国公立5芸術大学に数えられる愛知県立芸術大学は、美術学部と音楽学部の2学部と、広大で緑豊かなキャンパスを擁しています。1966年の開学以来、愛知が生んだ芸術文化の拠点として国際的に開かれた芸術文化の核となることを目指し、高度で国際的な視野を持って芸術文化に携わる優れた人材を育成しています。現学長の白河宗利先生は、浪人時代のアフリカ旅行が人生のターニングポイントのひとつだったとお話しくださいました。
【白河 宗利(しらかわ・のりより)】
1969年生まれ。東京都墨田区出身。
93年3月東京藝術大学美術学部油画専攻卒業。同年、東京藝術大学美術学部の卒業作品の中で教授会が推薦した優秀作品に授与される「サロン・ド・プランタン賞」、美術学部生と大学院生の中で優秀な成績を修めた者に給付される「平山郁夫奨学金(平山郁夫賞)」を受賞。95年東京藝術大学大学院(油画技法材料研究室)修了。東京藝術大学の非常勤講師などを経て、2001年に愛知県立芸術大学美術学部助手に着任。講師、准教授、学部教授を歴任し、24年4月から学長に就任。画家として作品を発表するとともに、西洋画の技法と材料の研究を続けている。
東京都墨田区で両親と2歳上の兄との4人暮らしで、両親はベルトやカバンなどの仲卸業を営んでいました。父は穏やかで口数の少ない人で、商売気があまりなかったので、母が手伝うようになったのだと思います。兄はすごく勉強ができる人で、中学校ではずっと成績トップでした。兄が自ら勉強するタイプだったからか、両親から「勉強しなさい」と言われた記憶はありません。しかし私の方は、勉強は得意ではなく、毎日外で遊びまわるような活発な子どもでした。小学生の時は地元のリトルリーグで野球に熱中し、中学では陸上部で中・長距離走に打ち込み……やりたいことに取り組ませてもらえる環境でしたね。
こう話すと「放任主義」だったと思われるかもしれません。ですが、高校3年の三者面談で、芸術大学という私の希望進路に対して、担任の先生が「本当にそれでいいんですかお父さん!?」と言うと、物静かな父が「好きなことをさせるからいいんです!」ときっぱり返してくれたのです。ただの放任ではなく、本人の意思を尊重してくれていたのだとわかり、感動したことを覚えています。
育った環境の特徴をもうひとつ挙げると、祖父が日本画家だったので“美術”は身近なものでした。アトリエ(作業場)で絵を描く祖父の姿を見たり、一緒に展覧会に行ったりしていました。絵の描き方を教わったことはありませんが、図画工作が大好きだったのは祖父の影響でしょうね。
小学生の時、消防車をモチーフにした写生大会で賞をもらったことがあります。ほとんどの子が車を横向きの平面で描いていた中、私だけパース(遠近法)を使った斜めの構図で消防車を描いたのです。そうした発想ができたのは、祖父と一緒に様々な絵に触れ、「どう描けばどう見えるか」を理解していたからだと思います。
高校受験はそれほど悩むことなく、担任の先生にすすめられた私立高輪高校へ進学しました。下町育ちの私にとって街の中の高校は誘惑が多く、1年の頃は遊びに夢中でした(笑)。進路について考え始めたのは、2年になってからです。野球や陸上は上には上がいることを知って断念していて、勉強もしていなかったので有名大学への進学は難しそうだと。そんな時、ふと思い浮かんだのが祖父の姿でした。自分のペースで作品を作る祖父の自由な生き方とともに、絵を描くことが好きだったことを思い出したのです。
そこで美術の梅津先生に相談に行ったところ、芸大・美大進学専門の予備校の存在を教えてもらって通い始めました。高校でも2年生から美術部に入り、梅津先生の計らいで受験用の課題に取り組ませてもらい、下校後は予備校へ、という日々でした。
東京藝術大学は日本で唯一、国立の総合芸術大学で、最難関です。予備校で出会った東京藝大出身の先生方は、教え方や発想が自由で斬新で、私にとって憧れの存在でした。また、他の大学に比べ、学科より実技に比重が置かれていたため、勉強が苦手な私には有利だとも考え、東京藝大を目指すと決めました。
しかし、当時の油画科は、倍率約50倍の狭き門であり、何年も浪人するのが当たり前。弱気になり、私立大学も受けたいと親に相談したら、横で聞いていた兄が「お前が行きたいのは東京藝大なのに、他の大学を受けてどうするんだ」と。その言葉に奮起して、東京藝大1本で勝負しましたが、結果は不合格……。
しかし、この浪人生活が、私の人生の大きなターニングポイントになりました。1か月もすると、朝から晩まで絵を描く毎日に疲れ、「入試では技術だけではなく個性も重視されるのだから、人と同じことをしていては合格できない」と感じたのです。他の人がしたことのない経験をしようと、アフリカへの冒険旅行を思い立ち、アルバイトでお金を貯め、ケニアとタンザニアで約3か月を過ごしました。
そして、現地で見た風景は本当に衝撃的でした。排気ガスのない空は美しいコバルトブルーで、フラミンゴの大群で有名なナクル湖は見渡す限りのパッションピンク。どの風景も原色に彩られたアフリカにすっかり魅了されました。帰国後は色を混ぜて描くのではなく、どんなモチーフも原色で成立させる画風に。この傾向は、現在の私の作風にも影響を及ぼしています。この経験が功を奏してか、一浪で合格を手にすることができました。
東京藝大は、「学生は教授の背中を見て学べ」という雰囲気で、少々驚きました。授業そのものが少なく、作品さえきちんと提出していれば、あまり大学に行かなくても構わなかったのです。私は、先輩に声をかけられて、渋谷の商業ビルPARCOの壁画を描く仕事を始めました。とても順調で評判も良く、次々と仕事の依頼が舞い込み、学生としては考えられないほど稼ぐことができたのですが、次第に、これは私が本当にやりたいことではないと思うようになりました。自分が描きたい絵を好きなように描けるわけではなかったからです。
そこで、仕事は後輩に引き継ぎ、卒業後は大学院へ進むことに。ところが、指導を受けたかった先生が病気で亡くなってしまいました。どうしたものかと迷い、研究内容よりも先生のお人柄に惹かれた所属先を選んだところ、現在の専門の「油画技法・材料」の世界へ足を踏み入れることになったのです。
実は絵の具というのは、そのままキャンバスに塗るとはがれやすく、後々修復が必要になってしまいます。それを防ぐには、絵の具をきちんと付着させる技法を知る必要があるのです。それらは古典的な技法ではありますが、言わば「文明」です。それまでアフリカの原始的な色使いで絵を描いていた私にとって、文明でもある技法や材料の研究は新鮮でした。
大学院修了後は、作品を制作しながら大学で助手を務めていたのですが、壁画の仕事ほど儲からず、生活に不安がありました。そんな時、愛知県立芸術大学が講師を募集していると聞き、国公立5芸大(当時は4芸大)の1校としてレベルが高く、名作家も輩出していることを知っていたため、手を挙げて、今に至っています。
学長という立場になって、最も注力したいのは「芸術の力を社会とつなげる」ことです。芸術の力、音楽や絵には人を感動させる力が確かにあるのに、目に見えないため、数値化できず、社会に伝えることができていません。その橋渡しをするためのキーワードのひとつが「アート思考」です。アート思考とは、自分の価値観や感情をもとに自由に発想することを指し、私たちアーティストが“ゼロからイチ”を生み出す際の思考がまさにそれです。近年、ビジネスの場でも注目されつつある考え方であり、芸術は社会でも役立つものだと伝えていきたいと思っています。
そして、アート思考の原動力は「自分がやりたいと思ったことをやり通す力」です。関塾生の皆さんも、失敗を恐れずやりたいことに挑戦してください。一生懸命取り組めば、自分はそれが本当に好きなのか、自分に向いていることなのかが見えてくるはずです。
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