国立大学法人富山大学は、立山連峰と海湾を望む富山市と高岡市に3つのキャンパスを構える総合大学です。9つの学部、研究所、附属病院などを合わせると1万名を超える学生と教職員が在籍し、自らの専門性を高めながら地域と世界の発展のために教育・研究・社会貢献に従事しています。産婦人科学が専門の齋藤滋先生が自然豊かな富山の地に来られたのが25年前。中高時代は担任の先生や友達から頼られる存在だったそうです。
【齋藤 滋(さいとう・しげる)】
1955年生まれ。大阪府出身。医学博士(奈良県立医科大学)。
80年3月奈良県立医科大学卒業後、同大学産婦人科学教室入局。84年同大学大学院医学研究科修了後、同大学産婦人科学助手を経て、90年講師、97年助教授。98年富山医科薬科大学医学部産婦人科学教授、2001年同大学附属病院周産母子センター長。国立大学法人移行後、04年同大学附属病院副医院長、05年周産母子センター長。05年富山大学医学部産科婦人科学教授、06年同大学大学院医学薬学研究部(医学)教授。09年富山大学附属病院周産母子センター長、11年副病院長。13年富山大学教育研究評議会評議員。16年富山大学附属病院病院長、富山大学副学長。19年富山大学学長就任、現在に至る。専門は産婦人科学。
私は小学校を卒業するまで大阪の高石市で過ごしました。当時を振り返って一番心に残っているのは、4年の時に急性腎炎で2か月ほど入院したことです。ちょうど1964年の東京オリンピック開催の時で、病気になったことは不運でしたが、病室のベッドで朝からずっとテレビ観戦できたのは多少ラッキーだったと感じました。それでも長期で学校を休むとなるとやはり勉強のことが気がかりで、遅れないように毎日教科書を読みました。そのおかげで退院後の学校のテストは、なんと全教科で100点満点。あまり落ち着きがなく、授業中によそ見をして叱られているような子どもだったので、担任の先生はとても驚いていました(笑)。
家族は父と母、下に2歳違いの妹がいて、父親は国鉄(現JR)に勤めていました。躾に厳しく、毎週日曜日は勉強を見てくれました。一方、母親は大らかで優しい性格だったのでバランスが取れていたのではないでしょうか。
中学からは堺市に引っ越し、新しい生活が始まりました。入学当初は顔見知りがいなくて困惑することもありましたが、2学期になるとすっかり馴染み、楽しく過ごせるようになりました。先生に「クラスで何かあったら齋藤がまとめてくれ」とよく言われていて、なんだか嬉しかったです。2年になると大阪市の塾に通い始め、学校で習う以上のことも教えてもらっていたのですが、先生はそれを知ってか知らずか、勉強でもまわりを引っ張ることを期待されていました。
例えば3年の時、皆で高校の見学に行った帰りのことです。最寄り駅の大きな本屋に立ち寄って以前からほしかった参考書と問題集を買ったところ、一緒に行った友達も購入しました。後日、そのことを聞いた先生が、「よくやってくれた! みんな気が引き締まったぞ」と嬉しそうに声をかけてくれました。受験した大阪府立三国丘高校は地元のトップ校で、私が受けた年度は競争率が高く、他の学校では落ちた生徒も少なからずいたようです。そんな中、私たちの学校は全員が合格。その結果にも先生は大喜びでした。
自由な校風の高校でしたが、勉強に関しては「1年では1日3時間、2年では5時間、3年になれば7時間勉強しなさい」と言われました。授業進度が速く、数学は1年の最初の1時間で250ページの教科書のうち一気に50ページも進んで驚きました。2学期ですべて終わり、3学期は2年の範囲を先取りし、それが予習になったので次学年の始まりはとても楽に感じました。
得意だった科目は数学、生物、化学で、特に数学が大好きでした。魅力は推理小説の犯人を捜すようなところでしょうか。答えが1つでも解き方が複数あるのがおもしろく、数学好きの友達と一緒に答え合わせをするのも楽しみでした。
高校時代は勉強も頑張りましたが、それ以上に夢中になったのが体育祭や文化祭です。私は夏休みに勉強をしっかりやっていて、休み明けテストですごく成績が伸びたのですが、夏が終わると企画や準備にかかりっきりになるので、2学期の中間テストの成績は毎回急降下(笑)。先生に指摘されると「文化祭が終わればまた順位を戻します」と答え、必ず有言実行していました。
進路を本格的に決めたのは3年になってからでした。最初は工学部や理学部も考えましたが、得意な生物を活かしたい、小学生の時に大きな病気を経験した、志望する友達が多かった、などの理由から医学部に決めました。奈良県立医科大学を選んだのは、家から通えて、受験科目で生物を選択できたからです。加えて、当時1学年60人という単科大学ならではのアットホームさも魅力的でした。
医者になるためには、実は体力も必要です。大学入学後、先輩からスポーツをするよう助言され、軟式テニス部に入部しました。高校まで一切部活の経験がなかったので、1年生の時はきつかったですが、次第に体力がつき、6年生の最後まで続けることができました。先輩後輩の関係を経験できたのも、医者になってから若い先生を指導する時に役立ちました。
学部時代は医学の知識だけでなく、何事も最後まで責任を持って取り組む姿勢を学びました。独り立ちをして主治医になればベッドサイドに立ち、患者本人はもちろん、悩みや不安を感じる家族にも寄り添わなければなりません。そうした中で最良の治療法を提案し、使命感と責任感を持って最善を尽くす大切さを先生方から教わりました。
6年間の学びを終え、国家試験合格後はどの診療科の医者にもなれるのですが、私が選んだのは産婦人科でした。最初に研修に入った先がたまたま産婦人科で、初めて命が誕生する瞬間に立ち会い、産声をあげると赤ちゃんが本当に赤くなることや、お産直後のお母さんが観音様のような笑みをたたえることに、涙が出るほど感動しました。他の科ではその感動を上回ることがなく、産婦人科の仕事に自分の人生をささげたいと思いました。
そして産婦人科学教室入局後は研究にも情熱を注ぎ、母体が胎児を受け入れるメカニズムを解明しながら流産の新たな治療法を追究しました。研究については、最初はあまり興味がなく、ただどこの病院でも将来責任ある立場になるには博士号が必要だと聞いて進学したのですが、実際にやってみるとおもしろくて、食わず嫌いをしなくて良かったなと思いました。
富山大学には25年前に教授として赴任しました。初めて総合大学に身を置いたことで、研究だけでなく学生への教育に対しても、各学部が連携すればさらにクオリティを高められると感じました。本学は地元の3大学が統合してできたので複数のキャンパスがありますが、学長になって注力したのはその壁をなくし、各学部が密に連携し合える環境をつくることでした。今、その成果は着実に実を結び始めています。
学生への教育は「データサイエンスの全学必修化」「アクティブラーニングの推進」「英語教育の充実」を3本柱とし、社会で活躍できる人材を育てています。地元出身者が25%、県外が75%という学生構成ですから、全国から集まる個性豊かな人たちと刺激し合いながら成長していけるのも本学の強みです。
関塾生の皆さんは、まず好きな教科、得意な分野をつくりましょう。かつて日本は平均的な学力をつけることに力を入れていましたが、今は「個性」を伸ばす教育方針に変わっています。苦手な教科も最低限は勉強する必要がありますが、すべてが平均的だと社会で活躍するのは難しいです。これだけ様々な学問が高度に発展した世の中で、すべてを一人で行うのは不可能です。これからは一人ひとりが個性を活かし、得意をつくり、それぞれが協力し、輪になって社会課題を解決していく時代です。将来、自分の力を思う存分発揮できるように、好きな教科を皮切りに自らを高めてください。
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