- わたしの勉学時代
国立大学法人長岡技術科学大学は、実践的な技術の開発を主眼とした教育研究を行う大学院に重点を置いた工学系の新構想大学として、1976年に開学。以来、〝VOS〟(Vitality[活力]・Originality[独創力]・Services[世のための奉仕])をモットーに、未来社会に貢献できる実践的・創造的能力を備えた指導的技術者を養成しています。現学長の鎌土重晴先生は、技術科学大学の第1期生として、高等専門学校から進学されたそうです。
【鎌土 重晴(かまど・しげはる)】
1957年生まれ。愛媛県出身。工学博士(豊橋技術科学大学)。
78年3月新居浜工業高等専門学校金属工学科卒業。80年3月豊橋技術科学大学工学部卒業。82年3月同大学大学院工学研究科修士課程修了。同年4月より津山工業高等専門学校金属工学科助手、90年より講師。91年4月より長岡技術科学大学助手、92年より助教授、2004年より教授。理事・副学長を経て、21年4月より現職。専門は材料加工・組織制御工学、構造材料・機能材料工学。
愛媛県北宇和郡(現 宇和島市)に生まれ、豊かな自然に囲まれて育ちました。海が近く、友達と海水浴をしたり、手漕ぎ舟で海に出て蛸を獲ったりしていました。両親は漁業と農業を兼業していて、おいしいものをたくさん食べさせてもらいましたね。私は5人兄弟の4番目で兄が2人と姉と妹がいて、両親よりも兄や姉に叱られることが多かったので、幼い頃は怖かったです(笑)。
スポーツも大好きで、中学では野球部に入りました。野球部はとても厳しくて、休みが年に3日ほどしかなく、毎日練習に明け暮れていました。文武両道の方針で、成績が下がると監督に注意されるのですが、勉強との両立は大変でしたね。家では宿題をするだけで精一杯なので、授業中になるべく理解できるよう、先生の話をしっかりと聞いていました。数学が得意で国語が苦手だったのですが、国語の先生に勉強方法を尋ねたら「試験範囲を10回読みなさい」と言われて、その通りにしたら本当によく理解できて、繰り返すことの大切さを実感しました。
3年生の秋、教室に新居浜工業高等専門学校の案内が掲示されていて、金属工学科の欄に「産業の礎は金属」と書かれていました。それを見て社会の基盤となるような技術を学んでみたいと思い、数学の先生にも勧めていただけたので受験を決めました。部活を引退して持て余していた時間を勉強にあてた、という感じでしたね。
新居浜高専は1~2年生が全寮制の4人部屋で、同室が熱心に勉強する子ばかりだったので、影響されて私もそれまでしたことのなかった予習復習をきちんとするようになったのですが、これがとても良かったです。理系科目の進みが速く、授業中は板書を写すだけで苦労していましたし、先生が独自に専門的な内容を教えてくださることも多かったので、予習復習をしなかったらついていけてなかっただろうと思います。試験対策もすごくて、1年生の時に先輩から「試験前にはA3サイズのわら半紙1000枚と赤ボールペン1本を買って、それらが全部なくなるまで書いて覚えるように」と教わって、毎回そうしていました。
とはいえ、勉強ばかりではなく、皆それぞれに得意なことを持っていて、いろいろな友達ができてすごく楽しかったですね。国領祭(学園祭)では仮装行列があって、数か月かけて準備をするのですが、得意なことを活かせるよう役割分担し、一致団結して取り組んでいました。一般的に高校生は生徒と呼ばれますが、5年制の高専では1年生から学生と呼ばれ、行事などは全て学生が中心となって行います。責任を持って行動する心構えなど、上級生からも様々な指導を受けました。
高専卒業後は就職を選ぶ人が一番多かったのですが、大学へ進学(工学部3年生へ編入)する人もいましたし、高専を3年で辞めて医学部など違う分野の大学を受ける人もいました。私の場合は、金属という専門分野がすごく自分に合っていると感じていました。1年生の時の国領祭で学科の専門分野展示の担当になり、図書館に通って調べて勉強したことがとてもおもしろかったのです。そんな時、ちょうど私たちが卒業する年に高専と連携した教育を行うための新しい大学ができると先生から聞いて、行ってみたいと思いました。そして4年生になる頃には、具体的な場所や学科構成もわかったので、豊橋技術科学大学を志望することに決め、推薦で合格しました。
技術科学大学は、開学当初から修士課程までの一貫教育を特色とする大学でしたので、当然私もそのつもりで進学しました。金属だけを扱う学科はなく、機械分野についても学ぶ必要があって大変でしたが、広い範囲の勉強ができて良かったと思います。学部では、全く新しいことをするのではなく、高専で学んだ内容に対して違う見方を身につけるという感じだったのですが、大学院は全く違って、研究に必要なことを深く学べました。
1期生で就職実績などはまだありませんでしたが、オイルショックから数年経って景気が回復してきていた頃で、先生方もご尽力くださったので、同級生は皆、希望通りの就職ができていたように思います。私は、津山工業高等専門学校で助手として働き始めました。もとから教育に興味がありましたし、高専時代も野球をずっと続けていたので、高校野球の監督もやってみたかったのです。高専の場合、3年生までは高校野球にも出て、4年生以上は高専の大会にだけ出るのですが、私が監督になった時、津山高専は高専の大会にしか出ていませんでした。そこで学生に聞いてみたら、やはり高校野球にも参加してみたいと言うので復帰させました。学生はすごく喜んで一生懸命頑張ってくれ、試合ごとに強くなっていくのが目に見えてわかりました。様々な経験をすることが学生にとって有益なのだと実感しましたね。
その一方で研究も続けており、博士号を取得した頃、長岡技術科学大学で私の研究分野の若手をほしがっているという話をいただいて、移ってきました。長岡技科大は、当時からとてもグローバルな大学で驚きました。海外で博士号を取得したという教授も多かったですし、学生もどんどん海外へ派遣していたのです。大学院修士課程へ進学する上での必修科目である実務訓練では、企業や研究所で5~6か月間の実習を行うのですが、実習先が海外であることも多く、海外を経験した学生の成長には目を見張るものがありました。現在はコロナ禍で留学が難しい状況ですが、オンラインツールを活用したり、既に在籍している留学生と交流したり、様々な方法でグローバルな考え方が身につけられるような環境を今後も作り上げていきたいと思っています。
関塾生の皆さんには、自分の意見をきちんと持って行動できるようになってほしいと思います。興味があることをいろいろと調べて、自分がどうしたいのか、どういう方向に進みたいのかを考えることが大切です。そのためには様々なことを経験し、たくさんの人と交流してください。その中で自分とは違う意見を持つ相手に出会った時は、お互いにどこまで譲れるかを考え、否定し合うのではなく認め合いましょう。これからの社会で国際人として活躍するためには、多様な考え方や異なる文化を認め合うことが欠かせません。
そして、保護者の方には、お子さんの考え方をできるだけ尊重していただきたいと思います。子どもはいろいろな意見を持っていますが、今の日本社会では成長するにつれ、だんだんと抑えつけられ、自分の意見を言えない環境になってしまっているのではないでしょうか。そうではなく、子どもたちがある程度自由にできる環境を整えることが私たち大人の役目です。それに、子どもの柔軟な意見は、大人にとっても重要な気づきとなることがあります。お互いの意見を認め合うことで、一緒に成長していくことができるのです。
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