- 今月のタイムス特集①
2019年5月、皇位継承による改元が行われ、「令和」の時代が始まりました。約200年ぶりの天皇の崩御(死去)によるものではない皇位継承であり、改元されることが早くからわかっていたため、大きな話題となりました。新しい元号がどんなものになるのか予想してみたという人も多いのではないでしょうか。
新元号「令和」の出典は、日本最古の歌集である『万葉集』で、漢籍(中国の古典)ではなく国書(日本の古典)が出典となったのは、1300年以上続く日本の元号の歴史上で初めてのことです。今回は、そんな日本の元号の歴史について研究している、京都産業大学の久禮旦雄先生にお話を伺いました。国書が出典となることは予想していたものの、『万葉集』は予想外だったという久禮先生。その理由とは……?
★今回お話を伺ったのは、
京都産業大学 法学部 准教授
久禮 旦雄先生(くれ あさお)先生
元号とは、新しい時代への希望や理想をこめて、年に付ける漢字の名前のことです。中国から始まり、周辺諸国でも使われていましたが、今では日本にしか残っていません。日本では、飛鳥時代の「大化」から現代の「令和」まで脈々と受け継がれています。その長い歴史の中には、それぞれの時代に応じた変化や特徴があり、日本の文化や伝統について私たちに多くのことを教えてくれます。
日本の最初の元号は「大化」(645年)とされていますが、実際の使用例はほとんど残っていません。元号は中国から始まった制度であり、当時大きな力を持っていた中国は、周辺諸国にも臣下として中国と同じ元号を使うよう求めていました。日本はそれを良しとせず独自の元号を用いましたが、大々的に使うことはやはり難しかったのでしょう。初期の元号は、記録はあっても使用例は少なく、そもそも元号が付けられていない年も多い、というものでした。
今のように広く使われるようになったのは「大宝」(701年)からです。日本初の本格的な法律である「大宝律令」で、公文書に年を記す時には必ず元号を使うよう定められたのです。翌年に遣唐使が派遣されているので、中国にはこの時に独自元号の使用を認めさせたのかもしれません。
「大宝」以降は連続して元号が使用され、現在の「令和」は248個目です。平均すると約5年半ごとに改元されていたことになります。平成の31年や昭和の64年と比べると随分短いですが、これは代替わりによる改元の他、珍しい動物や美しい雲などの吉兆による祥瑞改元、自然災害や疫病などの災いによる災異改元などがあったからです。
このうち飛鳥・奈良時代に多かったのは祥瑞改元です。白い雉による「白雉」、珍しい模様の亀による「霊亀」、美しい雲による「慶雲」など、由来となった事象の文字をそのまま使っているのも特徴です。
平安時代最初の元号「延暦」は、桓武天皇の即位による改元です。桓武天皇は平安京への遷都で広く知られていますが、「延暦」も元号史上で重要な意味を持ちます。「暦が延びる」、つまり天皇の統治が長く続くようにという意味の元号で、それまでの亀や鳥など具体的な事象ではなく、政治への理想という抽象的な概念を示すものになったのです。母親が朝鮮半島系の渡来氏族である桓武天皇は、生まれに対してのコンプレックスがあったようなのですが、それを逆手に取り、自分は大陸の豊富な知識を母親から受け継いでおり、中国の思想を取り入れた新しい元号、新しい世の中を作れるのだということを示そうとしたのでしょう。
結果として「延暦」以降、元号のステージが上がったと言えます。それまでの具体的な事象だけを示す元号とは違い、漢字文化による理想を皆で共有することが可能になり、文字の選択肢も広がりました。そして、この元号のあり方が現代の「平成」や「令和」にまでつながっています。
平安時代になると、元号の選定に参加した皇族や貴族が詳細を記録に残すようになり、元号がどのようにして決められたのかがわかります。まず、天皇から改元の指示を受けた大臣が、現在の大学教授にあたる文章博士などに命じて、元号案と出典となる古典を記したものを提出させます。次に、現在の内閣にあたる公卿たちで会議を行い、提出された案について議論をし、2~3案に絞ります。絞った案を天皇に報告し、天皇から1案に絞るように命じられて、再び議論をして決定します。それを受けた天皇によって改元が宣言され、全国に通知されます。時代によっては摂関家などの権力者の意思が決定に反映されることもありましたが、最終的には必ず天皇が決めるという形になっており、報告された案に気に入るものがなければ自ら案を出すこともありました。
改元の理由は災異によるものが多くなります。災異の種類も、日食・彗星などの天変、地震・火事・飢饉・疫病などの地異、戦乱などの人災まで、多岐にわたります。また、中期以降は、大きな変革が起こるとされた干支(十干十二支)の年にはあらかじめ改元しておく革年改元も行われるようになりました。さらに、鎌倉時代になると京都だけではなく鎌倉で災異が起こった時にも改元が行われるようになったため、鎌倉時代はひとつの元号の使用期間が約3年と短く、元号の数が最も多い時代となっています。
─今、元号や法制史を研究しているのは、最初からやろうと決めていたわけではなく、様々な先生との出会いの結果だという久禮先生。そんな先生ご自身のことについてもお話を伺いました。関塾生の皆さんへのメッセージもいただきましたよ!
私の専門の法制史とは、法律とは何かを考えていく基礎法学という学問のうちのひとつです。世界には様々な法律がありますが、それらの法律で禁止されていなければ何をやってもいい、というわけではありませんよね。法律が存在しなかった時代にも地域でも守るべきルールはありました。近代化して社会(国)全体を法律で規定するという西洋の考え方が入ってきた時に、日本でもそれを取り入れなければなりませんでしたが、そのままというわけにはいきません。法律で規定されていなくても日本社会に慣習として存在しているルールというのは確かにあって、それらとどう折り合いをつけていくのかが問題となりました。そこで改めて、日本の法律の歴史、歴史上のルールのあり方について研究しようと、これが日本法制史研究の始まりです。
最初から法制史に興味があったわけではなく、高校生の頃は民俗学者になりたいと思っていました。社会の先生が淡水魚の研究をされていて、淡水魚に関する民俗習慣について文献からの研究方法などを話してくださいました。元々読書や歴史が好きだったので、おもしろそうだと。でも民俗学は現地調査が欠かせない学問で、いろんな地域に出かけて調べるのは大変そうだから嫌だなと思いました(笑)。そんな時、同志社大学文学部に文化史という美術や歴史を全て扱い、民俗学の知識も使うジャンルがあると知って進学を決めました。
元号の研究を始めたのは、大学院の修士課程で所功先生にお会いしてからです。法制史を知り、京大の先生からお声がけいただいて博士課程はそちらに進んだのですが、所先生も学部は文学部で、同じ文学畑の法制史研究者ということで共感を持ってくださっていました。それで所先生が『日本年号史大事典』(雄山閣)を作る時にお手伝いすることになりました。他にもお手伝いされていた方はいたのですが、当時私は時間があったので、論文などの資料をたくさん集めて送っていたら、暇そうだから仕事をするだろうと思われたみたいで……(笑)。執筆は5人で分担したのですが、結局3分の1くらいを私が担当しました。書いても書いても終わらなくて、大変でしたね。
所先生はとても真面目な方で、資料が遠方にしかない時も自分の目できちんと確かめたいと足を運ばれます。私もそれにならって現地調査に出向く機会も増えました。現地調査があまりしたくなくて民俗学を選ばなかったのですが、結局、避けて通ることはできませんでした(笑)。でもそうやって研究していると、うちにもこういう資料があるなど教えていただけて、そこがおもしろくもあります。
国内に2つの政治勢力が存在した南北朝時代は、北朝と南朝でそれぞれ異なる元号を用いていました。数も多く、何年から何年まで使われていたかなどの確認がややこしい時代ですが、どちらの年号を使用しているかで地方の勢力図など当時の情勢を知ることができます。南北朝の例から、元号は自らの権力の正当性を主張するものでもあったと考えられ、室町以降になると幕府も改元に介入するようになります。
戦国時代も、織田信長や豊臣秀吉といった権力者が、年号の決定に自らの意思を反映させたり、改元を行うよう申し入れたりしています。とはいえ、元号案を提出したり決定のための会議をしたりという改元に関する一連の儀式は朝廷によって行われるものであったことに変わりはありません。そのため戦国時代は、朝廷の弱体化や戦乱を避けた貴族の地方への移住などにより、改元の意欲はあっても実現が難しいという状況が生まれ、従来通りの改元を行うことが難しくなりました。
江戸時代になると、幕府の影響が大きくなり、天皇・朝廷を規制するために幕府が定めた『禁中並公家諸法度』の中に、改元についての規定も設けられました。その内容は、朝廷の貴族は改元の儀式も忘れてしまっているだろうから元号は中国の過去の例から決めるように、そして儀式に再び習熟してきたら日本古来のやり方で改元を行うように、というものでした。以後、江戸時代の改元は、朝廷から元号案を幕府に送り、将軍や側近が決定したものを朝廷が公布するという幕府主導の形で行われることになりました。
また、江戸時代の特徴として元号に対する一般の人々の声が多く残されているという点も挙げられます。例えば、1772年には火事により「明和」から「安永」に改元が行われましたが、改元以前から人々の間では「明和9年」は「迷惑年」になるから不吉だという噂が立っていました。そういった噂によって改元が行われた例は他にもあり、幕府は元号への不満には政治や社会への不満が現れていると考え、注意深く対処していたようです。江戸時代は、元号への人々の思いなども改元に影響を与えていたのです。
江戸時代後期になると、頻繁な改元への批判が出てくるようになります。皇帝1代につき1つの元号(一世一元)となっている中国のあり方を日本でも採用するべきだと、当時の学者が幕府に進言していました。これを受けて、「明治」以降、一世一元制がとられることになります。その後、元号の規定も盛り込んだ『皇室典範』が定められ、「大正」「昭和」への改元が行われました。
そして、戦後の象徴天皇制のもとで『皇室典範』の内容が大きく変わり、元号の規定がなくなりました。そこで日本政府は「元号法案」を作成したのですが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に反対され、成立しませんでした。このため、「昭和」は明治の『皇室典範』の元号規定の基となった行政官布告を根拠として使用されていました。新たな規定となる「元号法」が制定されたのは昭和54(1979)年であり、昭和64(1989)年の「平成」改元はこれに基づき行われました。
皆さんご存じの通り、昨年「平成」から「令和」への改元が行われました。約200年ぶりの譲位(生前退位)による皇位継承であること、「平成」と同様「元号法」に基づくものでありながら皇位継承の一か月前に公表されたこと、初めて国書を出典とするものであること、と多くの意味で元号史上に残る画期的なものとなりました。特に、改元が早くからわかっていたことの影響は大きく、新元号の予想やこれまでの元号制度について報道やテレビ番組での特集が組まれるなど、改元を取り巻く環境は一変しました。元号や皇位継承についての仕事が急に増えて、私も随分忙しくなりました(笑)。
新元号については、元号研究の第一人者でいらっしゃる京都産業大学名誉教授の所功先生も、私も、出典が国書になることは予想していました。前回の「平成」改元の時にも国書の案は出ており、今回はそうなるだろうと。しかし、『万葉集』からというのは予想外で大変驚きました。元号というものは、政治的な理想を描くものでないといけないと思っていたからです。これまでずっとそうであったし、「平成」も「天地にも国の内外にも平和が達成される」という意味で、こういう国を作りたいという気持ちが入っています。そういった理想が漢籍からとられていたのです。ですから『日本書紀』など国のあり方について記した歴史書が出典になると思っていました。『万葉集』は文学作品であり、「令和」の出典となった箇所のように、宴会が楽しいなどといった素朴で個人的な感情が中心で、国や政治の理想を語るような表現はないのです。そんな『万葉集』が出典となった「令和」には「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味がこめられているとのことでした。
改めて考えてみれば、多様化や国際化が進む現代社会で、政治的理想を語るというのは難しくなっています。理想を語るのは素晴らしいことですが、時にはその理想が他者を傷付けてしまうこともあるのだと、この平成の30年で私たちは知りました。立場や意見が違っても、対立するのではなく認め合っていこうという世の中であり、「令和」は新しい時代に合った元号だと感じます。政治的ではなく文化的な意味をこめるという方向に元号制度の舵を切ったのです。おそらく、今後の元号もこの流れを受け継いでいくでしょう。もし出典が漢籍に戻ったとしても詩歌などの文学作品も選択肢に入れることができ、従来の元号の可能性や枠をぐっと広げたことになります。この変化は、国書であるという点以上に大きな意味を持っていると思っています。
文化や歴史というのは学んでもすぐに役に立つものではありません。今の時代は、そんなことよりもコンピュータプログラミングや英語を勉強した方がいい、研究をするのでも理系の方がいいと言われますが、学問とは理系文系にかかわらず明日すぐに役に立つとは限らないものです。ですが、元号研究のように、普段役に立たないことが大きな転機の時に役に立つということがあります。他にも、戦前は海外に留学するならヨーロッパ、中でもドイツが主流で、アメリカ研究なんて役に立たないという風潮でしたが、戦後はがらっと変わってアメリカ留学の経験がある人が意見を求められるようになりました。ノーベル賞を獲るような方も、すぐに役に立つ技術ではなく当時は何をしているのだろうというような研究をずっとされていて、世の中が変わった時にその知識が技術として活用され、初めて世界的に評価されたのです。また、理系と文系は両立できないものでもありません。京都産業大学教授・細胞生物学者の永田和宏先生は、宮中の歌会始の選者もされるような一流の歌人でもいらっしゃいます。
皆さんには、小中高大と長い学習の期間があります。文化や歴史はすぐに役に立たない学問の代表のようなものですが、そういうものにも関心を持って勉強してもらいたいと思います。結果的には理系や語学の道に進んでも構いません。永田先生のように両立している方もいらっしゃるし、外国語でも日本語や日本文化をわかっている方が翻訳しやすくなります。東京大学名誉教授の伊東俊太郎先生は、実に15か国語を自由に使われる語学の天才で、ヨーロッパの科学史の研究をしつつ、日本人がそれにどう向き合うかを論じられています。私も様々な先生から多くのことを学んで、結果として今の研究があります。大学に入っても社会に出ても、専門以外のことにも広く関心を持って、学び続けていってください。