- わたしの勉学時代
秋田大学は、国際資源学部、教育文化学部、医学部、理工学部の4つの学部と研究科を擁する国立大学。自然環境に恵まれたキャンパスには、地方大学のハンディを感じさせない最先端のICT環境が整い、日本各地から集まった学生たちは各分野で専門的な学びと研究に向き合っています。南谷佳弘先生は同大学医学部の卒業生。「秋田大学に集う人たちの幸福を目指す」を理念に掲げ、4月から学長の立場で大学運営に携わっています。
【南谷 佳弘(みなみや・よしひろ)】
1962年生まれ。東京都出身。医学博士(秋田大学)。
86年3月秋田大学医学部卒業、86年同大学医学部附属病院胸部外科学講座(旧第二外科)入局。91年同大学大学院医学系研究科博士課程修了。92年コロンビア大学医学部留学、生理学教室客員研究員。2013年秋田大学大学院医学系研究科医学専攻腫瘍制御医学系胸部外科学講座教授、14年同大学学長補佐(知的財産・医工連携担当)。19年同大学医学部附属病院長併任、同大学副学長。24年学長に就任、現在に至る。専門はライフサイエンス、呼吸器外科学。
生まれは東京都の目黒区です。近くには東京大学の教養学部があり、他にもたくさんの学校が集まる都会の街中で、高校を卒業するまでの18年を過ごしました。家では、躾も勉強も父が厳しかったです。普通の会社員でしたが、いわゆる“昔かたぎ”で、食事の際はご飯の食べ方や箸の上げ下げひとつにも細かく目を向け、学校の成績が悪いと「しっかり勉強しなさい」と叱咤激励の声が飛んできました。一方、専業主婦だった母は穏やかな性格で、私や妹が父に叱られた後は、いつも優しく慰めてくれました。
幼少期の私は、かなりおとなしめの性格でしたね。小さく生まれて、発達が人より少し遅かったので、小学校の6年間は、体格や勉強、いろいろな面で同級生に遅れをとっていました。遊ぶ時も、皆と一緒に外で走り回るより、家で絵を描いたり本を読んだりする方が性に合っていました。学校の成績もいまひとつでしたが、理科はとても好きでした。父が買ってくれた、イギリスの科学者ファラデーの講義録『ロウソクの科学』を読んだことで、科学に興味を持つようになったのです。
活動的になり始めたのは、中学に入ってからです。ようやく同級生に追いつくようになり、クラブ活動は新しいことに挑戦しようと剣道部に入りました。当時人気だったテレビドラマの『おれは男だ!』で主役の男子高校生を演じていた森田健作の影響で、同じような男子生徒が多かったような(笑)。
勉強では、数学が得意になりました。優秀な友人と一緒に教科書を先どり学習して、2年の頃には中学の全範囲を終わらせることができました。数学や物理など、基本の定理や公式を覚えて、それを使って考えて問題を解く科目が好きでした。片や、覚えないといけないことが多い国語の古典や社会などの文系科目は、どうしても好きになれなかったですね……。
成績も中学校の後半頃からぐんと伸び始め、高校受験は、担任の先生がここなら大丈夫だとすすめてくれた都立の広尾高校を受けました。入試は3教科で、本番ではすべて満点に近い点数をとって合格できたので、もうワンランク上の高校を受けても良かったかもしれない、という心残りがあります。行きたい学校があれば、少し上のランクでも挑戦してみるのがいいと思います。
高校でも友人に恵まれて、互いに刺激し合いながら勉強に打ち込み、2年生になると仲間たち4人で予備校に通いました。予備校の授業は教科書には載っていないような解き方も教えてくれておもしろかったです。その分、学校の授業にはそれほど身が入らず、それを先生にもしっかり見抜かれていましたが、おおらかな時代だったので、叱られることはなく、むしろ「お前たち、予備校でしっかり勉強しろよ!」とエールを送ってくれました。
進路については、理系の研究者になりたいと思っていて、最初は工学部志望でした。3年になってから、一緒に予備校に通っていた仲間の一人が「医学部に行く」と言ったことがきっかけで、私も興味を持つように。自分でもいろいろ調べるうちに次第に医学に対する関心が高まり、得意科目だった数学、物理、英語で二次試験を受けられる国立大学があると知りました。それが秋田大学だったのです。現役で合格するために、受かる可能性が少しでも高いなら、東京から離れた大学でも全然構わないという気持ちで受験を決めました。現役で医学部を目指すとなると、とにかく時間が足りないので、苦手科目よりも得意科目で点をとろうと考え、年末年始も休むことなく、ひたすら勉強して、無事合格を果たしました。
大学入学後、1・2年次の一般教養の授業はあまり興味が持てず、試験も“一夜漬け”の勉強で乗り切っていたのですが、学年が上がり、医学部の専門的な授業が増えると真面目に机に向かうように。特に臨床系の科目は非常に学び応えがあると感じる一方で、生理学などの膨大な暗記を要する科目は、中高時代と同様、大学でも苦手でした(笑)。
6年間の学部生活を終えると初期臨床研修のステージに進み、外科の領域に進むことを決めました。当時は第一外科と第二外科があり、選んだのは心臓以外のほとんどの臓器を担当する第二外科です。消化器の外科手術を主に担当し、初期研修を終えると、食道がんの治療を中心に手がけました。
その頃は臨床よりも研究に専念したい思いがあり、肺に関する研究も行っていて、30歳でコロンビア大学に留学。そのままアメリカで研究者になるつもりでしたが、所属した生理学教室の方針や研究手法に納得がいかず、結局2年で帰国することに。
秋田大学に戻ると、上司である教授が代わり、呼吸器外科を任されました。本当はこれまで通り消化器を担当したかったのですが、いざやってみると、呼吸器外科にもとてもやりがいを持って挑めるとわかりました。肺には心臓から直接太い血管が入り込んでいる上に、血管壁が薄くもろいため出血しやすく、執刀時には細心の注意が必要で緊張の連続です。手術は困難を伴うものばかりでしたが、その分、外科医として患者さんに貢献できているという充足感がありました。
臨床医として勤務しながら基礎的な研究も続けていたのですが、教授から「今後は基礎研究より、臨床に則した研究を」と助言を受け、医工連携に注力し始めました。最終的には産学官連携で「迅速免疫組織化学染色装置」を開発するに至り、経済産業大臣賞を受賞しました。
今年の4月に学長に就任し、母校でもある本学をさらに発展させるために、「秋田大学に集う全ての人たちの幸福を目指す」という理念を加え、新たな気持ちで次代に向かう決意を固めました。学生の夢を実現させるためには、教職員にも自分の夢を実現してほしい。いろいろな人に話を聞いて、そのために何が必要かを一緒に考えていきたいと思っています。皆に秋田大学を好きになってもらって、笑顔あふれる楽しい大学にしたいです。
日本は東京一極集中で、私自身も東京の出身であり、確かに魅力的な街ではありますが、今はインターネットが発達して、働く上で地域はあまり関係なくなってきています。地方でも衣食住には困りませんし、生活費が都会に比べて安いというメリットがあります。どこに住むかより何をするかが大切です。これからは住む場所を選ばず仕事を選べる時代ですので、若い世代には、ぜひ広い地域に目を向けてほしいと思います。
それから、今勉強を頑張っている皆さんは、これから生きていく中で様々なステージに直面することになります。受験もそのひとつで、乗り越えるには、やはり「集中力」がカギを握ります。メリハリが大事で、人生において勉強しないといけない時期は必ずありますので、その時は他にやりたいことがあっても我慢して、やるべきことをやりましょう。乗り越えた先の未来を目指して頑張ってくださいね。