文理合わせて14学部15研究科を擁する東洋大学は、日本最大規模の私立総合大学。4つのキャンパス(白山、赤羽台、川越、朝霞)は、いずれもアクセスのよい首都圏に点在し、およそ3万人の学生と50を超える世界の国・地域から集まる留学生が、それぞれの分野で自らの学びを深めています。矢口悦子先生の専門は社会教育学、生涯学習論。大学時代に受けた授業がきっかけで、人と社会をつなぐ教育のあり方に興味をもったそうです。
【矢口 悦子(やぐち・えつこ)】
1956年生まれ。秋田県出身。博士(人文科学)(お茶の水女子大学)。
80年3月お茶の水女子大学文教育学部教育学科卒業。83年同大学院人文科学研究科修士課程修了、86年同大学院人間文化研究科博士課程単位取得満期退学。複数大学で非常勤講師を歴任し、2000年山脇学園短期大学教授。03年東洋大学文学部教授。社会貢献センター長、文学部長・学校法人東洋大学評議員を歴任し、20年東洋大学学長就任、現在に至る。専門は社会教育学、生涯学習論。
故郷は秋田県の内陸部にある横手市で、真っ平な水田地帯が広がる地域で高校卒業まで過ごしました。家は米の専業農家。祖父母、両親、兄と弟の家族構成で、進学のために遠方から出てきた親類の子を預かっていた時期もあり、家の中はとてもにぎやかでした。
幼少の頃の生活を振り返ると、地域全体が開かれていて、近隣の大人たちはいつも声をかけ合い、子どもの世界では年長の子が幼い子の面倒を見るのが当たり前でした。学校にもその文化が根づき、高学年になると私も下級生のお世話をしたものです。
今も心に残る思い出は、吹雪の日の一斉退校です。今は警報が出ると親御さんが車で迎えに来ますが、当時は地域ごとに分かれて児童だけで下校し、集団を率いるのは6年生の役目でした。激しい雪の中、1年生や2年生が家に帰り着くまで見届けなければならず、高学年であっても大変なのですが、私はつらいと感じることはなく、使命感に燃えてその役目を楽しんでいました。道中、出会う人に「頑張ってるね!」と声をかけられるのも嬉しくて(笑)。そうして無事ミッションを終え帰宅すると、重責から解放された気持ちと、優しく迎えてくれる母や祖母の温もりに安堵を覚え、思わず涙がポロポロとこぼれることもありました。
勉強のことで両親から口うるさく言われたことは一度もありません。宿題も「なるべく家ではやらないように」と言われ、やるべきことは授業後の休み時間などに済ませていました。教科の得意・不得意は特にありませんでしたが、音楽だけは苦手。歌がうまくないことを自覚していて、歌のテストは苦痛でした……。
中学ではすばらしい先生との出会いがあり、1年生の時に担任だった20代の若い女性の先生のことはよく覚えています。ある時、班日誌に私はこんなことを書きました。「雨上がりの水たまりに小石が跳ねて広がる波紋を見ても、大人になると美しいと感じなくなる。だから、ずっと子どものままがいい」。これに対する先生のコメントは「なぜそう考えるの? 話し合いましょう」。放課後、2人で向き合うと先生は「大人でも美しいと感じる人はいる。最初から勝手な思い込みで決めつけては駄目」と、私が納得するまで丁寧に話をしてくださいました。先生のこの教えは今も私の原点になっています。
中学ではグループワークのおもしろさも実感できました。昼食時の座席について各自がアイデアを出し、クラスで議論した時のこと。私は当時の最新機器OHP(オーバーヘッドプロジェクター)を使って自分のアイデアをプレゼンテーションしました。図で示しながら説明したことも功を奏し、私の提案に皆が賛成してくれ、見事採用に。教科学習とは違うこうした学びが刺激的で、毎日がとてもドラマチックでした。
高校は秋田県立横手高校へ。旧制中学校が前身の進学校で、私が受験した当時は女子が目指すことに反対の意見もありましたが、多くの先生方が背中を押してくださり受験しました。私が入学した年は、男子生徒約300人に対して女子生徒は50人くらいだったでしょうか。
高校時代に情熱を注いだのは部活動です。郷土研究部考古班に所属し、夏休みには縄文時代中期の住居跡が見つかった場所の近くで合宿し、朝から晩まで、遺跡を掘る、出土した土器を洗う、復元作業をして報告書をつくる――これを延々とやっていました。でも、特に“考古好き”だったわけではなく(笑)、今振り返ると、無心になって遺跡を掘り、仲間と一緒に土まみれになってひとつのことに没頭することに喜びを感じていたのだと思います。
男子文化が色濃く残る高校で、ひたすら部活に打ち込み、勉強は特に秀でたものはなくてもその時々でおもしろいと感じた教科にのめり込む……。そんな風に高校生活を楽しんでいた私をよく見てくださっていたのは、担任としては、校内でただ1人の女性教師だった伊藤良先生です。進路について悩んでいた私に、お茶の水女子大学出身の先生は「お茶大に行けば、日本中から集まる個性豊かな女性たちと出会えるわよ」と。この一言が決め手となり、お茶の水女子大学への進学を決めました。
文教育学部を選んだのは、お茶の水女子大学の起源が教員養成の師範学校であることと、私自身、高校で文系か理系かを絞り切れず、勉強するなら漠然と教育かなと考えていたからです。就きたい職業を訊かれると、その頃は「中学校の国語の先生」と答えていましたが、それも何となくでした。
そうした中、学部の授業で「社会教育」という学問分野に出会ったことが転機となりました。文部科学省は学習指導要領で子どもたちの「生きる力」の育成を目標に掲げていますが、そのベースである「生きて働く学力」を最初に提唱した*1吉田昇先生が学部におられ、教育方法論や社会教育学を教えていらっしゃいました。残念ながら急逝されたので講義を聞けたのは3年生まででしたが、その後も*2小川剛先生のもとで社会教育について学び、特に第二次世界大戦後に全国各地で青年たちが展開した共同学習に興味を抱きました。さらに、吉田先生が「共同学習論」としてそのプロセスや理論を学問として定型化された事実を知り、感銘を受けた私はそれをテーマに卒業論文をまとめ、そのまま大学院で社会教育を専門に研究する道に進みました。
*1 1916~1979年。教育方法学や社会教育学を研究した教育学者。1958年、お茶の水女子大学教授に就任。
*2 1934~2005年。社会教育学者。
博士課程を修めた後は、大学教員として勤めながら社会教育学と成人教育の研究に取り組み、現在に至っています。教育分野に長く携わっているのは、研究を通して自分自身が常に変われること、そして、人と社会のために何が必要かを学生たちと一緒に考え、追求できることにやり甲斐を感じるからです。
東洋大学に着任して20年余り、学長を拝命して4年が経ち、2期目に入りました。本学は130年以上の歴史をもつ伝統ある大学ですが、私は伝統を守るには現状に甘んじず、常に改革し続けることが必要だと考えています。改革とは、本学の場合、スクラップ・アンド・ビルド(廃棄して創る)ではなく、時代に合わせて新しい環境を築くことだと捉えています。そこに「他者のために自己を磨き行動する」という東洋大学の精神をフィットさせることが重要で、2027年に新設予定の「環境イノベーション学部(仮称)」も、時代の課題に目を向けた改革のひとつです。
私は、自らの経験から、10代の頃はやりたいことを無理に定めず、どんどん迷っていいと思っています。迷い、揺れ動きながら、目の前のことに向き合っていると「これだ!」と思うものにきっと出会えます。そして、苦手なものを切り捨てないこと。苦手だからと遠ざけてしまうのはもったいない。どんなことも何かしら役に立つことがありますから、何事もまずは“楽しむ”姿勢で臨むことを大切にしてください。
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