「知と癒しの匠を創造し、人々の幸福に貢献する」という理念のもと、国際性と指導力を備えた人材を育成する東京医科歯科大学。現在進められている同じ国立大学法人の東京工業大学との統合(2024年度中の予定)が完遂すれば、国際的に卓越した医歯学・理工学分野の教育研究拠点が誕生します。田中雄二郎先生が医者を志されたのは高校生の時。内科臨床医として勤務した後、次代を担う人材を育てる教育者の道に進まれました。
【田中 雄二郎(たなか・ゆうじろう)】
1954年生まれ。東京都出身。医学博士(東京医科歯科大学)。
80年3月東京医科歯科大学医学部卒業。85年同大学大学院医学研究科博士課程修了後、同大学医学部附属病院第二内科医員。86年米国マウントサイナイ大学附属アルコール研究医療センターリサーチフェロー。91年東京医科歯科大学医学部附属病院第二内科助手等を経て、2001年同大学医学部附属病院総合診療部教授に就任。06年同大学大学院医歯学総合研究科臨床医学教育開発学分野教授に配置換。同大学学長特別補佐、医学部附属病院副病院長、病院長、理事・副学長を歴任し、20年4月学長に就任。専門は医学教育、消化器内科学。
出身は東京ですが、出生地は愛知県です。新聞記者をしていた父がイギリスに赴任していた時、里帰り出産で母の故郷・豊橋市で生まれました。幼い頃は母方の祖父に可愛がってもらった記憶があります。私はイチジクが大好物なんですが、それは祖父が庭のイチジクの木から実を摘んで幼い私によく食べさせてくれたことが大きいですね。
その頃の母との思い出をたどると、足に大やけどを負った3歳の頃に行き着きます。熱湯が入ったヤカンを蹴飛ばしてしまったのです。母は、泣きわめく私をおぶって、「大丈夫だからね」と優しく声をかけながら町の診療所まで懸命に走ってくれました。幼心に“自分は母にとって大事な存在なのだ”と深く刻み込まれたできごとでした。
その後、弟が生まれ、父の帰国に合わせて東京で暮らし始めました。当初は、「家にどこかのおじさんがいる」という感覚で父を見ていましたね。もともと忙しい人でしたが、私が小学校に入学した頃に政治家に転身してからはさらに多忙に(*1)。毎晩遅くに帰宅し、4時間ほど眠るとすぐに起きて、机に向かって勉強していました。そんな父の背中を見て育ったので、勉強は誰かに言われなくても自分からやるものなのだと思うようになりました。
*1田中先生のお父様は、衆議院議員を8期務めた田中六助氏。内閣官房長官、通産大臣、自民党政調会長、幹事長を歴任。
小学校は地元の公立校へ。4年生の頃から塾に通わせてもらっていて勉強で苦労したことはあまりありません。小さな塾で、同じ小学校の子と一緒にサークル活動をしているような感じで楽しく通っていました。
中学は私立の麻布中学校に進学しました。自ら中学受験を志望したわけではなく、高学年になるとまわりが「あの中学校を目指す」などと言い始めたので、自然と受験を意識するように。模擬試験を受けると偏差値がわかり、狙える中学校が具体的に見えてきて、友達が「麻布中を受ける」と言ったのをきっかけに私も目指すことにしました。
実は小学校に入る際、父の勧めで成蹊小学校を受験しました。父は政治家の*2安倍晋太郎氏と仲が良く、その息子さんである元首相の晋三氏が成蹊小を受けるというので私にも受験させたのです。しかし、何の準備もせずに挑戦して結果は不合格。もし受かっていれば、安倍晋三さんと同級生になり、親しくなっていたかもしれません。中学受験はその無念を晴らす場となり、父は私の合格をとても喜んでくれました。
*2 新聞記者から政治家に転身。1958年の衆議院議員総選挙で初当選。内閣官房長官、外務大臣、自民党政調会長、幹事長などを歴任した。
中学に入ってからの勉強は、小学校の時とは一転、苦労の連続でした。定期考査は赤点スレスレの点数がいくつも並び、5教科の平均点はいつも60点程度。成績は下から5~6番目の低空飛行でした。合格時は自慢気だった父も「勉強についていけないのなら違う学校に通わせる!」と怒り出したほどです。転校こそしなかったものの家庭教師がつくことになりました。ですが、いざ勉強を始めるとつい居眠りしてしまうことも……。こんな調子でしたから、成績が伸びないのも無理はありません(苦笑)。
そんな私の転機になったのは、優秀な友達の一言です。「俺は書いて覚えているよ」。この言葉にピンときて真似してみると、世界史のテストの点数が98点に。私が試したのはテスト範囲から要点を書き出し、同時に声に出しながら覚えるという方法です。この勉強法に変えてからは高校進学後も各教科で学力が伸び、特に好きだった数学は成績がぐんぐん上がりました。
「大学では医学を勉強する」――。そう決めたのはいとこの影響が大きいです。20歳ほど年上のいとこが医学部で学んでいて、その白衣姿に憧れたのです。父は「好きな道に進めばいい」と言ってくれて、医学の道に進むことに決めました。
東京医科歯科大学では、学部時代の6年間で医学の基礎を学びました。最終的に内科医を選んだのは、内科が医療の象徴のように思えたからです。体力にも自信がなく、体力が必要な外科医は私には務まらないだろうと……。附属病院では*3武内重五郎先生率いる第二内科に入局しました。武内先生はいつも小走りで移動されるほど多忙な方でしたが、学生の質問にはどんなに忙しくても時間を割いてじっくりと耳を傾け、対応されていました。私が研修に入る前に相談に行った時も、丁寧にアドバイスしてくださったことを覚えています。
先生のお人柄がうかがえるエピソードがあります。一緒にエレベーターに乗っていた時、乗り合わせた患者さんが先に降りるのを先生はボタンを押してずっと待っておられました。多忙を極めていたにもかかわらず、学生たちと真摯に向き合い、患者さんへの配慮を決して忘れない姿を間近で見て、医者としてだけではなく一人の人間として多くのことを学ばせてもらいました。
*3 1974年、東京医科歯科大学第二内科教授。後に同大学医学部附属病院長。1987年退職。内科診療に関する著書多数。
大学病院と3つの民間病院で医者としての第一歩を踏み出し、アメリカ留学などを経て再び東京医科歯科大学附属病院に戻りました。その後、新設された総合診療部で教授に就き、国立大学の法人化に伴う教育の強化に向けて、ハーバード大学と提携したカリキュラムの作成などに力を尽くしました。今振り返ると医学部の学びが変わる転換期に新たな教育研修システムを一から構築できたことは大きな喜びでしたし、教育職は自分に合っているとも感じました。
武内先生の他に、私には影響を受けた恩師がもう一人います。小学5・6年生の時の担任、稲葉太喜栄先生です。様々な家庭環境の子がいる中で、稲葉先生は誰に対しても分け隔てなく温かいまなざしを注いでおられました。当たり前のことのようで実際は難しいこの姿勢は、医学の教育に携わるようになった私のお手本となりました。
今、学長として進めている仕事のひとつが、本学と東京工業大学の統合です。人のために尽くすのが医療に関わる者の使命ですが、医学歯学の領域だけでは限界があり、より質の高い研究で世界の大学と肩を並べるには、理工学との連携が不可欠です。この統合によって、両大学がこれまでに積み上げてきた実績と知を結集させ、人々の健康と社会に貢献できる、さらに進化した大学となることが我々の責務です。
関塾生の皆さんには、勉強で壁にぶつかったら学習方法を工夫しましょうと伝えたいですね。たとえば陸上競技では、100mを10秒で走るのは無理でも、走り方やトレーニング法を改良すれば自己ベストの更新は可能です。勉強も同じで、テストでいい点数がとれないと結果だけを見て落ち込むのではなく、点数を上げるにはどうすればいいかという過程に目を向けてほしいのです。いろいろな勉強法を試し工夫を重ねれば、自分に合う勉強法がきっと見つかります。それを実践すると結果は自ずとついてきますよ。
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