- わたしの勉学時代
国立大学法人高知大学は、高知高等学校、高知師範学校、高知青年師範学校を母体とし、「教育基本法の精神に則り、地域社会及び国際社会に貢献しうる人材育成と学問、研究の充実・発展を推進する」ことを建学の理念に、1949年に創立しました。新たなる目標として、地域に軸足を置いたSuper Regional Universityとなることを掲げ、2018年4月より学長に就任された櫻井克年先生にお話を伺いました。
【櫻井 克年(さくらい・かつとし)】
1957年生まれ。大阪府大阪市出身。農学博士(京都大学)。
81年3月京都大学農学部卒業。86年5月同大学大学院農学研究科博士後期課程研究指導認定退学。同年10月より同大学農学部助手。89年7月より高知大学農学部助教授。91年カナダ・サスカチョワン大学土壌科学科研究員。92年4月より愛媛大学大学院連合農学研究科助教授を併任。97年4月より高知大学農学部教授、愛媛大学大学院連合農学研究科教授。2004年4月より高知大学副農学部長。学長特別補佐、経営・管理推進本部長、理事、副学長と歴任し、18年4月より現職。専門は熱帯土壌学。
生まれは大阪市内で、7歳から交野市に住んでいました。父、母、妹の4人家族で、全員クリスチャンです。当時キリスト教はあまり盛んではありませんでしたが、私が5歳の時、教会のイベントに参加したのをきっかけに家族で通うようになったのです。また、同じ頃にピアノを習い始めたら、今度はそれをきっかけに母が音楽教室等の経営を始めました。公務員をしていた父は慎重派だったのですが、母は行動派で、全く違うタイプでしたね。けじめに厳しく、遊んでいいのは宿題をきちんと終わらせてからでした。勉強は嫌いではなかったので、ささっと終わらせていましたが、昆虫採集など外で遊ぶのが大好きで、時間を忘れて帰りが遅くなってしまい、結局叱られていました(笑)。
中学生の頃はギターに夢中でしたね。母の教室で講師をしていた大学生に安いギターをもらって弾き始め、すぐにもっと良いものがほしくなり、学校のテストで良い点をとったらと親と約束して買ってもらいました。どの教科もきちんと勉強していたので、高校受験はそれほど心配することなく、大阪府立四條畷高校に進学しました。
高校では友達とバンド活動を始め、曲も作るようになりました。顧問の先生に誘われて合唱部にも入ったのですが、部員が5人しかおらず全く楽しくなかったので、2年で部長を任された時、1年の全クラスを回って合唱を披露して部員を勧誘したら、30人くらい入ってくれました。指揮者として部員をまとめるのは、やりがいがあって楽しかったです。ただ、音楽活動に熱中するあまり、勉強は少し疎かに……。ある日、英語の授業で「単語がわかりません」と言ったら、先生に「辞書を1冊覚えるぐらいじゃないとあかん」と叱られて奮起。とにかく最後まで辞書を読んでみようと始めたら、だんだん単語の仕組みがわかって覚えるのがおもしろくなり、3周くらいして、英語が得意になりました。
大学受験は、子どもの頃に慣れ親しんだ野山を駆け回るような分野が一番合っていそうだと農学部、化学も好きだったので、農芸化学科のある京都大学を志望しました。受験勉強は3日間英語をしたら3日間数学をするという感じで、やりたいと思った教科に集中するスタイルでした。模試では上位で合格圏内に入っており、現役で受かるだろうと思っていたのですが、試験後に自己採点したら数学で大問ひとつを丸々落とす大きなミスをしてしまっていました。これは落ちたとわかり、結果もやはり不合格。解けたはずの問題だったのでものすごく落ち込みましたが、なんとか気持ちを切り替えて浪人を決めて予備校に通い、翌年は合格できました。予備校で読解を鍛えたことで英語がますます得意になりましたし、今では挫折を味わったことも良い経験だったと思っています。
京大は自由な校風なので、入学したら絶対に遊んでやろうと思っていました(笑)。学生運動の終わり頃であまり授業がなかったこともあり、1~2回生の時は勉強よりもバンド活動に集中していました。3回生で専門課程が始まると、農芸化学科は毎日午後に5~6時間実験がありました。実験は自分でやらないと意味がないので真面目にやりましたが、他の授業は相変わらずで、テストの時は優秀な友人たちのノートに随分助けられましたね。大学院への進学は早くから決めており、4回生は勉強モードに切り替えて、卒論や受験勉強に集中しました。世界で活躍したかったので最初はアメリカの大学院へ行くつもりで、入学許可もいくつかもらったのですが、全額の奨学金がもらえず、費用の面で断念して、京大の大学院へ。
土壌学を専門と決めた理由は、尊敬できる先生に出会ったからです。恩師の久馬一剛先生は、東南アジアの土壌研究の第一人者で、超一流の研究者なのですが、気さくなお人柄で、一緒に他県の現地調査へ行った際、様々な立場の人からの質問に全て的確に答えて指示をされていて、大変驚きました。京大では、教授も学生も同じ研究者であり、学生でも自らの専門分野に関しては教授よりも知っているべきだという教育を受けますが、久馬先生は私がいくら一生懸命勉強してもより多くのことをご存じで、とても敵わないのです。にもかかわらず、どんな人にも気さくに接されていて、自分もこんな風になりたいと思いました。
初めて海外に出たのは博士課程の時です。JICA(国際協力機構)の仕事で1か月半ほどインドネシアに土壌調査に行きました。研究室の先輩にあたる東南アジア研究センターの先生が現地にいらして、海外調査の進め方をその方から教わりました。博士の後は京大で助手として働いていたのですが、久馬先生に「高知大学で人をほしがっているから行ってくれないか」と言われて、高知へ来ました。
その時、「高知へ行ったら帰って来るな。土なんて世界中どこにでもあるんだからどんな土地でも仕事はできる、そこで死ぬ気でがんばれ」と激励されたことを覚えています。助手時代は東南アジアでの海外調査が主だったのですが、当時、高知大学では誰も海外調査をしていませんでした。そこで、ちゃんと海外調査へ行けるような環境を築き上げて、多い時は年間120日ほど海外に滞在していました。研究自体はどこでもできますが、土は違います。カナダではマイナス55度、バングラデシュではプラス45度を経験して、現地で実際に土を掘ると様々なことがわかると実感しました。
そして現在、学長として掲げているのは、Super Regional University。地域の大学といえば高知大学だと日本中から言われるようになることを目指しています。高知だからこそ学べること、この地域でないと学べないことを大切にして、高知から世界へ様々なことを発信していきたいです。
今は効率ばかり求める風潮ですが、無駄なことこそ大事、というより人生で無駄なことなどひとつもありません。とにかくやってみて、もし失敗したとしても、その経験は無駄にはなりません。どうすればいいか考えるきっかけになります。様々な経験を通して、本当に大事なことに気づく力、考える力がつくのです。学校の勉強もそのひとつで、教科書に載っていることを学べば必要な知識が幅広く身につくようになっています。それを必要な時に使えるかどうかが大事なのです。必要な時、いざという時を判断するのは難しいですが、やはり経験を積むことでわかるようになります。また、今がその時だと思ったらすぐに行動に移せる瞬発力と、それをやりきる集中力も磨いておきましょう。
そして私は、人間も自然の一部だと思っています。自然の生態系の中で、この先の10年、20年、人間が楽しく生きていくにはどうしたらいいのか、そんな風に考えると自分や社会にとって大事なことは何か、幸せとは何か、ということにも気づけるのではないでしょうか。だから皆さんには、がんばりすぎず、悩みすぎず、雨が降る時があっても仕方ないと、自然体で日常を楽しんでほしいと思います。
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