- わたしの勉学時代
日本大学の教育の柱は、自ら考え、自ら道をひらく「自主創造」。16学部86学科を擁する大規模総合大学のメリットを学生全員が享受し、社会で求められる「総合知」を身につけられるように、既存の枠にとらわれない横断的な教育システムを展開しています。酒井健夫先生は、農獣医学部(現生物資源科学部)のご出身。「幼少期の体験を話すのは初めてです」と獣医師を目指されたきっかけを懐かしそうにお話しくださいました。
【酒井 健夫(さかい・たけお)】
1943年生まれ。山梨県出身。医学博士。
66年3月日本大学農獣医学部(現生物資源科学部)獣医学科卒業。東京大学医科学研究所、厚生省(現厚生労働省)、台糖ファイザー薬理研究所を経て、81年日本大学農獣医学部専任講師に。93年同学部教授、99年学部次長、評議員に就き、2005年日本大学生物資源科学部長、理事。その後、大学院生物資源科学研究科長、同獣医学研究科長を務め、07年副総長(総長代理・代行者)、08年第12代総長に就任。学外では、農水省獣医事審議会会長、全国農学系学部長会議副会長、私立獣医科大学協会会長などを歴任。20年瑞宝重光章を受章。専門分野は獣医疾病予防学。
私は第二次世界大戦中の生まれで、母の実家だった山梨県東八代郡(現笛吹市)に疎開して幼少期を過ごしました。自然豊かな地で、弟と妹、大勢のいとこと一緒に生活し、山や川が遊び場でした。動植物や昆虫、魚など様々な生物が身近で、家でも鶏、兎、山羊、牛などを飼っていました。
戦後、従軍していた父が戻り、家族と一緒に山梨で暮らし始めましたが、やがて職を得ると単身で東京へ。私は、父が帰ってくる週末を楽しみにしていて、土曜日はどんなに夜遅くなっても家の前で父の帰りを待ち続けました。月曜日の朝には、また東京に行ってしまう父との別れがたまらなく嫌で、いつも悲しい思いをしていたことを覚えています。
大正生まれの両親は、特に礼儀に厳しかったです。間違ったことをしたり、人に迷惑をかけたりしたらすぐに謝る、嘘はつかない、困っている人がいれば手を差し伸べる、そのように躾けられました。また、食事の始めと終わりには、生産者の方々に感謝するように教えられ、今でも食事の時には、手を合わせて「いただきます」「ごちそうさまでした」と声に出すことを欠かしません。
私が小学校に上がる時に家族で上京し、東京での生活が始まりましたが、その後、父の転勤で島根、愛媛に引っ越し、中学3年で再び東京に戻りました。小中学校は義務教育であっても、学校によって教科書や授業の進度が多少異なっていたため、戸惑うこともあったのですが、父も母も教育に熱心で、よく勉強を見てもらっていました。どちらも理系の人だったので、気象や星座の話をしたり、簡単な実験をしたり、自分たちも楽しみながら教えてくれていたように思います。テストや通知表の結果が良い時は大いにほめてくれて、悪い時は何が原因なのか、どうすれば改善するのかをいつも一緒に考えてくれました。
高校受験は、東京に戻ってから意識するようになりました。それまでは“受験”の言葉すら聞いたことがなかったと思いますが、都会の中学に通い始めて、友人などの話で受験生であることを次第に自覚するようになり、気になる高校をいくつか見学に行きました。その中で雰囲気がいいと感じたのが私立の海城高校です。当時の公立高校は、中学の成績順に受験先がほぼ決まっていて、私はそれがどうも好きになれなかったのです。海城高校は男子校で、リベラルでフェアな精神を有した人材育成など、独特の校風と歴史があり、それが自分に合っていると感じて第一志望校に決めました。
高校では山岳部に所属し、その監督であり、3年間クラス担任でもあった大貫金吾先生との出会いで、充実した学校生活を送ることができました。週末、夏休みや冬休みは登山に明け暮れ、北アルプスや南アルプスの縦走、冬の富士登山、山岳競技にも参加するなど、高校生にはかなりハードでしたが、先生や仲間と一緒に毎回楽しく挑戦していました。
また、大貫先生は数学が担当だったのですが、なんと山に行く時は必ず教科書を持参するように言われました(笑)。夜、テントの中で特別補講をしてくれて、そのおかげで私も山岳部の皆も、数学が好きで得意になりました。同じクラスで山岳部だった7人とは、今でも付き合いが続いていて、困ったことが起きると必ず彼らに相談しています。
大貫先生は兄のように親身になって私たちに接してくれ、新婚の自宅に押しかけて、泊めていただいたこともあります。気がつけば私も大学の教員になった際、大貫先生のように学生を家に呼んで食事をさせたり、泊まらせてあげたりするようになっていました。学生を我が家に迎え入れる際、嫌な顔ひとつせず、協力してくれた妻に感謝しています。
大学受験の時、獣医師の道を目指そうと決めたのは、山梨で過ごした子どもの頃の体験や思い出が心にあったからです。先述の通り、家では様々な動物を飼育し、庭の池では鯉も飼っていました。子ども心にも何のために飼っているのかは理解していて、卵やミルクは日常的に食卓に上がりましたし、祝いごとがあれば処分して命をいただきました。そんな動物たちは大切な存在ですので、怪我や病気の時は獣医さんを呼びます。言葉がしゃべれない動物の病気を治す姿を身近に見て、憧れたのです。
進学した日本大学の農獣医学部は旧陸軍獣医学校出身の熱心な先生が多く、厳しさもありましたが、希望する学生は2年次から研究室に入れて、他大学よりも早く興味のある専門分野に携われ、大きな学び甲斐を感じました。私は家畜衛生学教室に所属し、細谷英夫先生のもとで学びました。
犬や猫などの家庭動物、牛、馬、豚、めん羊、鶏などの生産動物、盲導犬や聴導犬といった使役動物は人々の生活に不可欠な存在です。病気や怪我を治療して終わりではなく、次に同じことが起こらないように、快適な飼育環境を整えること、早期発見や予防が大切だと思い、獣医疾病予防学を専門に選びました。
細谷先生には、学問以外にも、野球を楽しんだり、食事や旅行をしたりするなど、大変お世話になりました。卒業後、私が東京大学の研究所や厚生省(現厚生労働省)、外資系の薬理研究所で研究を続ける時も、その都度ご指導いただきました。
私が日本大学で最初に教鞭を執ったのは1981年で、学内で各職を務めたのち、2008年に*総長を拝命しました。任期を終えた後は、学外の獣医・農学系の組織や団体に身を置いて仕事をしていましたが、昨年の7月から改めて学長を務め、大学改革を進めています。
本学では教職員全員が“学生ファースト”の視点で一人ひとりの学びを支え、学部・学科の専門領域のみならず、文系は理系の、理系は文系の知見と視野を併せ持つ「総合知」を養う教育システムを構築しています。これを実現するのが、既に着手している「教学DX(デジタル・トランスフォーメーション)」で、ICTやネットワークを利活用することで本学の16学部86学科が連携し、所属する学部や学科以外の授業も受講することが可能になります。「相互履修制度」はまさにその一環で、総合大学で学ぶ真の価値をきっと実感できるはずです。進化を続ける本学に今後もぜひ期待を寄せてください。
勉強を頑張る皆さんにアドバイスをするなら、普段から興味のあること、気に入ったことがあれば積極的に目を向けて、「これはおもしろい!」と感じたら徹底的に調べ、知ることに努めてください。誰でも最初の一歩は経験がなく、自信もありませんが、何かひとつでも関心があることを深めると、自信につながり、その自信が受験の成功を導いてくれます。ご両親や先生方は、子どもが興味を抱くまで、辛抱強く長い目で見守り、自ら才能を開花させるのを待ってあげることが大切です。
*2013年の制度変更により、総長制から学長制に移行