2話を紹介したいと思います。

 

 
 富士山は女神で浅間様と呼ばれていました。彼女は大変ないばりんぼう。いつも雲の上に頭をつんと出して、
「富士山は日本一高いのよ!」と言っていました。
  ところが、ある日のこと、「おれのほうが高いぞ!」という声が聞こえてきました。権現様という男の山神様です。
すかさず浅間様も、「いーえ! 富士山のほうが高いに決まっています!」と言い返しました。
  二人の神様は、何年も何年も言い争いをしました。山のけんかは大変です。山の頭から火を噴き、地面はぐらぐらと揺れ、
火の雨や石が飛んできました。
  ある時、見かねた阿弥陀如来様が、
「二つの山の頂に長い樋を渡して水を注ぎ、どちらへ流れていくか見てみよう。水は高い所から低い所へと流れていくから、
それでどちらが高いか決着がつくだろう」
  二人の神様もその提案に大賛成。さっそく樋を渡しました。すると、どうでしょう。水は富士山のほうへ流れていくでは
ありませんか。
「ああ、悔しい、悔しい!」
  負けず嫌いの浅間様は、長い丸太を持ち出してきました。それで権現様の山の頂を、思いっきりたたいたのです。
こうして権現様の山は八つに割れて低くなり、今の八ヶ岳の景色になったといいます。
 
 八ヶ岳は、長野県と山梨県の境にある山塊(山系や山脈とは離れ、塊としてある山々のこと)です。名前の由来ですが、八つに分かれて見えるので八ヶ岳と呼ばれた説や、「八百万」を表す「八」を用いてたくさんの山が固まっている意味だとする説など、様々あります。最高峰は赤岳の2899m。一帯は火山地帯のため、多くの温泉が湧いています。富士山に頂を八つにされてしまった八ヶ岳。今回はたたかれたエピソードを紹介しましたが、「富士山に蹴り飛ばされて八つに割れてしまった」という話も伝わっています。また、八ヶ岳の妹山の蓼科山は、兄の峰が八つに分かれたのを悲しんで泣いたので、その涙が溜まって諏訪湖となったということです。
 

 
 あの聖徳太子も富士山に登ったという言い伝えがあります。しかし、そこは聖徳太子、登山の方法も人とは違ったようです。
  昔、昔のこと。甲斐の国(現在の山梨県)で、一頭の子馬が生まれました。黒い体に、四つの脚だけが白い馬でした。子馬は立派に育ちましたので、飛鳥(現在の奈良県)にある都へ送られることになりました。
  都では、全国から良馬が数百匹も集まりました。その馬たちを見ていた聖徳太子は、あっと声をあげます。
「あの馬は、神様が遣わしたものに違いない。ぜひとも私の馬にしよう」
  それは、甲斐の国からやってきた、あの馬でした。太子は馬を大事に飼うことにしました。
  太子が連れ帰った馬は体も大きく脚も丈夫で、しかもとても忠実でした。ある時、太子はためしに馬に乗ってみようと思い立ちます。すると、どうでしょう。太子を乗せた馬は、すっと空へと駆け上がり、あっという間に雲の上に浮かんだではありませんか。
  太子を乗せた馬は東へと飛んで、富士山を軽々と飛び越えて信濃国(現在の長野県と岐阜県の一部)まで行って、三日のうちにまた飛鳥まで戻って来たそうです。
  聖徳太子が亡くなった時、馬はたいそう悲しんで、後を追うように息を引き取ったという話も伝わっています。
 
 2014年度から高校の日本史の授業で使われる教科書(清水書院)の中で、「聖徳太子は実在したか」というコラムが掲載されています。聖徳太子(厩戸皇子)は飛鳥時代の政治家で、推古天皇のもと、蘇我馬子と協力して大陸の進んだ文化を取り入れ、仏教を厚く信仰した人物として知られています。また、学校の授業では、冠位十二階や十七条憲法などを定めた人物と教えられてきました。しかし、以前から聖徳太子はつくられた人物だと主張する研究者もいて、様々な議論が交わされています。歴史研究が進むことで新しい発見があり史実が変わることがある、資料にも様々な見方があるということを、皆さんも知っておくとよいかもしれません。
 
 

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