- わたしの勉学時代
教育者や教育支援者、学校教育にかかわる研究者を養成する東京学芸大学は、教育学部のみを擁する国立大学法人です。2022年3月に文部科学大臣より日本の教育者養成を先導する「教員養成フラッグシップ大学(後述)」の指定を受け、今後の活動にますます期待が寄せられています。障害児の心理などがご専門の國分充先生は、高校の進路指導で出会った先輩の話に心を動かされ教育学部への進学を決められました。
【國分 充(こくぶん・みつる)】
1955年生まれ。宮城県仙台市出身。博士(教育学)(東北大学)。
80年3月東北大学教育学部卒業、82年同大学大学院教育学研究科博士前期課程修了、88年同博士後期課程単位取得退学。東北大学教育学部助手を経て、91年金沢大学教育学部助教授。99年東京学芸大学教育学部助教授、2003年同大学教育学部教授、10年同大学総合教育科学系長、14年に同大学理事・副学長を歴任し、20年4月より現職。専門は障害児の心理・生理・病理、心理学史。
生まれたのは福島県ですが、小学校に上がる時に宮城県の仙台市に移ったので、幼少の記憶をたどると仙台で過ごした日々が思い出されます。小学生の頃は落ち着きのない子どもでした。授業中に立ち歩くこともあったので、多動性の特性がある発達障害児だったのかもしれません。*ADHDがまだ世の中に周知されていない時代でしたから、母は私のことで随分苦労し、心配もしたと思います。
ADHDの特性のひとつに、興味のある分野に対して非常に高い集中力を発揮するというものがあります。私もその一面があり、昆虫が大好きだったので、同じく虫好きの友達と一緒に図鑑を丸一冊ノートに書き写すなどしていました。
家族は両親と妹の4人です。教育熱心な家庭というわけではなかったですが、父は社会科学系の大学を出ていたので、家には文学や社会科学の本があふれていました。新聞を読んでいても、その類の記事があれば教えてくれましたね。子どもの頃から教養を身につけさせておこうと考えてくれていたのだと思います。
*Attention Deficit Hyperactivity Disorderの略。不注意、多動性、衝動性などを特性とする神経発達障害や行動障害のこと。
小中学校時代は毎日勉強する習慣はなく、授業中も私語ばかりで、よく先生に叱られていました。ただ、中学生になると定期テストがあるため、その時くらいはちゃんとしなければという意識はあり、テストの1週間前頃から集中的に勉強していました。
得意教科は国語と英語でした。国語は父の影響で本をよく読んでいたからか自然とできましたが、英語は個人塾のような感じで英語を教えている先生のところへ友達と2~3人で通っていました。苦手だったのは数学です。中学1年の最初に習った正負の数で、符号がついた計算の論理が理解しきれず、機械的に解き方を覚えはしましたが、かなり苦労した記憶があります。
しかし受験期になると、そうした勉強ではごまかしきれず、所属していた応援団を引退した中学3年の夏休み明けから本格的に受験勉強を始めました。当時は深夜放送がちょっとしたブームで、ラジオを聞きながら夜中の3時頃まで勉強し、夜食に即席ラーメンを作って食べるのが楽しみでした。おそらくその頃が人生で一番勉強した時期でしょう。努力の甲斐あり、県立の進学校、宮城県仙台第一高等学校に入学できました。
父が転勤のある会社員だったため、高校時代は2度の転校を経験しました。1年目は仙台一高で学校生活を送って、2年目は青森へ。3年目で再び仙台一高に戻りました。春が来るたびに転入試験を受けたというのは、なかなか珍しい経験ではないでしょうか。
当時の仙台一高は、学生運動の影響などで大きく変わった学校で、とても自由な校風でした。制服もなく、高校3年の授業は5時限までで、あとは好きに過ごしてかまわない。そんな放任主義が性に合い、青森の高校は随分窮屈に感じました。ただ、仙台一高は修学旅行などの学校行事もない男子校だったので、青森にいた時に修学旅行に行けたのはとてもラッキーでしたし、共学だったのも嬉しかったです(笑)。修学旅行先の京都で、古都のすばらしい文化に感化され、大学では哲学か美術史を専攻して将来は美術館か博物館の学芸員になりたいと思いました。
そして高校3年の時、卒業生の現役大学生に大学生活を話してもらうという進路指導行事で文系学部に絞って話を聞きました。しかし、期待した文学部の話は全くおもしろくなく、関心を持ったのは教育学部でした。障害児教育を専門としていた先輩が、障害が理由で学校に行けない子どもがいることを語ってくれました。難病の子どもたちのための国立病院が地元にあることは報道を通じて知っていましたが、その知識と先輩の話がつながり、とても感銘を受けたのです。「大学で障害児の教育や支援の勉強をしたい」。そう心に決め、地元の東北大学の教育学部で学べることを知って、1年浪人して進学しました。
学部時代は勉強より柔道に時間を費やしました。国立大学の部活だから大した活動はしないだろう――。そう高をくくって入部したのですが、これが大きな間違いで、待っていたのは稽古の日々。高校でも柔道部に入っており、少しは心得があったものの、最初はまったく歯が立たず……。それでも稽古を続けるとやがて手応えを感じられるようになり、「人間、4年も努力すれば何とかなる」と自信がつきました。
そんな毎日でしたが、勉強そのものは好きだったので、大学院に進んで真剣に学問に向き合いたいと思いました。決心できたのは、恩師の松野豊東北大学名誉教授の存在があったからです。神経心理学という分野の先駆者で、学者としての風格がある方でした。“神経”といえばまず歯の神経を連想するような時代に、脳の機能と心理を関連づける神経心理学に着目され、研究で得た知見を知的障害のある人たちの心理の理解や支援方法に結びつけようと尽力されました。私がこの分野を研究できたのも、大学教員の道に進めたのも、松野先生が時代に先んじた学的才覚をお持ちだったおかげです。指導にあたっては、納得しないと決して頷かない先生でした。なかなか頷いてもらえないので、説明しているうちに自信がなくなり、しどろもどろになって、ついには黙り込んでしまう。すると、「どうして黙っているんだ」と言われるのです(笑)。結局、心から頷いてもらえたことは最後までなかったかもしれません。ですが、その厳しさがあったからこそ成長できたのだと深く感謝しています。
いくつかの大学を経て東京学芸大学に着任し、20年以上になります。本学では「有為の教育者養成」が建学以来の使命ですが、現在では、この“教育者”とは、教員と、学校および地域の教育活動を支える教育支援職を指し、それに特化した専門的な学びが得られます。本年度、「教員養成フラッグシップ大学」の指定を受け、より積極的な活動を展開しますので、教育者を志す人たちには、本学を魅力的に感じてもらえるものと思います。
勉強についてアドバイスをするなら、コツコツ型や集中型などそれぞれに向いたやり方はありますが、基本はやはり充分な時間をかけて教科書をきちんと理解することです。しっかり読む。わかったことをノートに記す。全体を振り返ってまとめ直す。その中でも最後の“全体をまとめ直す”作業が重要で、教科書を読んだ時に部分部分で目にしていたことを総合的に理解できます。これは、大学生になって論文などを読む時も活用できる勉強方法です。また、勉強もそのひとつですが、人生にはその時々でしか経験できないことがたくさんあると思います。子どもには子どもにしかできないこと、大人には大人にしかできないことがあります。勉強でも遊びでも、今できることを大切にして、人生を大いに楽しんでください。
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