• わたしの勉学時代

2025年1月号 わたしの勉学時代 小樽商科大学 学長 穴沢 眞先生に聞く

外遊びといえば野球の時代

 横浜で生まれて、物心がつく前の2歳の時に大阪に移りました。大学に進学するまで、自然豊かな北摂エリアの箕面市で過ごし、子どもの頃の外遊びは決まって野球でした。学校から帰り、ランドセルを置くと、バットとグローブを持って近所の広場へ一目散に駆けて行き、日が暮れるまで友達と白球を追いかけていました。今のようにいろいろなスポーツを楽しむ時代ではなかったので、野球が一番人気でしたね。
 家族は両親と、2つ上の姉がいて、当時の多くの家庭がそうであったように父親は仕事で常に忙しく、土日もよく出勤していました。家では母が私と姉の面倒を見てくれていましたが、勉強も躾の面も特に厳しいわけではなく、気がついた時に最低限のことを口にするという感じでした。
 勉強で得意だったのは社会科で、地図帳や教科書の便覧を見るのが好きでしたね。また、小学校の5、6年生の時に担任だった若い先生のことは今でも覚えています。いろいろなことへのチャレンジを奨励する先生で、児童会の役員選挙の際、私をはじめ何人かに「立候補してみよう!」と声をかけてくれました。結果、私は書記に、友達が会長に選出され、学校行事で皆を引っ張りました。

部活を通じて人間的に成長

 小学校時代は遊びが中心の日々でしたが、中学に入ると定期考査があるので、学習の目安になりました。そして、好きだった野球は、クラブ活動で頑張ることに。強豪ではありませんでしたが、土日も当たり前のように練習していましたから、忙しい毎日でした。部活の仲間たちと多くの時間を過ごせたおかげで、人間的にも成長できたと思います。大会で勝つには練習の時から協力し合うことが必要で、時にはぶつかったり、仲たがいをしたりすることもありましたが、今振り返るとそうした経験を通して社会性や人間関係のあり方を学べたように思います。
 高校受験に向けては、3年になったからといって急に気合いを入れて勉強することもなく、教科書を基本に既習範囲の復習をコツコツ繰り返しました。地元の公立校の池田高校に行きたいと思ったのは、家から歩いてすぐの距離だったからです(笑)。それに、先に進学していた姉から自由な校風と聞いていたところも魅力的に感じました。
 高校の部活は、野球ではなくハンドボール部に入りました。高校生になっても体を動かすことが好きだったので、放課後になると楽しく汗を流し、勉強よりも部活のことの方が心に残っています。共に切磋琢磨した仲間は特別な存在で、65歳を越えた今でも帰阪するたびに集まって昔話に花を咲かせています。

北の大地に憧れて

 大学受験を意識し始めたのは、部活を引退した高校2年の終わり頃です。社会科が好きだったので文系で社会系の学部に進みたいと考えました。当時は発展途上国の人口がすごく増えていて、人口や経済について学びたい気持ちがあった一方、法律もおもしろそうだと感じていました。国立大学を志望していて、迷いながら関西圏の大学を受けた現役の時は、合格を手にすることができませんでした。ちょうど試験内容が変更になる年だったので、予備校で新しい範囲を勉強しなくてはならず、大変でしたが、おもしろくもありました。
 そして、一年の浪人を経て、北海道大学に入学しました。北大を志望したのは、年上のいとこが北大生で親近感があったことと、当時は「文類」「理類」という2つのくくりで入学者を募集し、どの学部に所属するかは大学3年で決めればよかったので、経済か法律かで迷っていた私に合っていると思ったことが理由です。それともうひとつ、遠く離れた北の大地、雪への憧れも少なからずありましたね。入学してみると、北大では道外出身者を対象としたスキーの
授業があり、正式に履修単位として認められていたんです。もちろん私も履修し、初めてスキーを経験しました。

▲苦手科目をすぐに好きになるのは難しいので、まずは「この問題を解く」ということから始めましょう。そこから「できる!」と手応えを感じるようになれば自信もつきます。

発展途上国の経済を専門に

 法律の授業もおもしろいと思ったものの、最終的に3年次で選んだのは経済学部でした。決め手になったのは、経済学部にだけ留学のカリキュラムがあったことです。今ほど海外が身近でなかった時代、「留学できる」というのは相当なインパクトがありました。北大はアメリカのポートランド州立大学と姉妹校の協定を結んでいて、私は3年生の9月から翌年の7月まで留学しました。東南アジアの経済に興味を持ったのは、留学中の授業がきっかけです。日本にはなかった発展途上国の経済を学ぶ科目があり、もともと興味があった人口増加の問題ともリンクしていて、学問として体系的に勉強できることに喜びを感じました。
 進学して勉強を続けたい気持ちもありましたが、社会経験を積み、経済的に自立した方がいいだろうと、学部卒業後は銀行に就職。ただ、当時はあまりいろいろな職業を知らず、就職してから国際公務員に就きたいと思うようになって、その試験を受けるには修士課程を修める必要がありました。そこで大学に戻り、再びアメリカに留学し__ようと思ったのですが、指導教官に「東南アジアを勉強するのに、なぜアメリカに? 実際に現地も見ず、机上や頭の中で考えるのは違うんじゃないか」と言われました。確かにその通りで、先生の一言は強く胸に刺さりました。そんな時、マレーシアの国立大学であるマラヤ大学の先生が京都の国際会議で来日されると聞いて、留学を受け入れてもらえるか直接お願いに。熱意が認められ、その場でOKをいただきました。留学してからは、工業化のプロセスと多国籍企業との関係を調査するフィールドワークに明け暮れました。

▲留学当時のマレーシアは、「ルックイースト政策」をとっていて、日本の高度経済成長に学ぼうと、留学生の派遣が盛んでした。留学のために日本語を学んでいる高校生くらいの子たちと同じ寮だったので、日本語を教えてあげていました。

活力ある北海道にしたい

 結局、国際公務員の試験は受けずに博士課程へ進み、縁あって大学教員の道を歩むことになりました。小樽商科大学に着任したのは1989年ですから、もう35年以上本学で仕事をしていることになります。“初心忘るべからず”で、初めて担当した授業のことは今でも思い出しますね。国際マーケティングを教えることになり、私の専門であるアジア経済から少し外れた分野だったため、授業の準備がとても大変だったのです。前夜に猛勉強し、数時間後の朝に学生に講義をする、なんてことも。その後教員と研究者の職務と並行して国際交流の仕事も長年手がけました。
 その経験を活かし、学長就任後も国際交流をより充実させていこうと思った矢先、コロナ禍に突入してしまい……。オンラインに頼らざるを得なかった時期もありましたが、今は再び元に戻りつつあります。また、海外のみならず道内にも目を向け、道民に高等教育の場を提供することを目指した「ユニバーサル・ユニバーシティ構想」を掲げ、大学、自治体、企業が協働して「進学支援」「リカレント教育」「教養教育」を実践しています。
 自分自身の歩みを振り返ると、中高時代も、大学以降もいろいろなことにチャレンジしてきたからこそ、その時々で成長の糧を得ることができました。ですので、皆さんにもどんどん挑戦してほしいと思います。挑戦した分だけ自らの可能性も広がりますし、失敗が許されるのは若い時の特権ですから、自分で限界を設けずに前に進んでください。

 

 

 

1911年の開校時より「実学・語学・品格」を教育モットーに掲げ、北海道の経済と社会の発展に寄与してきた小樽商科大学。帯広畜産大学、北見工業大学との経営統合(2022年4月)を機に国立大学法人北海道国立大学機構を設置し、次代を担うグローカル人材の育成にますます期待が高まっています。穴沢眞先生のご専門は東南アジアの経済。発展途上国に興味を抱いたきっかけは、大学時代に留学先で受けた授業だったそうです。
「global(地球規模の)」と「local(地域的な)」を合わせた語。

【穴沢 眞(あなざわ・まこと)】
1957年生まれ。大阪府出身。経済学博士(北海道大学)。
80年3月北海道大学経済学部経済学科卒業、同年4月株式会社住友銀行入行。85年北海道大学大学院経済学研究科経営学専攻修士課程修了、87年同研究科経営学専攻博士後期課程退学、北海道大学経済学部助手。89年小樽商科大学商学部講師、90年同大学商学部助教授、97年同大学商学部教授。10年以降、小樽商科大学にて国際交流センター長、学長特別補佐、グローカル戦略推進センターグローカルマネジメント室長、国際連携本部長などを歴任し、20年学長就任。専門は経営学、経済政策、アジア経済、国際経済、経済発展。