• わたしの勉学時代

2023年1月号 わたしの勉学時代 大阪大学 総長 西尾 章治郎先生に聞く

江戸時代の学問所、懐徳堂と適塾を精神的源流とし、1931年に創設された大阪大学は、11学部15研究科を擁し、国立大学で最多の学部学生数、女子学生数を誇る総合大学です。「地域に生き世界に伸びる」をモットーに、高度な専門性に加え、教養、国際性、デザイン力を身につけた知識基盤社会のリーダーとなるべき人材を育成しています。現総長の西尾章治郎先生は、学問の「ときめき」を追い求めた結果、今があるとお話しくださいました。

【西尾 章治郎(にしお・しょうじろう)】

1951年生まれ。岐阜県出身。工学博士(京都大学)。

75年3月京都大学工学部卒業。80年同大学院工学研究科博士後期課程修了。

京都大学工学部助手、カナダ・ウォータールー大学客員研究助教授、大阪大学基礎工学部助教授を経て、92年大阪大学工学部教授、2002年同大学院情報科学研究科教授。大阪大学サイバーメディアセンター長(初代)、同大学院情報科学研究科長、同理事・副学長などを歴任し、15年8月より現職。11年紫綬褒章、16年文化功労者など受賞。専門分野はデータ工学。

少年時代はスポーツが大好き

 岐阜県高山市国府町で生まれ、豊かな自然の中で育った私は、とにかくスポーツが大好きな少年でした。野球や陸上競技、登山もしました。中でも特に熱心だったのは競技スキーで、小学校時代から冬は毎日スキーに励み、中学2年の時には県大会で優勝もしました。そんな少年時代でしたから、当時の友人たちは私がスポーツ選手になるものと思っていたようで、のちに「大学の教員になった」と言っても最初は誰にも信じてもらえませんでしたね(笑)。
 中学3年の初夏、柔道経験が充分にはないにもかかわらず「力がありそうだ」という理由で柔道大会に駆り出された私は、地区の大会で2位になり、県大会に出場しました。しかし、県大会での対戦で、相手が強引に一本背負いをかけてきたのを何とか堪えようとした時、右鎖骨を骨折してしまったのです。そのため、中学最後の夏のスポーツ競技はすべて棒に振ることになりました。さらにスキーも、前年の優勝のプレッシャーからか、中学3年の時には大スランプでまったく良い成績が残せませんでした。それまでに経験したことのない大きな挫折感でした。しかし、それを機に、スポーツだけで生きていくのは難しい、勉学の方もより一層頑張ってスポーツ以外の道も探ってみようと考えるようになりました。

▲スキーに励んでいた少年時代の1枚
(〇枠内は、中学2年の県大会優勝時)。

高校では父の弁当作りに感激

 岐阜県立斐太高等学校に進学し、ある日、母が入院することになりました。私は両親と兄と姉の5人家族でしたが、兄は大阪で会社勤め、姉は岐阜で大学生活を送っていて、その日から父との二人暮らしが始まりました。すると、驚いたことに母が不在でも私が学校でしっかりと昼食をとれるようにと、父が毎朝私の弁当を作ってくれたのです。おかずは決してバラエティーに富んだものとは言えませんが、私にとっては本当に「育ててもらっている」ことを実感する味でした。それからは、父の苦労、病気と闘っている母の葛藤がわかるからこそ迷惑をかけられないと思い、学業に一層力を入れるようになりました。一度決めたらとことんやってみる。これは、スポーツをしていたからでしょうか、私の癖でもあり、そんな生き方が現在まで続いているように思います。
 高校時代も後半になると将来の進路を考えますが、当時は文系か理系かという大きな選択すら迷っていました。本を読むことが好きで、読書を通じて様々な情景を思い浮かべたり、自分がその主人公ならどうするかと想像したりする、文系少年的な一面がありました。一方で、例えば数学の図形問題を解く時、一本の補助線を引くことで、今まで見ていた図形と異なる新たな世界が目の前に現れ、アイデアが次々と生まれてくることを実感する瞬間、その「ときめき」ともいえる瞬間をとても心地よく思っている、理系少年的な一面もありました。

理工の間の数理工学へ

 その後、高校3年までには漠然と理系への進路を考えるようになりましたが、今度は、理系の道でも物理学や数学のような「理学」の道に進もうか、土木工学や建築工学のような「工学」の道に進もうか、新たな迷いを抱えました。結局、迷いを抱えたまま大学受験に臨んだ結果、目指した大学からの合格通知は届きませんでした。また大きな挫折感を味わいました。
 親に迷惑をかけられないという思いから第2志望の大学への進学を視野に入れていた時、母が「目指している大学に進みなさい。もう一度頑張ってみなさい」と言ってくれました。私の人生を後押ししてくれた大切な一言でした。
 そして一年間浪人することになったのですが、浪人当初もまだ進路の迷いは消えていませんでした。そんな時、「理学」と「工学」のちょうど真ん中に位置する「数理工学」という学科が工学部にあると知り、その道にチャレンジすることにしました。
 今から考えると、どうも消去法的な選択だったように思いますが、ただひとつ確実に言えるのは、学問をするにあたっては、図形に補助線を引いた時に得られたような「ときめき」を感じ続けたいと思っていたことです。その点で、数理工学は私に合っていたのだと思います。

「ときめき」を求め続けて

 目標としていた京都大学工学部数理工学科に入学した私は、その学問分野の面白さに目覚めていきます。学部4年になり研究室に配属されて以降、難しい課題を前にしては必死で解を求め、指導いただいた先生に、黒板が白墨で真っ白になるくらい数式を並べて説明しては間違いを指摘される。その悔しさから寝る間も惜しんで再考し、数日後に先生の前で発表すると、また別の間違いを指摘される。これが何度も続きます。そして、ある日やっと、先生が納得して首を縦に振って喜んでくださる。その瞬間が私にとって「ときめき」を最大限に感じる瞬間でした。ですから、そのためなら寝る間を犠牲にしても全然苦痛ではありませんでしたね。ただ、こうして数理工学にのめり込んでいても、実はまだ進路の迷いは続いていました。数理工学の手法で課題を解くことへのときめきを感じつつも、第2外国語でロシア語を選択したことをきっかけに、ロシア文学にも興味を持つようになったのです。
 ですが結局、「ときめき」を追い求めてそのまま修士課程、博士後期課程へと進み、工学博士の学位を取得しました。京都大学に教員として採用され、1年目に幸運にもコンピュータ分野などで著名なカナダの大学に研究者として招かれました。当時日本ではまったく使われていなかった電子メールが米国やカナダで使われ始めたタイミングで、「インターネット時代という新しい世代の幕開けに立ち会っている」という実感から、毎日「ときめき」を感じていたことを覚えています。それから大阪大学の教員となり、総長になるまでの約35年間、データ工学分野の研究を一貫して行ってきました。

▲大学院入試の口頭試問では「修士課程に進んだ場合に何を研究したいのか」という問いに対して、真面目に「ロシア文学です」と答えた記憶すらあります。今思うと赤面の至りですね(笑)。

「ときめき」を逃さず、「本気」で立ち向かう

 こうして振り返ってみると、若い頃の「迷い」「失敗」「挫折」は、今の私の出発点だったと実感します。そして、「ときめき」や「身近な人の一言」が私の人生の方向性を決めた。人生とはひょっとしたらそのようなものかもしれませんね。
 皆さんに二つのアドバイスをします。皆さんの中には、将来の夢がわからないという人もたくさんいると思いますが、それでもいいんです。大事なのは、いつも自分の感性を研ぎ澄ましておくことです。迷っても失敗してもいいんです。その後に必ず訪れるであろう、自分の知らない「何か」との出会いを大切にしてみてください。そこから得られる「ときめき」を決して見逃してはなりません。それが一つ目です。
 もう一つは、何事にも「本気」で立ち向かうこと。「本気」とは、「真面目な心」「真剣な心」「本当の心」です。
 「本気ですればたいていな事はできる。本気ですればなんでも面白い。本気でしていると誰かが助けてくれる」
 これは、大正時代から昭和時代に社会教育家として活躍された後藤静香さんの言葉の一部で、私がずっと大切にしているものです。何かに夢中になる時だけでなく、何気ない日々を過ごす時も、いろいろな悩みを抱える時も、常に「本気」で向き合ってください。そうすれば、皆さんの人生はとても充実したものになるでしょう。