- わたしの勉学時代
明治時代の教育家・新島襄が創立した同志社英学校を前身とする同志社大学は、140余年の歴史を刻む名門私立大学。「自由」と「良心」に立つ人間を養成するキリスト教主義の精神を受け継ぎ、リベラルな学風のもとで実践されるのは、学生一人ひとりの個性と人格を尊重する教育です。子どもの頃から本が大好きだったという植木朝子先生は東京の生まれ。国文学に携わる研究者として、京都はまさに憧れの地だったそうです。
【植木 朝子(うえき・ともこ)】
1967年生まれ。東京都出身。博士(人文科学)(お茶の水女子大学)。
90年3月お茶の水女子大学文教育学部卒業、92年同大学大学院人文科学研究科修士課程修了、95年同人間文化研究科博士課程単位取得退学。同年お茶の水女子大学助手。96年より十文字学園女子短期大学文学科専任講師・助教授、同学園女子大学社会情報学部助教授。2005年より同志社大学文学部国文学科助教授・教授、同大学大学院文学研究科教授。15年以降、同志社大学文学部長、同大学副学長、教育支援機構長を歴任し、20年4月より学長に就任。専門は日本中世文学、中世歌謡・芸能。
生まれは東京ですが、小中学校時代は会社勤めをしていた父の転勤に伴い、茨城県で過ごしました。母は専業主婦で、3つ年下の妹がいて、家族で勝田、土浦、取手の順に北から南へ移り住んでいきました。小学校は4回も転校したんですよ。
早生まれで体が小さかったこともあり、子どもの頃はよく熱を出していました。学校を休んだ時は家で静かに本を読み、一日空想に耽る典型的な文学少女でした。もちろん友達と外で一緒に遊ぶこともありましたが、体を動かすよりは本を読んで過ごす方が性に合っていました。日本文学はもちろん、海外文学も好きで、様々な物語を読みました。
授業で好きだったのはやはり文系科目、国語と社会の歴史です。両親に勉強面で「これをやりなさい」と言われることはほとんどなかったですね。父も母も私がやりたいことに協力的で、夏休みの自由研究で「この地域のことを知りたい」と言うと、図書館で一緒に本を探してくれたり、車でお寺や神社に連れて行ってくれたりしました。のびのびと育てられましたが、朝起きる時間や食事の作法といった生活面は厳しくしつけられました。
中学でも国語が好きで、テストは毎回良い点数でした。私にとっては自然に「解ける」ものだったので、「なぜ解けるのか」を考えたことはなかったのですが、中学の国語の授業でそれが一変。先生が教科書の文章をもとに、キーワードに線を引き、接続詞に印を付け、文章が展開する流れを論理的に説明してくれたのです。すごく新鮮で、「私は頭の中で自然とこの作業をしていたんだ!」と目から鱗が落ちました。国語は感覚で解くという印象を持たれがちですが、実はそうではなく、算数や数学と同じように正解だと確信を持って解けるものなのだとわかりました。その先生がお茶の水女子大学の出身で、当時はまだ大学受験のことなど考えていませんでしたが、何となく“お茶大”に憧れを抱きました。
高校受験は、県境の家から通いやすい千葉県の高校を受けることに。ただ、中学で受けていた学力試験は茨城県の公立高校の入試に対応したものだったので、担任の先生には地元の高校の方が確実だと言われました。迷いましたが、志望した千葉県立東葛飾高校は、通学の利便性に加え、とても自由な校風だったことにも強く惹かれました。
中学までは勉強でそれほど大変な思いをしたことはなかったのですが、高校に入るとそうはいきませんでした。理系科目、特に数学は、学年が進むとどんどん難しく感じられ、家庭教師に教わることに。文理どちらを選んでも受験に関係なく学ばせるという方針の高校だったので、高校3年になっても物理などが必修で、とても苦労した思い出があります……。
一方、国語はさらに充実感を持って学べました。現代文の授業で、近代文学の耽美派について調べて発表したこともありました。準備のために作品をたくさん読むのは大変でしたが、いざ発表すると、先生から「よくそこまで調べたね!」とお褒めの言葉をいただけました。単純な私は嬉しさと達成感が相まって、調べ学習が大好きに。今では普通のことですが、当時は先生が知識を一方的に教える授業が多かったので、とても楽しかったです。
進路については迷うことなく、大学で国文学を勉強して、将来は国語の先生になりたいと考えました。ずっと国語の授業が好きでしたし、女性の先生が多くて身近な職業でした。学費のことなどを考えると、家から通える範囲の国公立大学に選択肢が絞られ、中学の国語の先生の影響で憧れていたお茶の水女子大学を受験しました。
大学入学後、各時代の文学を学び、興味を持ったのは中世の作品群でした。日本の中世文学は、平安時代末期から安土桃山時代頃までに成立した作品を扱います。“中の世”というだけあって、古代の雰囲気と後に始まる江戸時代の新しい息吹の両方を併せ持っていて、その幅の広さ、多様性に魅力を感じました。中でも私が専門にしているのは、歌謡、当時の流行歌です。庶民から武士や僧侶、貴族まで様々な層で歌われていました。きっかけのひとつは、大学教員として中世歌謡を研究していた祖父が残してくれた蔵書で、その奥深さに触れたことでした。文学研究は、紫式部の『源氏物語』のような、突出した個人による作品に焦点が当たりがちですが、誰が作ったかもわからないけれど、当時の人々に確かに好まれ、支えられていたものも、時代をよく表しています。その心情には、現代の私たちにも通じるものがあり、とてもおもしろいのです。
大学でもすばらしい先生方に教わることができ、卒業論文を書いた後も研究を続けたくて、教員として働くにもプラスになると考え、大学院へ。修士課程を終えたら社会に出るつもりでしたが、さらに研究心が芽生え、博士課程後の就職を考えると不安もあったものの、最後は「勉強したい」という情熱が勝りました。大学院で学びながら、十文字学園女子短期大学の系列高校で非常勤教員もしており、博士課程の単位取得後、専任講師として採用していただけました。
ある日、帰宅すると留守番電話にメッセージが入っていました。面識のない同志社大学の先生からで、ドキドキしながら折り返すと「本学で教えてくれませんか?」と打診されたのです。もちろん私は「はい! 行かせていただきます!」と二つ返事。古典文学を研究する者にとって京都は憧れの地です。
同志社でまず驚いたのは、先生方の指導が手厚いことです。例えば卒業論文は、テーマを決める段階から学生の相談に乗り、書き上げるまで丁寧に添削します。私が大学生の時は、論文は基本的に自分だけで書き上げて提出するものだったので、ちょっとしたカルチャーショックでした。しかし、それが同志社のすばらしさで、創立者・新島襄が残した「諸君ヨ人一人ハ大切ナリ」の言葉が浸透している証だと感じました。
学長を拝命し、尽力しているのはダイバーシティ(多様性)の推進です。国籍、性別、障がい、性的指向・性自認、文化、宗教、思想信条など、様々な背景を持つ学生・教職員に対し、広く支援を行い、これからの時代にふさわしい大学に進化させたいと考えています。
教育に関しては、昨今“アウトプット”が重んじられていますが、それは確かな“インプット”があってのことです。たくさんの知識を有していてこそ、社会の常識や通説に疑いの目を向けられるのであり、乏しい知識や教養で偏った自己主張をすることほど危険なものはありません。日々、勉強していて「これを覚えて何の意味があるの?」と感じることもあるでしょう。ですが、そうして得たものが論理的な思考力や豊かな表現力を育む肥やしになります。ぜひ多くのことを学び、身につけてください。