• わたしの勉学時代

2024年8月号 わたしの勉学時代 龍谷大学長 入澤 崇先生に聞く

龍谷大学は、京都府と滋賀県に3キャンパスを構える私立総合大学。1639(寛永16)年に設けられた西本願寺の「学寮」から始まる380年以上の伝統を持ち、日本で最も長く教育・研究活動を行っています。創立以来、「浄土真宗の精神」を建学の精神とし続け、「真実を求め、真実に生き、真実を顕かにする」ことのできる人間を育成しています。入澤崇先生はお寺のお生まれですが、最初から仏教学を志していたわけではなかったそうです。

【入澤 崇(いりさわ・たかし)】

1955年広島県尾道市生まれ。文学修士(龍谷大学)。

78年3月龍谷大学文学部卒業。82年同大学大学院文学研究科修士課程修了。86年同博士課程単位取得満期退学。90年より同大学文学部講師、96年助教授。2000年より同大学経営学部助教授、02年教授。04年より5年間アフガニスタン仏教遺跡学術調査隊の隊長を務める。10年同大学文学部教授、13年龍谷ミュージアム館長、15年文学部部長を経て、17年4月より学長に就任。専門は仏教文化学。

島でお寺の子として育つ

 私は、広島県尾道市の因島にある浄土真宗の寺院で生まれ育ちました。祖父母と両親、4つ上の兄の6人家族で、保育園も併設していて、父は住職でもあり園長先生でもありました。園の子どもたち向けに紙芝居などを作り、私にも夜寝る前に様々な物語を読み聞かせてくれたので、幼い頃から物語が大好きでした。ただ聞いたり読んだりするだけではなく、自分で物語の続きを考えて楽しんでいました。また、夕方には父と一緒にお経を読むのが日課でした。
 お寺の子というのもあってか、小学校では学級委員などを任されることが多く、勉強も教科の好き嫌いなくできる方で、いわゆる“良い子”、優等生でしたね。ですが次第に、小さな島の世界しか知らないのは嫌だ、島を出たい、と強く思うように。そこで親に頼んで、中学は福山市内の親戚の家から通うことになりました。2年からは島に戻ったのですが、隣の市でも言葉が違うなど様々なことを経験できて、この1年間の経験はとても大きかったです。島を出たい気持ちを持ち続け、高校は広島市内の私立崇徳高校を受験し、進学しました。

▲中学1年の時、先生に「背が高いから高跳びをやってみたら」とすすめられました。ちょうどメキシコオリンピックで初めて背面跳びを成功させた選手がいた年で、調子に乗ってろくに練習もせずに大会で挑戦したのですが、バーにも届かずに落ちて、大恥をかきました(笑)。

受験勉強が嫌で不登校に

 崇徳高校は、浄土真宗の寺院の子弟が多く通う学校です。父の母校でもあり、崇徳高校の「崇」も、私の名前の「崇」も「崇徳興仁(善い行いを尊び、思いやりの心をおこす)」という仏教の言葉が由来で、親近感がありました。高校に入学するまで、理系科目は苦手だと思っていたのですが、数学の先生と親しくなって、数学、特に幾何学が好きになりました。補助線を引くという発想がとてもおもしろく、友人と問題を作って出し合うなどして互いに高め合いました。入試の成績が上位だったこともあり、先生から、僧侶や教師を目指す仏教コースではなく、国公立大学進学を目指す進学コースをすすめられ、2年からコースを変更。
 ところが、これでかえって学校が嫌になってしまいました。もともと好きだった古典や世界史などの授業で、“受験に必要なポイント”だけに絞って学ぶことに疑問を感じたのです。受験勉強への拒否感から不登校になったのですが、下宿に担任の先生が訪ねてきてくれました。先生は「無理して来なくてもいい。ただ、君は本が好きだから、毎週、読んだ本の感想を聞かせてくれ」とおっしゃったのです。本の感想をやりとりしているうちに、学校に戻ることができました。3年になっても、受験勉強に前向きにはなれませんでしたが、違う世界に行けば何か見出せるかもしれないと龍谷大学の文学部を受けました。

パーリ語の授業がきっかけ

 入学して1年目は、学生運動の最後の年で、授業が全くありませんでした。これ幸いとキャンパスに行かず、映画を観たり、博物館や美術館を巡ったりと、京都の町を歩き回っていました。授業がなくても掲示板を確認してレポートを提出し、単位を取らなければいけなかったのですが、それを知った時には手遅れで、1回生時は0単位(笑)。もう辞めようかとも思いましたが、授業が始まってからは、興味がある分野も多く、知的な関心が高まっていきました。
 転機が訪れたのは3回生の時です。仏教学科を選んだのは単に身近だったからですが、あまり人がやっていない分野に興味があり、初期の仏典に使われている古代インドの言語、パーリ語の授業をとりました。その授業で先生が見せてくれた、アフガニスタンの仏教遺跡の写真が衝撃的で、仏像と並んでギリシャ神話の英雄ヘラクレス像が写っていたのです。それまで仏教の世界は狭いものと思っていましたが、私が知っていたのはほんの一部に過ぎなかったのだとわかり、アジアに広がった仏教の姿を勉強したいと思うようになりました。

仏教は“和”を構築できる

 大学院に進学したまでは良かったのですが、パーリ語の先生は短期大学の所属で研究室がなく、もう一人学びたいと思った先生も海外留学してしまいました。またしても出鼻をくじかれ、籍だけを置いて大学には行かず、東京で音楽関係の仕事をしていた兄の手伝いなどして、進む道を模索する日々が2年間ほど続きました。そんな時、母方の伯父が亡くなりました。生前、私に「定年退職したら仏教を教えてくれ」と言ってくれていたのに叶わなくなってしまい、とても悲しかったです。けれど、年をとった人が学びたいと思うほど仏教には魅力があるのかと改めて興味が湧き、一念発起して本格的に勉強を始めることに。振り返ると、随分遠回りをしたものだと思います。
 日本の仏教学は、仏教の教えをそれぞれの宗派の立場から研究する教学が主流ですが、私が関心を持ったのは初期の仏教です。1986年に京都大学のガンダーラ(現パキスタン)調査隊に加えてもらって初めて現地調査に赴き、以来、シルクロードの仏教遺跡、かつての仏教文化がどのように広がっていたのかを研究しています。調査を重ねて気づいたのは、パキスタンやアフガニスタンなど、仏教遺跡が多く存在する地域は、昔も今も争いが続く危険な地域だということです。どうして危険な地域に仏教が伝わっているのでしょうか。私は、仏教が“和”の構築に有効に働くからだと考えます。日本に仏教を広めた聖徳太子が「和を以て尊しとなす」と記したように、争いの愚かさに気づき、同様に考えた為政者がかつてはアジア全域にいたのです。初期の仏教を考えることは、現代社会の問題を解決する上でも重要な意味を持つと思っています。

▲実家の寺を継いでから、週末は島に戻って住職をしています。もともと継ぐつもりはなく、映画『ゴッドファーザー』を観て、後を継ぐことの重さを感じて決心しました(笑)。世襲制は日本の特殊な仏教文化ですが、それを継承することに新たな価値観を見出せるかもしれないと感じたのです。

言葉を見つめ直そう

 大学に残って研究を続け、運営にも携わるようになり、龍谷大学に来てから50年が経ちました。私の頃に比べると、近年の学生は社会課題に対する関心が非常に高く、自分たちで解決しようという意識があり、とても生き生きとしています。彼らの意欲をより引き出し、育み、社会へ送り出すことが大学の最も重要な使命です。2039年に創立400年を迎える本学も、現代社会に向き合い、新たな価値の創造に力を入れています。
 若い皆さんには、夢見る力を大切にしてほしいですね。誰もが可能性を持っていて、いつどこで花開くかはわかりません。早い段階で自分はこういう人間だ、これだけの力しかないんだと決めつけないでください。このままの自分ではいけないと思った時は、普段使っている言葉を見つめ直してみましょう。例えば「ありがとう」という言葉は仏教の「有り難し」に由来しています。人と人が巡り合うことは、めったにない貴重なことなのだから感謝しましょうという教えです。身近な言葉を通して自分を省みて、気づいていなかったことに気づき、学ぶことで、自身を成長させることができます。
 そして保護者の方は、お子さんに干渉しすぎず、見守ってあげてください。「親」という字は、木の上に立って見ると書きます。その姿勢が大事で、子どもは親と違う価値観を持って当たり前です。違いを大切にすることで互いに成長できるのです。子どもが生まれて初めて親も生まれるのですから、どうか一緒に学んでください。

▲父は写真が趣味で、私が生まれてから小学生頃まで、アルバムを作ってくれていました。これはその最初と最後のページで、誕生時と、中学1年の福山市の友人が島に遊びに来てくれた時です。(左が入澤先生)