1955年に短期大学として開学、1960年より4年制大学となった都留文科大学(山梨県)は、東日本エリアの公立大学法人で唯一、教員養成を柱にした教育と研究を実践。「文科」とは「人文科学研究」=「人間探求の学問」を意味し、その専門的な学びを求めて全都道府県から多くの学生が集まっています。決まっていた就職を辞退して大学進学を決意されたという現学長の藤田英典先生に、これまでの歩みをお話しいただきました。
【藤田 英典(ふじた・ひでのり)】
1944年生まれ。石川県出身。教育学修士(東京大学)。
69年3月早稲田大学政治経済学部卒業。大手銀行勤務を経て東京大学大学院教育学研究科に進学、75年同修士課程修了。78年スタンフォード大学教育系大学院で博士課程修了(Ph.D.)。帰国後、名古屋大学で助手・助教授、東京大学で助教授・教授・教育学部長、国際基督教大学教授、共栄大学教育学部長などを務め、東京大学、共栄大学で名誉教授。学術会議会員、教育社会学会会長、教育学会会長を歴任し、20年4月より現職。専門は教育社会学。
生まれは東京ですが、戦中だったため、ほどなくして両親の郷里である石川県の金沢市に疎開し、大学入学前まで過ごしました。小学生の頃は近所の子どもたちと毎日外で遊んでいましたね。春が来れば野草を摘み、夏はバッタやセミを追いかけ、他にもコマやメンコ、鬼ごっこや2チームで対戦する駆逐水雷などを楽しみました。
家族は両親と2つ年下の弟の4人です。父は日中戦争時代に衛生兵として従軍し、東京に戻ってからは飛行機製造会社に勤め、金沢では*1専売公社で働いていました。勉強について親からあれこれ言われたことがなかったので、小学校時代は本当に遊んでばかり(笑)。その感覚のまま中学に進んだのですが、ある時、1つ年上の仲間を誘いに行くと、そこのお母さんに「うちの子はもう中2だから遊んでばかりいられないのよ」と言われました。それを機に、何となく自分も勉強しないといけないのかなと思い始めたのを覚えています。
*1大蔵省(現財務省)の外局であった専売局を、同省が外郭団体として発足させた特殊法人。たばこ、塩などの製造と専売を手がけた。
中学では友達に誘われて英語教室に通いました。老齢の先生が英語のテキストを読み、全員で復唱するだけのもので、半年ほどだったのですが、当時の私には新鮮でしたし、真似るだけでも自然と基礎が身についていたようです。大学進学後に英語の授業で「藤田くんは発音も読み方もなかなかいい。知り合いの息子さんの家庭教師をしないか?」と先生に言われた時、この経験があったからかなと思い出しました。
3年になると県立金沢泉丘高校への進学を目標に勉強を頑張り、夏休み明けのテストでは学年900人中3番になりました。そこで担任の先生に金沢大学附属高校の受験を勧められました。国立の附属高校の受験日は県立高校よりも早く、合否にかかわらず第1志望の金沢泉丘も受験できるから試しに受けてみればいいと。しかし、私は「国立の受験生にだけ特別にチャンスを与えるなんて不公平だ。国がやるべきことではない」と感じ、その提案を断りました。今思うとその頃から、経済や教育など、世の中の不平等や格差に対して非常に敏感だったように思います。
私は小学6年の頃から市民劇団に入っており、受験で休んでいた活動を高校から再び始めたところ、高校2年の春に行う公演の助監督を任され、とても忙しい毎日でした。勉強に割く時間がなく、夏休み明けの校内実力テストは、クラス50人中49番という散々な結果に……。入試の時は学年で上位10番以内の成績だったらしく、担任の先生も驚きを隠せなかったようです。市民劇団は公演終了後に退団する予定だったので、「高2から勉強する時間が取れます」と事情を話し、ひとまず安心してもらえました。
しかし、人生はうまくいかないもの。1年の冬、過労もあってスキー大会で転倒し、腰を痛めてしまったのです。椎間板ヘルニアだったのですが、2年の秋の10㎞マラソン大会が原因でひどく悪化。大きな手術が必要となり、数か月にわたって入院生活を送ることになったのです。そのため出席日数が足りず、留年してしまいました。
進路については、進学したい気持ちもありましたが、留年しているし、弟もいるので、親に経済的な負担をかけてしまうと考え、国家公務員になる道を選びました。公務員試験に合格し、北陸財務局への採用が決まったのですが、3月30日、初出勤の2日前になって「高校で勉強できなかった分、大学で真剣に勉強したい」という思いが募りました。すぐに財務局に電話を入れ、正直に気持ちを伝え、親にも認めてもらって就職を辞退し、受験浪人となりました。
浪人時代は本当によく勉強しましたね。予備校に通って1日12時間は机に向かっていたと思います。格差や貧困に関心があったので経済学部を志望し、早稲田大学の政治経済学部に合格。上京後、*2早稲田奉仕園の学生寮・友愛学舎で過ごしました。奉仕園には、近隣の大学の多数の学生も参加する10くらいのサークルがあり、私は社会科学や国際関係の研究会に所属しました。社会科学研究会では、日本を代表する思想家や哲学者を招き、私は前座で研究発表を行いました。講師の1人だった評論家の吉本隆明さんから「よく勉強している。内容をもう少し構造的にまとめればもっと良くなるよ」と声をかけていただき、とても励みになりました。国際関係研究会では、当時文化大革命の只中にあった中国をテーマに、ハーバード大学から先生を招待。また、70人くらい参加する、新設の知的障碍児施設でのワークキャンプ(側溝や園庭の整備)では、2年次に委員長を務めました。
さらに4年次は、フィンランドのトゥルク大学で行われた世界学生キリスト教連盟の会議に出席し、初めて海外へ。80か国から約350人が集まる大規模なもので、世界的に革命や学生運動が盛んな時代だったため、会場で拳を突き上げて「レボリューション! レボリューション!」と連呼する学生の熱気に圧倒されました。その後、イギリス・スコットランドのエジンバラ大学のサマースクールに参加し、1か月あまり滞在しました。そうした経験から最終的に私が関心を抱いたのは、世の中にある矛盾や理不尽さでした。常に世界情勢に目を向け、ゼミやサークルで仲間と議論を交わし、懸賞論文にも積極的に応募するなど、大学の4年間は学ぶことにとても貪欲でした。
*2宣教師・ベニンホフ博士が早稲田大学創始者・大隈重信の要請に応え、1908年に創設したキリスト教精神に基づく学生の交流拠点と寮。
大学卒業後は、経済の仕組みや金融の動きがわかる中枢で仕事がしたくて銀行に就職したのですが、働き始めると理想とのギャップが大きく、半年後には大学院進学を決意しました。社会学を研究したいと思い、東京大学教育学部の友人に文学部の願書をもらってくれるよう頼みましたが、なんと締め切りが既に過ぎていました。友人から教育学部はまだ猶予があり、教育社会学という分野があると聞いて志望を変更。面接ではそれまで学んだことを活かして経済発展と教育についての意見を述べ、無事に合格することができました。進学後は教育学専攻で修士課程を修め、その後、さらにスタンフォード大学の教育系大学院に留学。帰国後は大学教員の立場で日本の教育のあり方や政策について数多くの提言を行い、現在に至っています。
関塾生の皆さんに勉強のアドバイスをするなら、まずは規則正しい生活をして、時間を決めてコツコツ机に向かうこと。基本的なことですが、授業を真面目に聞いてきちんとノートをとることもやはり大事です。そして受験勉強は、たくさんの参考書に手を出さず、これと決めたものを1~2冊、確実に理解するまで繰り返すのが効果的です。得意な科目や分野がひとつできると、自信のもとになり、それにならって他の分野も力をつけていくことができます。
また、何か好きなこと、やりたいことがあれば、周囲に惑わされず、ぜひそれを貫いてください。私自身、高校以降は波乱万丈な人生でしたが、岐路に立った時、自分が本当にやりたいことを真剣に考えて選べたことが結果としてとても良かったと感じています。
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