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使った紙は捨てずに再利用

 紙のリサイクルは、私たちの暮らしの中にだいぶ浸透してきました。日本の古紙利用率は63・9%(2013年・経済産業省「紙・パルプ統計」)で、世界でもトップクラスであると言われています。その一方で、日常生活の中で使い捨ててしまう紙製品はまだまだ多い印象です。
  江戸時代の紙は、コウゾやガンピ、ミツマタなどの植物の靭皮(樹木の外皮のすぐ内側にある甘皮)を原料としている和紙です。私たちがふだん使っている化学薬品や様々な添加物を混ぜて作った洋紙(酸性紙)とは異なり、大変質がいいという特長があります。洋紙は百年程度で劣化してしまいますが、和紙は数百年経ってもほとんど変質しないほど丈夫なのです。化学薬品が原因で紙の繊維を傷めてしまうこともありません。ですから、紙を漉き直して何度も再利用することができました。また、紙縒り(紙をひねって紐状にしたもの)や襖の下張り(襖の表紙が波打ったりしないようにするための下地)、包み紙などにも回されました。使い終わった紙は「紙くず買い」という職業の人が買い取り、紙を漉き直す業者
 

▴『紙漉重宝記』(国立国会図書館蔵)には、紙を作る工程が
  詳細に描かれています。

「古紙問屋」に売るというシステムが出来上がっていたそうです。
  このようにしてリサイクルを繰り返し、「これ以上は漉き直しができない」というほど使い込まれた紙は、本の裏打ちに使う厚紙(表紙を丈夫にするボール紙のような役目)や落とし紙(トイレットペーパー)などになりました。一度だけでなく、繰り返しリサイクルするのが、江戸の紙利用術だったのですね。

江戸の貸本屋

 大都市・江戸の人々の識字率(=読み書きができる率)は、当時、世界の他の都市と比べても高かったのではないかと考えられています。そんな江戸の人々は、なかなかの読書家でもありました。江戸の出版文化は、同時代のロンドンやパリと並ぶほどだったといいます。
  ところが、この頃の本は大変高価で、庶民ではなかなか手に入れることができませんでした。そこで重宝されたのが貸本屋です。貸本屋には、店頭に本を並べるスタイルの他、行商人として貸本を持ち歩くパターンもありました。庶民だけでなく、大名や武士も貸本を利用していたそうです。上でも書きましたが、丈夫な和紙は複数の人に読まれてもボロボロになりにくい良質なものでした。加えて、貸本を読む際には「必ずページの左下の部分をつまんでめくる」という暗黙のルールがあったのです。たくさんの人に読まれる本なので、出来る限りきれいに使おうという心遣いがあったのですね。現在残っている江戸時代の古書は、ページの左下がひどく傷んでいても他はきれいな状態という場合がほとんどです。

江戸の引っ越しは楽々!

 江戸時代の集合住宅といえば「長屋」です。町人や職人たちが、細い路地に沿って並んだ借家に住んでいる風景は、時代劇や落語でも多く取り上げられています。
  江戸の人々、特に長屋で一人暮らしをする者の持ち物はほとんどありませんでした。引っ越しもほぼ手ぶらでできました。なぜ手ぶらで引っ越しができたのかというと、江戸時代の特に都市には「損料屋」と呼ばれるレンタルショップがありました。鍋、食器、布団だけでなく褌(下着)までも貸し出してくれたそうです。ですから、引っ越しをする際には、それまで住んでいた町の近くにある損料屋で借りていた品々を返し、引っ越し先の町にある損料屋で新たに借りればよかったのです。損料屋は商売道具である品々を、何度も修理に出して大切に扱いました。
  また、江戸時代には、古道具や古着を扱う店も数多くありました。特に、反物(生地)を手織り、仕立ても手作業という時代、着物は貴重品で
 

▴江戸庶民は、日常生活で着る物を、古着屋で手に入れて
  いました。

した。呉服店で着物を新調できるのはごく一部の裕福な人だけで、庶民の大半が古着で過ごしていたのです。ですから、人々は一枚の着物をとても大切していました。中には、夏用の単衣の着物に裏地をつけ、冬の間着ているという人もあったようです。また、大人が着ていた物を、仕立て直しをして子どもへのお下がりにしました。それでも傷んで着られなくなると、雑巾、赤ちゃんのおむつ、下駄の鼻緒などにして使っていました。それも使い古されると、燃やした灰を肥料にしたというのですから、徹底して資源を有効活用していたのですね。

江戸の呉服店「越後屋」

 大都市・江戸の人々の識字率(=読み書きができる率)は、当時、世界の他の都市と比べても高かったのではないかと考えられています。そんな江戸の人々は、なかなかの読書家でもありました。江戸の出版文化は、同時代のロンドンやパリと並ぶほどだったといいます。
  ところが、この頃の本は大変高価で、庶民ではなかなか手に入れることができませんでした。そこで重宝されたのが貸本屋です。貸本屋には、店頭に本を並べるスタイルの他、行商人として貸本を持ち歩くパターンもありました。庶民だけでなく、大名や武士も貸本を利用していたそうです。上でも書きましたが、丈夫な和紙は複数の人に読まれてもボロボロになりにくい良質なものでした。加えて、貸本を読む際には「必ずページの左下の部分をつまんでめくる」という暗黙のルールがあったのです。たくさんの人に読まれる本なので、出来る限りきれいに使おうという心遣いがあったのですね。現在残っている江戸時代の古書は、ページの左下がひどく傷んでいても他はきれいな状態という場合がほとんどです。

 

▴歌川広重作「名所江戸百景」に描かれた駿河町。越後屋の暖簾が並んでいます。

ごみを極力出さないシステム

 東京都から出されるごみの量は年間約461万t、東京ドーム約14杯分になると言われています。焼却が追いつかずにそのまま埋め立て地へと運ばれていることも深刻な問題となっています。
  多くの人々が暮らした江戸でも、ごみは埋め立て地に運ばれていました。1655年に埋め立て地に定められたのは永代島の湿地帯です。江戸の初め頃はまだ湿地も多く、人の住める場所も限られていたため、土地を造成する目的でごみが集められました。
  ただし、江戸の人々は、極力ごみを出さない工夫をしていました。リサイクル@では紙について、リサイクルAでは着物について書きましたが、いずれも使えなくなるまで再利用を繰り返しました。着物にいたっては、灰にして肥料にしてしまうので、ごみになりません。また、道に落ちている紙くずを拾う専門の業者もいて、どんな小さな紙切れも漉き直せる物は再利用しました。使えなくなった鍋や包丁などの金属類を集め、溶かして再生させる商売もありました。他にも、かまどの灰を家々から集めて肥料
 

▴天秤棒を担いでいるのは、湯屋で働く木くず拾いです。
  湯を沸かすための木くずを町中から集めました。ごみ拾いも
  立派な職業でした。

として売ったり、古い傘を安く買い修理をして売り物にしたり、実に様々なリサイクル業があったのです。台所から出た生ごみや、厠(トイレ)に溜まった排泄物を集め、農村で肥料として売る商売もありました。これらの徹底したリサイクルシステムがあって、それでももう捨てるしかないという物がごみとして埋め立て地に運ばれたのです。

宿場町と馬糞

 飛行機も電車も自動車もなかった江戸時代、人々の移動手段といえば徒歩か駕籠(あるいは輿)、馬でした。全国各地を結んだ街道には、宿場(宿駅)が設けられていました。また、宿場を中心に発展した町を宿場町といいました。歌川広重の浮世絵に「東海道五十三次」という作品があります。これは1601年に定められた、品川から大津までの東海道の53の宿場の様子を絵にしたものです(実際にすべての宿場が完成したのは1624年のことでした)。
  宿場には幕府の伝達業務に使われる馬が置かれていて、役人はその馬を乗り継ぎながら各地へ用件を伝えていました。その宿場から出る馬糞は、家畜を飼っていない農家にとっては貴重な肥料でした。人々は先を争って馬糞を回収したそうです。
  ちなみに、江戸時代には新宿も宿場でした。1698年、甲州道中に内藤新宿という宿駅ができましたが、ここから新宿という名前が生まれました。江戸っ子たちにとっては、郊外の行楽地という位置づけだったようです。

武家も庶民も火鉢を愛用

 暖房器具といえば、エアコン、ストーブ、炬燵にヒーターを思い浮かべると思います。当然、江戸時代には存在していません。
  江戸時代の書物に描かれている暖房器具は、ほとんどが火鉢です。時折ですが炬燵も登場します。当時の人々には部屋全体を暖めるという発想がなく、厚着をして火鉢を囲めば十分でした。大名や武家も皆が火鉢を利用していました。
  丸い形や四角い形をした火鉢の底に小石を敷き、その上に灰を入れ、炭を乗せて火をおこします。鉢には大小様々あり、中には手さげ火鉢といって持ち運べるタイプものもありました。また、木製や陶器など、火鉢の種類も様々でした。
  火鉢には、暖房の他に、湯沸し器としての役割もあったようです。五徳という器具を火鉢に置き、その上に土瓶や鉄瓶、鍋などを置いておくだけで湯を沸かすことができます。湯気は加湿器代わりにもなりました。
 

▴暖房の他に湯沸し器などの役割も担っていた火鉢。

五徳の上に網をおけば、餅を焼くこともできます。単なる暖房ではなく、様々なことに利用されていたようです。
  都会の暖房器具は火鉢でしたが、農家では囲炉裏が利用されていました。天井の高い部屋の中央の床を切り取って炭を入れるスタイルで、こちらは部屋全体が暖かくなります。鍋を火にかけたり、魚や野菜を串に刺して焼いたりと、台所と家族のだんらんの場が一緒になっていました。現在でも、囲炉裏を残している家を見ることができます。

暑さを乗り切る江戸の智恵

 江戸時代の人々が涼むために使っていたのは、団扇や扇子などのあおぐ道具でした。また、熱い甘酒を飲む習慣もありました。暑い時に熱い物を飲めば、当然汗が出ます。発汗によって体温を下げることができると、知っていたのですね。井戸からくみ上げた冷たい水に砂糖を入れて売る「水売り」という商売もあったようですが、これはなかなかの贅沢品でした。それに、冷たい飲み物を摂りすぎると内臓を冷やして食欲を減退させ、夏バテになってしまいます。京や大坂などでは夏になると甘酒売りが出たそうですし、江戸では年中甘酒が飲めたようです。夏を乗り切る智恵を真似て、熱いお茶などを飲んでみるのはいかがでしょうか。

 

▴柳亭種彦作『偐紫田舎源氏』(国立国会
  図書館蔵)のとある場面。団扇を組み合わ
  せて作った「団扇車」が描かれています。

神田上水と玉川上水

 江戸には荷を運び入れる水路がめぐらされていました。また、多くの人々が江戸で暮らしていくために、上水道の整備が行われました。海に近い僻地を整えてできた江戸は、井戸を掘っても良い水が出にくかったのです。江戸の上水道の一つが神田上水です。徳川方の武士で治水家でもあった大久保忠行(藤五郎)によって開かれました。1590年のことでした。人工的に水を引くことによって、人々は日常生活に必要な水を得ていたのです。また、神田上水と合わせて二大上水と呼ばれる玉川上水は、1652年2月に工事を始めて、わずか7か月で全長43qもの水路を完成させました。この工事の指揮をしたのが「玉川兄弟」と呼ばれている兄の庄右衛門と弟の清右衛門です。一説には二人は百姓であったと言われています。玉川上水は、現在でも東京都水道局で現役の水道として利用されています。
  上水道から引かれた水は、配水管を通して江戸の各所へ届けられました。江戸の井戸は「水道井戸」といって、上水を組み上げるためのものだったのです。水道井戸は屋敷ごと、長屋ごとに置かれていました。長屋の人々が集まって、いわゆる井戸端会議をしているシーンをよく時代劇で見かけます。これは、江戸の人々が上水を共有していたので、自然と井戸の周りがコミュニケーションの場になっていたのですね。
 

▴歌川広重作「名所江戸百景」に
  描かれた玉川上水。

 当時の水道は落差を利用して自然にまかせて流していましたので、最後に余った水は川や堀へ落ちてしまいます。この余った水も無駄にしなかったのが江戸の人々で、落ちる水を水船という専門の船で受け止めて、水が不自由な地域へ運んで行きました。また「水屋」と呼ばれる商人もいて、この余った水を貰い受けて売り歩いていました。14ページのコラムで紹介した水売りとは別の職業です。このようにして、江戸の人々は水を大事に分け合って使っていました。

江戸の銭湯

 リサイクルBでは湯屋(銭湯)の木くず拾いを紹介しましたが、江戸時代、湯屋は町内に一軒はあったそうで、幕末には600軒にものぼったといいます。
  湯屋は単なる公衆浴場ではなく、男湯の二階では、茶や菓子を売っていたり、将棋盤が置かれていたりして、ちょっとした社交場にもなっていたそうです。落語が演じられたという記録もあります。朝から夜の8時頃まで営業していて、多くの人で賑わいました。参勤交代で江戸に出張していた武士も利用していたようです。ちなみに、家の中に設けられた内風呂ですが、江戸時代は身分の高い武家の屋敷にのみ許されていました。火事を防ぐためのルールでした。

 

▴江戸の湯屋を舞台にして、庶民の生活を描いた『浮世風呂』の作者・式亭三馬(1776〜1822年)。
落語の話術を取り入れた軽妙な文章から「滑稽本」と呼ばれています。

 

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