学校、受験、入試対策、社会歴史から一般教養まで幅広く発信しています。

目標を決めたら! 始めよう!タイムスはいつでも君の味方です!

メールフォームでも受付中

関塾TIMES

今月のタイムス

関塾タイムス特集記事

大学の学長、塾先生の勉学時代

関塾タイムス・イラストギャラリー

タイムス編集部だより

関塾

KANJUKUTIMES

tel06-6241-5050

〒541-0056
大阪市中央区久太郎町3-4-30
船場グランドビル六階

関塾

>>バックナンバーはこちら

 
  名を晴信といい、出家後に信玄と称しました。甲斐(山梨県)の武田氏が下剋上によって戦国大名となったのは、信玄の祖父の代。信玄は、越えち後の国(新潟県)のライバル上杉謙信(長尾景虎)との戦いで何度もぶつかりつつも、着実に領地を広げていきました。治水を行って農地を広げたり、 独自の分国法(領地の武士や農民の行動を取りしまる法律)を定めたりするなど、国づくりにも力を注ぎました。江戸時代には、「風林火山」を軍旗にした「甲斐の虎」の武勇伝が広まり、人気者となりました。  

武田信玄(晴信)
1521 〜 1573年

         
  海道とは東海道を指し、弓取りとは武士のことを指します。つまり、東海道一の武将という意味です。義元は、今の静岡県にあたる駿河の国および遠江国を支配しました。その領地は三河や尾張の一部地域(愛知県)にまで広がるほど勢いのある戦国大名でした。ところが、1560年に京へ上洛する途中 、桶狭間の戦いで織田信長によって討たれてしまいました。今川氏は、守護大名(室町幕府の時の地方の有力者)から戦国大名になった例です。また、義元は武田信玄と同盟を結んでいました。  

今川義元
1519 〜 1560年

         
 

江戸時代に人気だった戦国武将は?

江戸時代、戦国時代の武将たちの活躍ぶりが書物に記録されたよ。これらの書物を「軍記物」って言うんだ。軍記物をわかりやすく解説する物語や話芸などが、人々に広く親しまれたんだって。
江戸時代には、武田信玄(晴信)や真田信繁(幸村)が人気だったそうだよ!

 
 
  尾張(愛知県)の戦国大名。桶狭間の戦いで今川義元を破り、将軍・足利義昭を京から追放して室町幕府をほろぼしました。1575年の長篠の戦いでは、鉄砲などを駆使して武田氏を破ったことも有名です。 また、関所を廃止して人や物の行き来を自由にし、 税を免除するなどの楽市・楽座の政策で城下町を発展させました。現在、最も人気のある戦国武将と言っていい信長ですが、江戸時代には比叡山延暦寺や一向宗に対する残酷な行いが批判され評価は低かったようです。  

織田信長
1534 〜 1582年

         
  織田信長の重臣だった戦国武将。近畿周辺を統一した織田信長に、中国地方を攻めるようにと命じられましたが、その兵を主君である信長に向け、京の本能寺を襲撃しました。信長が自害した後、山崎の戦いで羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れ、本能寺の変のわずか13日後に自害しました。信長にかわって一 度は天下人になった光秀ですが、それがあまりにも短かったため「三日天下」とも言われています。なぜ光秀が主君を裏切ぎったのか、その理由は未だに解明されていません。  

明智光秀
1528 〜 1582年

         
 

桃山文化

下剋上で力を得た大名や、商工業や貿易がさかんになって裕福になった大商人たちによる、豪華で壮大な文化です。
織田信長が建てた安土城、豊臣秀吉の大阪城には、はなやかな障壁画が描えがかれました。大名たちの間では茶の湯が流行。
秀吉に仕えた茶人の千利休は、質素な「わび茶」を完成させました。また、出雲もの阿国という巫女が「かぶき踊り」を始め、女歌舞伎がさかんになりました。
女歌舞伎は、後の江戸時代には男性だけの歌舞伎として発展することになります。

 
 
  百姓から天下人にまでのぼりつめた武将。現在も秀吉のことを「出世の神様」として祭っている神社があります。
秀吉は、信長の死後、わずか13日で明智光秀を倒しました。大阪城を築いて全国の大名を従え、朝廷から関白に任命されて全国統一をはたしました。
また、各地の田畑の広さや収穫高を調査して(検地)、農民たちに命じて武器を取り上げ(刀狩令)、身分の区別をはっきりとさせました。江戸時代には、秀吉の生涯を記した『太閤記』という書物が広く読まれ、人気がありました。
 

豊臣秀吉
1537 〜 1598年

         
  三成は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕えました。秀吉の死後、勢力を拡大しつつあった徳川家康に挑むも、1600年に関ヶ原(岐阜県)で敗れました。秀吉と三成の出会いのエピソード「三杯の茶」では、鷹狩の休憩に寺へ立ち寄った秀吉に、三成は最初にぬるい茶を出して喉を潤してもらい、その後に熱い茶を出してよく味わってもらえるように気を配ったとされています。
これは江戸時代の創作だとも言われていますが、三成は大変賢く気配りのできる人物であったようです。
 

石田光成
1560 〜 1600年

         
 

南蛮文化

南蛮(スペインやポルトガル)との貿易を南蛮貿易と呼びます。貿易によって、中国産の生糸や絹織物もの 、ヨーロッパの鉄砲、火薬、ガラス製品などをはじめ、パンやカステラ、カルタ、時計などが日本にもたらされた時代です。
外国の優れた医学や天文学、活版印刷の技術なども渡って来ました。西洋画を真似た技法で絵を描く日本人も現れるなど、同時代にさかえた桃山文化にも大きな影響を与えたとされています。南蛮貿易によってさかえた文化を、南蛮文化と呼びます。

 
 
  政宗は幼い頃に病によって右目を失ったそうです。このことから、江戸時代になって「独眼竜」と称せられました。関ヶ原の戦いで徳川家康に味方した政宗は、1614年、1615年に起こった大阪の陣にも徳川の味方として参加しています。
また、関ヶ原の戦いの後に、家康より仙台藩62万石が与えられ、初代藩主となりました。積極的に海外と交流しようとした人物でもあり、家臣の支倉常長らをメキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)やスペイン、ローマなどへ 派遣したことでも知られています。
 

伊達政宗
1567 〜 1636年

         
  征夷大将軍となった家康は、江戸(東京都)に幕府を開きました。全国の大名を親藩(徳川家の親の大名)、譜代(徳川家に古くから仕える家来大名)、外様(関ヶ原の戦いの後に家来となった大名)に分け、支配しやすいように領地を配置するなどの工夫をしました。家康は、わずか3歳で母親と生き別れ、17 歳までは今川義元の人質として過すごしました。
桶狭間の戦い後に織田信長と同盟関係を結び、その後は豊臣秀吉に仕えます。大阪の陣で豊臣氏をほろぼした時、家康は72歳になっていました。
 

徳川家康
1543 〜 1616年

         
 

戦国時代っていつまでを指すの?

戦国時代の終わりには、織田信長が室町幕府をほろぼした1573年とする説の他、徳川家康が豊臣氏をほろぼした1615年とする説などがあるよ。 歴史には様々な説があるよ。今後研究が進んで、これまで正しいとされてきたことも、新しい発見によって変わることもあるかもしれないね!

 
 
黒田官兵衛、黒田如水という名で広く知られています。三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)に頼りにされた人物で、戦に勝つための策略を練ったり、敵を説き伏せて降参させたりといった面で活躍しました。戦国武将の中にも、孝高を大変尊敬していた者がいたといいます。また、築城の名手としても知られ、福岡城の他に、姫路城や大阪城などを建てる際にも手助けをしました。
孝高の長男は黒田長政です。関ヶ原の戦いで徳川家康の味方として参加し、功績を上げました。 筑前福岡藩の初代藩主となった後は、博多人形や 博多織などの他、様々な福岡の産業を高く評価して勧めました。
 

黒田孝高
1546 〜 1604年

 
       
信繁は、大阪の陣で豊臣方に味方した戦国武将です。大阪の陣では、わずかな兵で徳川家康の本陣(戦場で大将が構えている場所)まで攻め込むなど、武勇に優れた人物であったようです。こうしたエピソードが物語として創作され、江戸時代になって多くの人々に親しまれました。幸村と家来 の「真田十勇士」が、宿敵である家康に挑んでいく物語は、大変な人気だったといいます。伝説の英雄「真田幸村」の名は、江戸時代以降に呼ばれ始めたと考えられています。
信繁は大阪の陣で討ち死にしました。家康は信繁の敵でしたが、彼の武勇を褒め称えたと伝わっています。
 

真田信繁
1567 〜 1615年

 
       

あの「真田幸村」を 討ち取った人物は?

伝説的な英雄「真田幸村」こと真田信繁を、大阪の陣において討ち取った人物は、松平忠直(1595〜1650年)です。忠直は、徳川家康の長男である結城秀
康の子、つまり家康の孫にあたります。忠直らの越前松平家が治めた土地は福井県です。大阪の陣の時、忠直は20歳の若武者でした。真田隊を破り、大阪城へ一番乗りをはたすほど勇猛な戦いをしましたが、恩賞(功績があった者に、主君が領地や地位などを与えて褒めること)に満足できずに、次第に乱暴な行いが目立つようになりました。ついには隠居を命じられ、豊後の国(大分県)に左遷されました。

 
 

Page Top