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近代日本の歩み〜外交編〜

 まずは、外交に関係するできごとを追ってみましょう。

 

江戸

1854年 日米和親条約を結ぶ(鎖国の終わり)
アメリカ合衆国の使者ペリーの2度目の来航の際に条約を結びました。
1858年 日米修好通商条約を結ぶ
関税自主権(関税を自由に決められる権利)がなく、領事裁判権(日本に滞在中のアメリカ人が犯罪を起こした場合、日本ではなくアメリカの法律によって裁かれる権利)が認められた、不平等な条約でした。
1867年 徳川慶喜が政権を朝廷に返す(大政奉還)

明治

1871年 岩倉具視ら使節団がアメリカ・ヨーロッパへ出発
1894年 陸奥宗光、領事裁判権の撤廃に成功  日清戦争が起こる
1895年 下関条約を結ぶも、ロシア、ドイツ、フランスから三国干渉を受ける
日清戦争に勝った日本は、下関条約で遼東半島や台湾などの領地を得ましたが、ロシアなどは遼東半島を返すようにと迫りました。
1902年 日英同盟が結ばれる
1904年 日露戦争がはじまる(〜1905年)
1905年 ポーツマス条約が結ばれる
日露戦争に勝利した日本は満州や韓国を実質的に支配する権利を得ましたが、ロシアからは賠償金を得られませんでした。
1910年 韓国併合
日本による統治は1945年まで続きました。
1911年 小村寿太郎が関税自主権を回復する

大正

1914年 第一次世界大戦に参戦する(〜1918年終結)
1915年 中国に二十一か条の要求を出す
中国での権利を拡大するための日本の要求。その大半を認めさせました。
1919年 ベルサイユ条約が結ばれる
第一次世界大戦の講和条約。ドイツは巨額の賠償金と軍備の縮小を求められました。
1920年 国際連盟に加盟。新渡戸稲造が国際連盟事務局次長となる

昭和

1933年 国際連盟を脱退
1937年 日中戦争がはじまる(〜1945年)
1939年 第二次世界大戦が起こる(〜1945年)
1940年 杉原千畝、ユダヤ人の命を救う(「命のビザ」)
 
 
岩倉具視(1825〜1883年)
 

岩倉具視

 

●第15代将軍徳川慶喜に大政奉還
(政権を天皇に返した)させるために活動
●明治政府の第2代外務卿(現在の外務
  大臣。外国との交渉を担当する役職)
  となる
●不平等条約を改正するため、使節団の
  大使としてアメリカ・ヨーロッパを巡る

 

海外の近代化に衝撃を受ける

 岩倉具視は朝廷の重役として、徳川慶喜の大政奉還を進めた人物の一人でした。明治維新後も様々な要職を経て、第2代外務卿になります。
  外務卿となった岩倉は、外国と結んだ不平等条約(治外法権を認め、関税自主権がない条約)を改正しなければならないと考えました。そこで、自らが特命全権大使となり、木戸孝允(桂小五郎)や大久保利通、伊藤博文(後の初代内閣総理大臣)らと共にアメリカやヨーロッパ諸国を巡りましたが、条約改正にはつながりませんでした。
  岩倉は、海外の国々の近代化に大変驚きます。各地を結ぶ鉄道、工場で大量生産される加工食品など、日本よりもずっと発展している様子を見て、日本が諸外国と対等になるためにも文明開化を進めなければならないと実感しました。帰国後、岩倉は、日本鉄道会社(日本初の私鉄の会社)の設立に積極的に関わりました。

 

岩倉使節団。
中央の椅子に座っている和服姿の人物が岩倉。

 

6歳の女子留学生

二度目の留学時の梅子(26歳)

   津田梅子(1864〜1929年)は、岩倉使節団と一緒に海外へ渡った5人の女性のうちの1人で、最年少の留学生でした。最初の留学では11年間アメリカに滞在。その間に英文学やラテン語、フランス語、自然科学などを学びました。日本への手紙も英文で書き、帰国後は日本語の通訳が必要なほどになっていたそうです。留学で得た知識を活かしたかった梅子ですが、当時の日本では、女性が活躍できる職業がほとんどありませんでした。梅子は日本でしばらく女学校の英語教師をしていましたが、再びアメリカへ留学し、日本の女性が留学をするための奨学金を設立するなどの活動を行いました。
  再び日本へ帰国した梅子は、教師を務めながら女学生への援助も行い、女子教育に力を注ぎました。そして1900年、女子英学塾を設立し塾長に就任しました。後の津田塾大学です。梅子が海外で培った広い視野は、近代日本における女子教育の発展へとつながっていきました。
 
 

陸奥宗光

 

陸奥宗光

(1844〜1897年)

●1894年に領事裁判権の撤廃に成功
●優れた外交術を発揮し、その切れ者ぶりから
「カミソリ大臣」と呼ばれる

 

坂本龍馬もその才能を認めた

 第2次伊藤博文内閣の外務大臣だった陸奥は、幕末の頃に土佐藩の坂本龍馬や長州藩の桂小五郎(木戸孝允)、伊藤俊輔(伊藤博文)などと知り合ったそうです。特に、坂本龍馬とは親しく、坂本は陸奥の才能を認め、大変褒めたといいます。
  明治維新の後、陸奥は伊藤博文のすすめでヨーロッパへ留学。ロンドンに滞在して近代国家のしくみを意欲的に学びました。内閣制度や議会の運営について学んだ経験は、日本でも活かされることとなります。帰国後は外務省に勤め、駐米公使に就任。後にメキシコ公使を兼任して、メキシコとの間に日本で初めての平等条約を結びました。
  外務大臣となった後は、イギリスとの間に日英通商航海条約を結ぶことに成功します。この条約により領事裁判権を撤廃、日本で罪を犯したイギリス人を日本の法律で裁くことができるようになりました。同じように、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアなど15か国とも治外法権の撤廃を実現。伊藤内閣の外務大臣時代の外交を「陸奥外交」といい、その切れ者ぶりから陸奥は「カミソリ大臣」とも呼ばれたそうです。ただし、関税自主権の回復はできませんでした。

 
 
 

小村寿太郎

 

小村寿太郎

(1855〜1911年)

●ハーバード大学に留学して法律を学ぶ
●1902年に日英同盟を実現させ、1911年には
  関税自主権を回復させることに成功

 

「小さいけれど強い」小村

 小村は身分の低い武士の子でしたが、大学南校(後の東京大学)に行くことが許されました。さらに、文部省の海外留学生に選ばれハーバード大学へ留学します。大変優秀な人物だったようです。
  留学後は司法省に入りましたが、後に外務省へと移りました。そこで陸奥宗光に才能を認められ、第1次桂太郎内閣の外務大臣となり日英同盟を実現させました。そして、第2次桂内閣で再び外務大臣となり、日米通商航海条約を締結。この条約により、陸奥が実現できなかった関税自主権の回復に成功しました。
  小村は小柄な人物で、動きもすばやく、まるで小動物のようだと周りの人々は言っていたそうです。ですが、小村には、日本を代表して海外と渡り合っていくのだという自信がありました。「そのように小さな体では、外国人の中にまじれば子どものように見えるでしょう」と言われた時、小村は「私は日本を代表して行くのです。大丈夫、日本は小さくても強い国です」と返したそうです。また、小村は常に学ぶことに意欲的で、本をよく読み、医者に「これ以上目を使い続けると失明しますよ」と忠告されても読書をやめなかったそうです。

 
 
 

新渡戸稲造

 

新渡戸稲造

(1862〜1933年)

●英文で『武士道』を執筆。国際的に知名度を高め
  国際連盟事務局次長となる
●5千円札の肖像としても有名

 

西洋に憧れ学問を志す

 小さい頃から西洋への憧れを抱いていた新渡戸は、東京英語学校(後の東京大学)で英語を学びました。その後は農学を勉強するために札幌農学校(後の北海道大学)に入学しましたが、卒業後再び東京へ出ます。さらに「太平洋の架け橋になりたい」と私費でアメリカ留学を果たしました。帰国後は札幌農学校の助教授になります。
  ところが、新渡戸は北海道での生活で体調を崩してしまい、カリフォルニア州で療養生活を始めました。この間に『武士道』という日本の風土と日本人の精神について紹介した本を執筆します。美しい英文で書かれた本はすぐに人気が出て、ドイツ語やフランス語などにも訳され世界的なベストセラーとなりました。この本で有名になった新渡戸は、1920年に国際連盟が設立された時、事務局次長に推薦されます。世界平和を守る機関である国際連盟において、新渡戸は北欧のオーランド紛争の解決や、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の前身となる国際知的協力委員会の創設などに力を注ぎました。5千円札の肖像に採用されたのは1984年のことです。

 
 
 

杉原千畝

 

杉原千畝

(1900〜1986年)

●迫害されたユダヤ人を救うためにビザを発行
●多くのユダヤ人を救ったことから、海外では「東洋
  のシンドラー」と呼ばれることも

 

通過ビザを独断で発行する

 小さい頃から成績優秀だった杉原は、英語の教師になりたかったといいます。ところが、早稲田大学時代、図書館で外務省留学生試験の存在を偶然知ったことが転機となりました。杉原は図書館に通い詰めて猛勉強の末、この難関試験に見事合格。これをきっかけに、杉原は外交の世界へと進んでいくことになりました。
  杉原がリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となった時、ユダヤ人に対するナチス・ドイツの迫害が激しくなっていました。日本にも多くのユダヤ人が逃れて来たといいます。日本を通じて他の国々に亡命しようとしたのです。ただし、日本は、亡命先の国の許可がない者に日本を通過するビザは発行できないと定めていました。亡命先がなく日本に留まる人がいたからです。
  ところが、杉原は独断でビザを発行しました。命を奪われるかもしれないヨーロッパから人々を脱出させるため、日本領事館を去る間際までビザを発行し続けました。杉原を海外では「東洋のシンドラー」と呼ぶことがあります。ドイツ人の実業家シンドラーが多くのユダヤ人を救った話になぞらえ、杉原の功績を讃えているのです。

 
 
 

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