帯広高等獣医学校が前身の帯広畜産大学は、生命、食料、環境をテーマに、農学、畜産科学、獣医学に関する教育研究を推進する国内唯一の国立大学です。知の創造と実践によって実学の学風を発展させ、「食を支え、くらしを守る」人材の育成を通じて、地域と国際社会に貢献することをミッションに掲げています。2022年から2度目の学長を務める長澤秀行先生は、獣医を目指し、研究者から大学の経営に携わるようになったそうです。
【長澤 秀行(ながさわ・ひでゆき)】
1954年生まれ。北海道出身。医学博士(徳島大学)。
78年3月帯広畜産大学畜産学部卒業。80年同大学大学院畜産科学研究科修士課程修了。84年4月徳島大学医学部助手、同年11月同大学大学院医学研究科博士課程修了。91年同大学医学部講師、93年助教授。95年帯広畜産大学原虫病分子免疫研究センター(現 原虫病研究センター)教授、2001年センター長。02年同大学副学長、04年理事・副学長を経て08年学長に就任(15年12月に任期満了)。16年同大学顧問、公益財団法人とかち財団理事長。22年4月、帯広畜産大学学長に再任。専門は寄生虫学、免疫学。
生まれたのは北海道旭川市です。旭川では1年のうち半年以上はスキーが楽しめます。家のすぐ裏がスキー場だったこともあり、子どもの頃の遊びと言えばスキーでしたね。父に教えてもらった囲碁もよくやりました。初めは父と対局していたのですが、そのうち私の方が強くなって勝負にならなくなり、*1棋譜を見たり本を読んだりして独学で勉強しました。中学生になった頃にやめてしまいましたが……。
両親と7歳上の兄、4歳上の姉の5人家族で、父は中学校で社会と技術を教えていました。住んでいたのは、教員と学校職員用の教員住宅と呼ばれる団地です。100戸ほどあったでしょうか。住宅の周辺には野鳥などがたくさん生息していて、自然と生き物に興味を持つようになりました。
両親から「勉強しなさい」と言われた記憶はありませんが、自然と机に向かう習慣が身についたのは、兄と姉の影響です。私が小学校中学年になると兄と姉は高校生と中学生で、毎日勉学に励んでいました。3人ひと部屋で2人が勉強する姿をいつも見ていたので、当たり前のように兄たちと並んで本を読んだり勉強したりしていましたね。
*1囲碁や将棋の対局での手順を記録したもの。
小学校の頃の思い出と言えば、3年の時のことが真っ先に思い浮かびます。担任の先生が急に「君たちの人生の残り時間は……」と話し始めたのです。「平均寿命から計算すると、君たちの人生はあと○○時間くらいだよ」と。8~9歳の時ですから、自分の人生があとどれくらい残っているかなんて考えもしませんよね。そんな私たちに先生は真剣に、「人生は有限である。だから精一杯生きなくてはいけないんだよ」と伝えようとしてくださったのだと思います。そのインパクトは大きく、子どもながらに「そうか、命には限りがあるんだ。1日1日を大切に、勉強も学校生活も一生懸命頑張らなければ」という意識が芽生えたことを覚えています。
兄や姉と一緒に毎日勉強していたので、小学校の時の成績は良かったです。苦手はなく、どの教科も平均していい点数がとれていました。特に好きだったのは国語と理科。中学では友人と一緒に生物部に入り、1年の時から3年間、部長を務めました。
高校では空手同好会をつくり、3年間、部長のような役目をして部をまとめました。
大学進学を考え始めた時、最初に目指そうと思ったのは工学部です。なぜでしょうね。理由は覚えていません(笑)。大学受験の結果は、残念ながら不合格。それが悔しくて、もっと自分を追い込んで勉強しなければと、札幌予備学院という予備校の寮に入りました。寮には、朝から晩までひたすら勉強に没頭する受験生しかいないので、殺伐とした空気が漂っていました。消灯時刻の夜10時を過ぎると真っ暗になるのですが、どこからか電源を引いてきて明かりをつけ、こっそり勉強している学生がいたり、ラジオ講座を聴いている学生がいたり……。そんな皆から刺激を受け、生活を共にしながら切磋琢磨し、合格を目指して受験勉強に打ち込む毎日でした。
予備校生として過ごした1年は、自分が本当にやりたいことは何かを改めて考える時間でもありました。そうして出した答えは「馬の獣医になりたい」。受験まで半年というタイミングで獣医学志望に目標を定め、帯広畜産大学を目指すことに。畜大を選んだのは1年時から獣医になるための勉強ができたからです。それほど、少しでも早く獣医になりたかった。そして無事合格。畜大には獣医学を学ぶのに申し分のない環境が整っていて、希望に胸をふくらませて獣医への第一歩を踏み出しました。
大学ではラグビー部に入りました。練習は厳しくつらいことも多かったのですが、ラグビーには助け合いの精神や協調性、仲間の大切さなど、何物にも代えがたい多くのことを教えてもらいました。生涯現役を目指し、今も続けています。
獣医になるために勉強していた大学2年の夏休みに転機が訪れました。獣医の先輩がいる*2日高の牧場で住み込みのアルバイトをした時、先輩からいろいろな話を聞くうちに、獣医になりたいという気持ちが揺らぎ始めたのです。「牛や豚、馬は産業動物(家畜)として扱われるから、病気になったからといって必ずしも助けるわけではない」と。一頭でも多くの動物の命を救いたくて獣医を目指しているのに、状況によっては見捨てることもあるという厳しい現実を知り、それは私が理想とする獣医の姿ではないと感じました。
それで、獣医師の免許は取得したものの獣医にはならず、別の方法で動物を救うために研究者の道へ。大学院で研究テーマにしたのはトキソプラズマ症という感染症です。修士課程修了後は徳島大学でこの分野の研究を続けました。トキソプラズマがヒトや動物、鳥類など、ほぼすべての脊椎動物に感染するのはなぜかや、その他の寄生虫についても感染の仕組みと免疫との関わりを明らかにしたいと、感染免疫学の研究に力を注ぎました。約2年のアメリカ留学を経て徳島大学に戻り、その後、研究の場を母校の畜大に移しました。
*2北海道南部の地域。西は太平洋に面し、東には日高山脈が連なる。国内有数の競走馬の産地。
畜大では、研究のための環境が整っていないことに愕然としました。最新の設備はおろか最低限必要な機器すらない――。一念発起し、新しい施設を建てるための予算を申請したり、時には自分で設計図を書いたり……と奔走しました。そのうちに大学経営に本腰を入れるようになり、研究からはどんどん遠ざかって、気がつくと53歳で学長に就任していました。
当時も2度目の学長を務める今も実践しているのは、学生中心の大学づくりです。学生たちには、自分に付加価値を身につけて社会に羽ばたいてほしい――そんな期待を込めて地域及び国際社会に貢献できる人材の育成を進めています。畜大の最大の強みは、恵まれた自然環境の中で農学、畜産科学、獣医学を実践的に学べることです。これらは、知識の習得と実践学習の両方を行って初めて意味のある学問になります。自らの五感を駆使し、肌で感じる実学を通して、即戦力として幅広い分野で活躍できる、グローバルな人材を育てたいと考えています。
関塾生の皆さんには、アンテナを伸ばしていろいろな人の話を聴きましょう、と伝えたいですね。ただし、何でもかんでも鵜呑みにしてはいけません。一度聴いて、それはどういう意味なのか、別の考え方はないのかなど、よく考えることが大切です。たくさんの人の意見を聴いて考える癖をつければ、正しいかそうでないかを判断する力が養われ、そこからいろいろな学びが得られるはずですよ。
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