国立大学法人岡山大学は1870年創設の岡山藩医学館を起源とし、150年以上の歴史の中、10学部7研究科1プログラム4研究所を備える総合大学へと発展しました。緑豊かで広大なキャンパスを有し、「晴れの国」とも呼ばれる穏やかな気候のもと、国内外の幅広い分野で中核的に活躍し得る高い総合的能力と人格を備えた人材を育成しています。医学部ご出身の那須保友先生は、世界で活躍するために英語の勉強に励まれたそうです。
【那須 保友(なす・やすとも)】
1957年生まれ。愛媛県松山市出身。博士(医学)(岡山大学)。
81年3月岡山大学医学部卒業。86年同大学大学院医学研究科博士課程修了後、同大学医学部附属病院医員、社会保険広島市民病院医師。89年財団法人積善会附属十全総合病院部長。91年岡山大学医学部講師。96年米国ベイラー医科大学研究員。2004年岡山大学大学院医歯学総合研究科助教授、10年同大学病院新医療研究開発センター教授、13年副病院長。同大学副理事、理事、副学長を経て23年4月学長に就任。専門は泌尿器科学。
私は3人兄弟の次男として、愛媛県松山市で生まれ育ちました。強気な性格の7つ上の兄とやんちゃな2つ下の弟に挟まれて、大人しく、いつもニコニコしているタイプでした。自分だけのものという考えがなく、お菓子を食べる時など1人で食べていいと言われても弟にも分けていたのを覚えています。
会社員だった父は実直な人柄で仕事一筋、勉強でも躾でも、子どもたちのことは母に任せてあまり口を出しませんでした。そんな父に一度だけ、ひどく叱られたことがあります。小学校低学年の時、地元の秋祭りで1人1つもらえるお菓子の列にこっそり2回並んだ時のことで、「嘘をつくな、人を騙すな」と。ズルをしてはいけないのだと深く反省しました。
勉強は得意な方で、市内には愛光学園という中高一貫の私立名門校があり、小学校で勉強ができる子は愛光学園を受験するのが一般的でした。兄もそうでしたし、私も当然そうするものという感覚で、近所の同級生と塾に通って受験勉強をしました。
愛光学園は、カトリック聖ドミニコ修道会によって設立されたミッション・スクールで、「世界的教養人」の育成を目指す学校です。将来、世界で活躍するためには英語ができるようにならなければと思い、中学1年の時から学校の授業はもちろん、放課後も毎日ラジオ英会話を暗記するほど聞いていました。2年の英語の先生は、英語の歌を扱うなど英語が得意な生徒や興味のある生徒を伸ばす授業をしてくださったので、ますますおもしろくなって、一番の得意科目になりました。
英語の他には、化学や物理などの理系科目が好きでしたね。逆に文系科目、特に古文・漢文は大の苦手で、世界史や地理などもできませんでした。進路を考える時、世界的な職業でまず思いついたのは外交官だったのですが、世界史や地理が苦手では駄目だと断念し、天体観測が好きだったので天文学者はどうだろうと思いました。ですが、天文学者について調べてみると、宇宙の原理など物理学的な研究が中心の学問で天体観測はあまり関係がなく、これも違うなと。最終的に医学部を目指すことにしたのは、兄や友人の影響です。友人に医学部志望が多かったですし、医学部に進学した兄の話を聞いておもしろそうだと思いました。
それで、学校の成績から考えると、大阪大学なら現役で合格できそうだったのですが、兄から「中四国地方の医学部なら岡山大学が良い」とすすめられて受けることに。今でも関西に出てみたかった気持ちはありますが、兄の助言はいつも正しく、私は頭が上がりませんでした(笑)。
大学ではテニス部に入ったのですが、ここで人生初めての挫折を味わいました。中高時代は部活動がなかったので活動そのものに慣れるのも大変でしたし、どれだけ頑張ってもなかなか上達せず、全くレギュラーになれなかったのです。上手な部員との差を痛感し、合宿の途中で嫌になって勝手に帰ってしまったこともありました。ですが、仲間と励まし合いながら最後まで続けることができ、良い経験だったと思います。同じ医学部で同じテニス部だった友人たちとは今でも交流が続いています。
学業に関しては、一度、ドイツ語のテストで前期18点と散々な点数だったことがあります。後期で100点をとらないと単位を落として留年してしまうという危機で、後期のテストは開始直前までノートや教科書を見返して諦めずに勉強し、なんとか単位をもらえました。この経験から何事も最後まで粘り抜く習慣がつき、今でも学長としてのスピーチをする時など直前まで練習しています。不思議なことに、試験で直前に見た内容が出題されることも多かったです。ですから受験勉強のアドバイスとしては、最後の最後まで諦めないこと、当日の休憩時間も全て使い、ギリギリまで粘ることが大事です。
専門分野については、外科の手術と内科の診察がどちらもできるような科に行きたいと考え、泌尿器科、脳外科、産婦人科の3つまで絞りました。最終的な決め手はやはり兄で、6年生の時、アメリカに留学して泌尿器科の研究をしていた兄のもとを訪れました。もともとアメリカで医師として働きたいと考えており、3週間ほど滞在して4~5か所の病院を見学させてもらって、まず日本で泌尿器科医になってからアメリカの医師国家試験の勉強をしようと決意を固めて帰国しました。
大学院に進学し、博士課程修了後は留学する予定で行き先も決まっていたのですが、諸事情で広島市民病院に医師として勤務することになりました。数年働いたら留学できるだろうと考えていましたが、その後、別の病院の医師、岡山大学の講師としての勤務が決まり、留学が遠のいてしまいました。仕事が忙しく、アメリカの国家試験の勉強をする余裕はなかったものの、いつかは留学したいと英語の勉強は欠かしませんでした。
結局、ベイラー医科大学への留学の機会を得たのは38歳の時です。随分と遅くなってしまいましたが、今ではむしろ良かったと思っています。経験を重ねた分、マネジメント能力やコミュニケーション能力が身についており、英語も不自由なく扱えたので、留学後すぐに活躍できたのです。研究チームのマネジメントを任され世界初の前立腺がんの遺伝子治療に従事し、論文の筆頭著者にもなって短期間で大きな成果をあげ、その後のキャリアへとつながりました。留学に適齢期はなく、どのタイミングで行っても得るものは大きいので、皆さんもチャンスがあればぜひ飛び込みましょう。
2年間の留学後は岡山大学に戻り、助教授、教授、副病院長、研究科長などを任され、その時々の立場で大学の発展に寄与してきました。現在は学長を拝命し、更なる飛躍のために尽力しています。2023年には「地域中核・特色ある研究大学強化促進事業(J-PEAKS)」に採択されました。日本全体の研究力を向上させるための取り組みで、本学では人工光合成など強みのある研究分野により力を入れ、社会に貢献し、変革していきたいと考えています。
若い世代の皆さんには、“利他の心”を持ってほしいと思っています。自分自身のことだけではなく、家族、友人、学校、地域、日本、そして地球に起こっていることを自分ごととしてとらえる習慣をつけてもらいたいのです。自分が社会にとってどのような貢献ができるか、そのためにはどうすれば良いのかという視点から進路を選んでください。収入や社会的な立場は目的ではなく結果です。もし、思い描いた通りの道に進めなくても、決まった道が進むべき道なのだと考え、目的さえ見失わなければ結果は必ずついてきますし、チャンスも巡ってきます。自分が本当にやりたいことが見つかったら、決して諦めず、そのために何が必要かを考え、学び続けてくださいね。
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