横浜市立大学は、国際商業都市・横浜に学び舎を構える公立大学です。国際教養学部、国際商学部、理学部、データサイエンス学部、医学部の5学部を擁し、開放的で進取性に富む学風のもと、専門性、高度な教養、物事を多角的に捉えられる視点を持った人材を育成しています。現学長の相原道子先生も同大学のご出身。小学校の頃から常に自分で考えて行動することを意識し、高校1年の時に医学の道を志されたそうです。
【相原 道子(あいはら・みちこ)】
1956年生まれ。神奈川県出身。医学博士(横浜市立大学)。
80年3月横浜市立大学医学部卒業。皮膚科医務吏員、医師を経て、84年西ドイツMax-Plank Institute 免疫遺伝学部門研究員、88年米国Stanford University Medical Center研究員。小田原市立病院皮膚科医長、横浜市立大学附属病院、横浜市立大学附属市民総合医療センター勤務などを経て、2008年横浜市立大学附属病院皮膚科教授、11年同大学大学院医学研究科環境免疫病態皮膚科学教授。その後、同大学附属病院副病院長、病院長を歴任し、20年4月より現職。専門は皮膚科学。
国家公務員の父の赴任地だった名古屋市で生まれ、静岡県の清水市でも数年過ごし、小学6年の2学期から横浜市に移りました。子どもの頃に夢中だったのは読書です。小学校時代は足繁く図書室に通い、キュリー夫人、野口英世、ナポレオンといった偉人の伝記を特に好んで読んでいました。勉強では理科が大好きで、小学4年の時、夏休みの自由研究でアゲハチョウの観察結果を発表し、愛知県から賞をもらったこともありました。
両親の教育方針は、他の家庭と比べるとちょっと変わっていたのかなと思います。小学校の低学年頃から、とにかく「自分で考える」「自分の意思で行動する」ことを求められました。「先生がこうするのがいいって言ったから」と家で話すと、「先生が言ったからではなく、自分で考えて判断しなさい」と叱られることも。
その影響か、いくら仲の良い友達がいても、いつでも一緒に過ごすという感じではありませんでした。何をするにしてもまずは自分で考えて、本当にしたいことを選んでいたので、一人で行動することも多かったですね。
中学校に入ってからも小学校の頃と同じく理科が好きで、数学も得意でした。じっくり考えて学ぶ教科が自分に合っていて、社会の年代や地名など用語を暗記するのは苦手でしたね。中学校の勉強では予習を大事にしていて、新しい教科書が3月に配られると、春休み中に全ページを読み、問題も一通り解いてから新学期に臨みました。中学1年の時、理科の先生に「1年分の予習を数週間くらいでできるだけ終わらせておくように」と言われたのがきっかけで始めて、全教科そうしていました。
部活は合唱部に入り、ピアノの伴奏を担当しました。NHKのコンクールに出場し、神奈川県の地区大会で優秀賞を獲得したことは今も心に残っています。賞を獲れたのですが、本番はすごく緊張して、普段よりも速いテンポで弾いてしまい、皆から「歌うのが大変だった!」と文句を言われました(笑)。
高校受験は内申書を重視する時代だったので、特別な受験勉強をしたわけではありませんでしたが、入試に限らず、普段の定期テストでも、前日は睡眠時間をしっかりとることを心がけていました。心身ともに万全の状態で臨んでこそ頭も回転しますし、勉強したこともスムーズに出てきます。
幸運にも自宅から歩いて通えるところに学区のトップ高校があり、横浜緑ケ丘高校に進学しました。進学校だったので勉強は忙しかったですが、当時はまだ大らかな空気が残っていました。高校3年の秋に、自由研究の課題でクラスメイトと鎌倉に出かけ、お寺巡りをしたり、由比ヶ浜で海を眺めたりして、のんびり過ごせたことは楽しい思い出のひとつです。
医学の道を志したのは、高校に入った頃だったでしょうか。当時は、社会で活躍する女性がまだまだ少なかったのですが、父の職場には珍しく女性の管理職の方がいて、「これからの時代、女性も社会に出るべきだ」と、日頃から聞かされて育っていました。女性が活躍できる仕事といえば教師か医師くらいという時代で、母方の家系に医師がいたとも聞いており、教師より医師の方が自分の判断で動ける職業なので向いているのではないかと思ったのです。
横浜市立大学を選んだ理由もまた、自宅から通いやすい場所にあったという単純なものでした(笑)。自分の成績と照らし合わせ、現役で合格できそうな大学を調べている時、横浜市大に医学部があると知って志望校を決めました。
大学に入って最初に抱いたのは「この仲間たちと一緒に大学生活を送るんだ」という期待感です。当時の医学部は1学年60人。少人数なので全員の性格もすぐに把握でき、6年間苦楽を共にすることになるので、仲間意識も強まりました。今でも困った時は皆で支え合っています。
皮膚科に入局したのは、私自身がアトピー性皮膚炎でそのつらさを知っていたからと、せっかちなので結果が直に見える病気に興味があったからです。皮膚科に入ってから、時には薬の副作用で苦しむ人もいると知り、そんな本末転倒な事態から患者さんを救いたいと思い、皮膚の薬物アレルギーを専門分野に選びました。もうひとつ、恩師である永井隆吉先生が厳しくも温かいお人柄であったことも、大きな理由です。先生は患者さんに接する際、最初に握手を求めて、医師である以前に人としてお付き合いをする意思を示されます。その姿勢を臨床実習で目の当たりにし、とても感銘を受けました。
臨床だけでは視野が狭くなると考え、研究を続けることは早くから決めていたので、学部卒業後は研修医として経験を積みながら、様々な研究室に出入りして、自主的に学びを深めました。そのおかげもあって推薦をいただけて、皮膚疾患に関係する免疫遺伝学を学ぶために西ドイツの研究所に留学しました。そこでお世話になった教授にアメリカ行きをすすめられ、スタンフォード大学のメディカルセンターに渡りました。スタンフォード大学では、2週間に1回のペースで世界的に有名な研究者たちの講演が開催され、最先端の医学に触れることができました。後にノーベル生理学・医学賞を受賞された本庶佑先生も講演にいらしていて、シャツ1枚で腕まくりをして熱弁をふるわれていたお姿を覚えています。
帰国後は、研究者と臨床医の立場で様々な仕事に向き合いました。医学部生の臨床実習の指導では、かつて恩師に教わった医師としての心構えも伝えました。皮膚疾患は、内科と違って症状が目に見えますが、そこだけを診てはいけません。皮膚の症状が他の病気の兆候である可能性もあるので、体全体に目を向けて、患者さんの声にも真摯に耳を傾け、人対人の関係を築くことが大切なのだと教えていました。
学長として今力を入れているのは、次代を生きる力を培う教育の実践です。変化が著しい社会に対応するには、もはや過去の知識を教えるだけの大学では価値がありません。語学力も、世界的視野も必要ですし、データを読み解き活用する力は今後各分野でますます求められるでしょう。こうした様々なことを自ら学ぼうという意欲のある学生にぜひ来てほしいと思います。
関塾で頑張っている皆さんには、小学生や中学生のうちに慌てて将来を決めなくて良いのだとお伝えしたいですね。本当にやりたいことは、様々なことをしていく中で見つかるものです。興味を限定せず何でも挑戦してください。その時、周りに流されず、自分で考えて決めることが大事です。また、読書は効果が大きく、学校の勉強時間を削ってでもする価値があります。ただ、多くの本から自分に合う1冊を見つけるのは大変なので、家族や先生など、いろいろな人のおすすめを聞いてみましょう。
そして保護者の方には、お子さまが挑戦できるように支えていただければと思います。たとえ失敗してしまったとしても、まずは努力したことを褒め、次にどうすればいいかを一緒に考えてあげてください。
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