- わたしの勉学時代
モノづくりのまちで有名な大阪府東大阪市に本部を置く近畿大学は、14学部48学科を擁する西日本最大級の私立大学。クロマグロの完全養殖に代表される数々の最先端研究は「実学教育」がもたらすもので、実践的な学びを求めて毎年大勢の受験生が門をたたきます。一般入試の志願者数は8年連続で日本一。そんな人気校を率いる学長の細井美彦先生は、中学生の頃から常にポジティブ思考で前に進んでいたそうです。
【細井 美彦(ほそい・よしひこ)】
1956年生まれ。兵庫県西宮市出身。農学博士(京都大学)。
79年3月京都大学農学部畜産学科卒業。81年3月同大学大学院農学研究科畜産学専攻修士課程修了。87年3月同博士後期課程修了。胚培養士として米国ペンシルベニア病院に勤務。帰国後、京都大学農学部助手。93年近畿大学生物理工学研究所講師、97年同大学生物理工学部助教授、2002年より教授。10年以降、同大学で生物理工学部長、先端技術総合研究所長、副学長を歴任し、18年4月より現職。専門は生殖生理学。
甲子園球場は皆さんも知っているでしょう。私はそのすぐ近くで生まれ、18歳まで西宮市で過ごしました。小学生の頃はスポーツがあまり得意ではなく、いわゆるオタク的なことを楽しんでいました。田んぼや川で捕まえてきた昆虫や魚を自分で作った*1ビオトープに放し、飼うだけでは満足できずに卵を産ませて育てていました。
父は外国船の船長で、仕事柄ほとんど家におらず、ヨーロッパ航路の時は1年近く不在にすることもありました。幼い頃の妹は、帰ってきた父を「知らないおじさん」だと思ったようで、よく泣いていましたね(笑)。そんな家庭環境でしたから、家のことはすべて母が取り仕切っていました。
住んでいた地域には有名私立校が点在しており、当時から中学受験をする生徒は少なからずいました。いとこも中学受験で中高一貫校の甲陽学院に進み、母は常々、「あそこはいい学校」と口にしていました。そんな刷り込みもあり、私も甲陽学院中学校を目指して塾に行ったり家庭教師に教わったりしたのですが、小学校の時は勉強が嫌いで……。家庭教師が来る日はわざと野球チームに入り、「途中で抜けると友達に迷惑がかかる」などと理由をつけては勉強から逃げていましたね。こんな調子でしたから当然甲陽学院には受からず、地元の公立中学に進みました。
*1虫や魚、植物などが生態系を保って生息する空間。水槽や小鉢で人工的に作ることができる。
「中学生になったから、これからは勉強しなさいとは言わない」。中学に入学してすぐ、母は私にこう宣言しました。膝を突き合わせ、いつもと違う雰囲気を作り、あらたまった口調で伝えることで、私の自覚を促そうとしたのでしょう。
塾には中学入学後も通いましたが、最初に入った塾は先生が不慮の事故で亡くなり、夏休み明けから別の塾へ。ここの数学の進め方が私にとても合っていました。先生は一切授業はしないのですが、質問すれば100%答えてくれる――そんなスタイルでした。私は中学受験を経験して勉強のやり方はわかっていたので、先取り学習にも取り組み、わからないところはその都度先生に質問し理解を深めました。これが好循環となり、数学は中3で高1の範囲を終わらせたほどです。
高校は地元の県立鳴尾高校に進んだのですが、失敗した中学受験の雪辱を果たすべく、最難関の灘高校も受験しました。無謀なのは百も承知です。不合格だったものの、思った以上に点数が取れ、「勉強はやった分だけ結果が出る!」と納得できました。この楽観的な性格は、私が成長するうえで重要なファクターになっています。
高校入学後は、数学だけ塾を継続し、それ以外は学校の授業をしっかり聞いて自分で机に向かいました。理科はどの科目も好きで、特に得意だった物理は定期テストで毎回95点以上を取っていました。高2で初めて予備校の模擬試験に挑んだのですが、物理はまさかの全問不正解。0点という結果でした。工学部進学を望んでいた母が懇談の席で「大丈夫でしょうか……」と不安気に尋ねたのも当然です。でも、担任の先生は平然と「学校では優秀だから問題ないですよ」と。当時の公立高校は教育要綱の最低ラインを教えればよいという方針でした。一方、予備校は難関大学を見据えているので、問題レベルに大きな差が生じるのは当たり前。そんな現実を目の当たりにしても落胆しないのが私の図太さです。「選択で物理をやめて好きな生物に専念できる!」と心の中でガッツポーズをしました(笑)。
京都大学に興味を持ったのは、栽培植物の起源に関する本を読んだことがきっかけです。情報を集めるうちに、植物遺伝学の第一人者である木原均先生が農学部の農林生物学科で研究されていたと知り、ぜひそこで勉強したいと思いました。そこから一気に受験勉強のスイッチが入り、親に頼んで予備校の予科(高校生が通う夕方からのコース)にも通い始め、入試の点数はギリギリでしたが何とか現役で合格できました。
当時の京都大学農学部は10の学科があり、合格した300人が入試の成績をもとに第1希望から順に振り分けられます。農林生物学科を希望したのですが、20倍の競争率に敗れ、畜産学科へ。ただ、ここでは興味があった育種遺伝を動物で学べるとわかり、すぐに気持ちを切り替えました。
京都大学は学問の自由度が高いので、農学部の学生であっても医学部や理学部の授業を受けることができました。私は理学部の生物学科の授業も受け、遺伝繁殖学や生殖生理学の知識を高めました。3年から専門課程が始まり、4年生では「ウサギの凍結精子による体外受精の研究」をテーマに卒業論文を書きました。
大学院に進もうと思ったのは、学部での学びを活かしてさらに研究し、生殖医療や不妊治療に貢献したかったからです。学部を卒業した前年の1978年は、イギリスの生物学者ロバート・エドワーズが産婦人科医のパトリック・ステプトーと共に体外受精の技術を完成させ、世界初のいわゆる*2試験管ベビーを誕生させた年。その業績は後のノーベル生理学・医学賞の受賞につながります。私はその分野に携わっていることが嬉しく、大学院でも精力的に研究に取り組みました。ラボに来られた恩師の友人の教授に招かれて、米国のペンシルベニア病院に移り、胚培養士の技術者として不妊治療の現場で経験を積みました。
*2母体から卵子を取り出し、体外(ガラス容器)で人工授精させて産まれる赤ちゃんのこと。受精卵は再び母体(子宮内)に戻され、着床妊娠に至れば胎児へと成長する。
帰国後は京都大学農学部で助手になり、1993年から近畿大学で教鞭を執り、現在に至っています。大学教員の仕事は自らの研究と学生に教えることが二本柱です。近畿大学のモットーは「実学教育」で、私が取り組んできた育種繁殖学や生殖生理学の分野でいえば、人間の不妊治療や希少動物の種の保存、食糧問題などに貢献できることです。そうした「実学」の意義と価値を学生に伝えることが教員の使命であり、学生たちは大学で学んだことをベースとして将来、社会の役に立ちたいと勉強に励んでいます。
教員として長年学生と接し、親の立場で子育ても経験してあらためて感じるのは、教える側が答えや結論を先に示すのはよくないということです。例えば、子どもが「これはどういうこと?」と尋ねてきた時、親が全部教えるとその時点で“自分で考える”ことをやめてしまいます。大学生も同じで、教員が「こうしなさい」とあれこれ指示を出しすぎると、言われた側はその言葉に従うだけになり、発想力や独創性が育ちにくくなります。
勉強も研究も、うまくいく時があれば、すぐに結果が出ない時もあります。そういう経験を幾度も重ね、その度に工夫すべき点や改善点を自分でじっくり考えて初めて、次のステップに進むことができます。考える力は、こうして育まれ伸びていくものです。子どもの教育に関わる時、大人はあまり口出しせず、“見守る”くらいの立ち位置でいるのがちょうどいいのかもしれませんね。
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