未来ビジョン『志』を掲げる金沢大学は、4学域・20学類、7研究科を擁する国内有数の国立総合大学。目指すのは、地域と世界への視点を持って、今ある問題を解決し、同時に未来の課題も探求し克服する知恵“未来知”を備えた人材の育成です。同大学医学部ご出身の和田隆志先生は、学長就任後も教壇に立たれており、1年生全員の講義を受け持って、次代を担う学生たちに、自ら考えて行動することの大切さを直接伝えられているそうです。
和田 隆志(わだ・たかし)
1962年生まれ。東京都出身。博士(医学)。
88年3月金沢大学医学部医学科卒業。92年金沢大学大学院医学研究科博士課程修了。2001年金沢大学助手(医学部附属病院)、05年講師、06年助教授、07年9月より教授(大学院医学系研究科)。学長補佐(研究戦略担当)、医薬保健学域医学類長、副学長(研究力強化・国際連携担当)、理事(研究・社会共創担当)を歴任し、22年4月より学長に就任。専門は腎臓内科学、臨床検査医学。
生まれは山口県ですが、父の転勤で、東京都に移りました。幼い頃から体を動かすことが大好きで、近くの公園や広場で友人たちと野球やサッカーに明け暮れていました。
小学校では、4年の時の担任の先生をよく覚えていますね。子どもたち一人ひとりの良いところを見つけて伸ばすことで、クラス全体を盛り上げてくださいました。中学生になってもスポーツ好きは変わらず、バスケットボール部に入部。他に、正式な部員ではなかった卓球部にも顔を出したり、サッカー部と一緒にボールを蹴ったり、仲間たちと楽しく過ごしました。
勉強では、英語が好きで、小学生の頃から英語塾に通っていました。きっかけは、近所に塾に通っている友人がいたことです。おもしろそうだし、英語は習っておいた方がいいだろうと、自分も一緒に通いたいと親に願い出ました。
高校は、東京都立立川高校に入学しました。旧制の東京府第二中学校が前身であり、旧制時代の“バンカラ”な空気が色濃く残る学校で、その質実剛健・自主自律の校風に魅力を感じました。また、いとこも立川高校の卒業生だったことも影響しています。
受験に限らず、日々の学びで心がけていたのは、ただ暗記するだけではなく、身につけた知識を使って自分の頭で考えることです。また、受験勉強では、難しいことではありますが、他人と自分を比べないことも大切です。定期テストや模試を受けると、どうしても周囲の成績が気になりますが、人と比べると焦ってしまいます。焦らず、最後まであきらめずに頑張り抜くことが大切です。
高校時代を振り返ると、まず入学式の記憶が鮮明によみがえります。新1年生が緊張した面持ちで集まる場に、応援団の先輩方が突然入って来て、「一緒に歌おう!」と、肩を組んで声高らかに校歌を歌い始めたのです。一瞬で心を奪われ、すぐに応援団に入ることを決めました。
また、英語部にも所属しました。将来は留学したいという気持ちもあったため、熱心に活動しました。顧問の先生や卒業生の先輩方には、英語での表現方法だけでなく、海外の文化や人として大切なことなど、多くを教わり、人間的に大きく成長できたと思います。
▲歴史や古典も好きで、特に漢文・漢詩の音韻を美しく感じていました。「不易流行」、変化を重ねながらも変わらぬ本質を見極めながら次に伝えていきたい、という思いが私の根幹にあります。
大学の進路については、理系への進学はすぐに決まったものの、“人”について学ぶ医学部か、子どもの頃から好きだった“魚”を研究する水産学部かで迷いました。よくわかっていないこと、不思議なことに興味があり、最終的には“人”をより深く極めたいとの思いから医学部を選びました。ただ、私は覚えていないのですが、中学時代の友人によると、どうもその頃から「医者になりたい」と言っていたようです。
金沢大学を志望したのは、医学が源流で、旧制第四高等学校などの前身校を持っていること、また城下町・金沢に憧れがあったからです。当時は、金沢城内にキャンパスがありました。大学情報誌などでお城の中にある大学の写真を目にして、「ここで学びたい!」と強く思ったのです。当時、お城の中の大学は、世界でも金沢大学とドイツのハイデルベルグ大学の2つだけでした。鉄道好きでもあったので、まだ合格していないにもかかわらず、時刻表と地図帳を開いて東京~金沢間のルートを調べ、勉強の合間に紙上旅行を楽しんでいました(笑)。
合格を手にして実際に来てみると、学生にやさしい街で、とても住みやすかったです。実は石川県は、人口に対して大学数が多く、学生が過ごしやすい環境が整っています。伝統文化にもたくさん触れられて、食べものもおいしくて、本当に来て良かったと思いました。
専門については、入学当初は睡眠の謎を解明したいと思っていたのですが、人体に関するあらゆることを学ぶうちに、全身を診る内科へと関心が移り、特に興味を惹かれたのが腎臓でした。腎臓は、疾患が生じても発見されにくいため“沈黙の臓器”と言われており、治療の面においてさらなる研究が期待されていました。「腎臓内科学で研究・診療を行い、信頼される医師になりたい」という思いを抱き、大学院に進みました。
しかし、大学院での研究は、最初は何をやってもうまくいかず、思うように進みませんでした。毎日遅くまで実験して、うまくいかず、落ち込みながら指導教員に報告に行きました。ですが、先生はいつも「今日は収穫があった!」と言ってくださるのです。「こうすればうまくいかないとわかったことが何よりの収穫だ、前進した!」と。その言葉で、ものの見方を変えれば、それ自体が自分を前向きにしてくれるチカラになるのだと実感しました。
そして、博士号取得後の研究員時代に、本当におもしろいデータが偶然得られ、夜も眠れないほどワクワクしました。このワクワク感を仲間とともにまた味わいたい、患者さんに還元したい、その思いが今に至るまで研究を続ける一番のモチベーションになっています。ずっと望んでいた留学も実現し、アメリカ ・ボストンのハーバードメディカルスクールで研究に従事しました。約2年間の滞在で、最先端の研究現場を体験するとともに、外から日本を見て、自国、特に石川県の伝統文化のすばらしさにあらためて気づくことができました。
▲留学先のハーバードメディカルエリア周辺の紅葉です。
学長になってから、本学に入学してくれた1年生全員に授業を行っています。伝えているのは、「人との出会いを大事にする」「自分の頭で考える」「他流試合をする」ことの大切さです。他流試合とは、留学を含め、学外に飛び出すことで、それによって新たな知見や人生の宝となる知己を得られると自らの経験をもとに語っています。 同時に、「自分と未来は変えられる」ということも伝えています。自分を変える、社会を変える、未来を変えるには、単に机上で思索するだけでなく、考えたことを失敗を恐れず実践してこそ実現へと近づけます。それを体感する学びとして、本学では私が学長に就任した2022年度から、プロジェクト型の「未来デザインプラクティス」を共通教育科目として実施し、学生発信の企画を形にしています。
この「自分と未来は変えられる」という言葉を、関塾で勉強を頑張っている皆さんにもぜひ贈りたいと思います。その土台となるのは、やはり“自分で考える”ことで、加えて、目標を達成するまで“あきらめない”という姿勢も大事です。そう言われても「何から始めればいいの?」と戸惑うこともあるかもしれません。そんな時は、まず目の前にあること、今やるべきことに集中しましょう。「着眼大局・着手小局」という言葉が示す通り、大きな志を持って目標を立てて、小さなことから取り組み始めましょう。夢や目標に向かって、コツコツと、一歩ずつ前進してください。
▲留学してわかったのは、洋の東西を問わず、心と心を通じ合わせるのに国籍など関係ないということです。皆さんもぜひ“他流試合”に挑んで自分自身を高めてください。
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