東北大学は1907(明治40)年の開学以来、「研究第一」「門戸開放」「実学尊重」を理念に掲げています。この3つを基盤に世界最高水準の研究・教育を創造し、多くの指導的人材を輩出。社会と世界に貢献する使命を果たしてきました。現在はこれらの伝統や理念を踏襲しながら、コロナ危機後の新しい日常「ニューノーマル」の時代を見据えた大学改革を進めています。改革を先導する総長の大野英男先生にお話を伺いました。
【大野 英男(おおの・ひでお)】
1954年生まれ。東京都出身。工学博士(東京大学)。
77年3月東京大学工学部卒業。79年3月同大学大学院工学系研究科修士課程修了、82年3月同博士課程修了。同年4月より北海道大学工学部講師、83年より助教授。94年7月より東北大学工学部教授。95年7月~2018年3月同大学電気通信研究所教授。同大学省エネルギー・スピントロニクス集積化システムセンター長、電気通信研究所所長、同大学スピントロニクス学術連携研究教育センター長などを歴任し、18年4月より現職。専門は電子工学、応用物理学、スピントロニクス。
小学校までは東京の世田谷区で過ごしました。当時の家族構成は両親と祖母、妹です。父は大学で教鞭をとり、母も大学の先生をしていました。保育園がない時代でしたので、両親に代わって幼い私の面倒をみてくれたのはお手伝いさんです。幼稚園の時は、園から帰るとよく近くの公園に連れて行ってもらいました。
小さい頃のできごとといえば、小学校に入る前、砂場で一緒に遊んでいた子の熊手が足に刺さり怪我をしたことがあります。病院で手当てを受け家に帰ったのですが、足を下に向けてはいけないと言われたので下に座布団を何枚も重ね、足を高く上げて寝ていました。この時、心臓の鼓動に合わせてズキンズキンと痛んだ感覚は今も鮮明に覚えています。これで足が遅くなったのではと思っています。
小学校の時は、父の仕事の関係で5回転校し6つの小学校に行きました。新入生として入学したのは東京の小学校で、バスで渋谷に出て地下鉄に乗り継ぎ通学しました。振り返ってみると、幼かったのによく1人で通えたなと。この学校に2学期まで通った後、家族でスウェーデンに渡りました。スウェーデンでは2年生までに通う学校とその後に行く学校が違うので、まずは1、2年生の学校に入り、3年生になる時に新しい学校へ。その後、アメリカで1年ほど暮らした後、小学4年生の時に東京に戻りました。それから札幌へ引っ越し。結果的に6つの小学校に通いましたが、あまり大変と思った記憶はありません。
後に両親から聞いた話では、スウェーデンの小学校では最初の3か月くらい、ひと言も言葉を発しなかったそうです。やがて突然スウェーデン語でしゃべり始めたとのことです。3か月ほどの間に耳で聞いた言葉を身の回りで起きたり目にしたりした物事と結びつけ、少しずつ理解していったのでしょうね。こうした覚え方ができるのは子どものうちだけかもしれません。私が今、新しい言語を覚えようとしても、とてもこうはいかないと思いますね。
ずっと海外にいて漢字がほとんど書けなかったので、アメリカにいる頃、父が毎日漢字を教えてくれました。ありがたかった半面、とても嫌だった記憶が……(笑)。4年生の2学期に帰国し東京の区立小学校に入ったのですが、跳び箱やたて笛は見るのも初めて、勉強もわからないことばかりで戸惑いました。勉強は嫌いではありませんでしたし、読書も好きだったのですが、日本に戻って最初の通知表は、5段階評価で1、2、3しかありませんでした。父も母も心配したと思いますが、私がそれを感じることはありませんでした。鈍感だっただけかもしれませんが(笑)、私にそう感じさせなかった両親にはとても感謝しています。
高校は札幌南高等学校へ進学しました。しかし、入学した1970年は*170年安保闘争の影響で中間試験の前に全学ストライキとなり、結局1年生の時は定期試験はありませんでした。そんな時代でしたね。「毎日学校に行って授業を受け、学んだ知識を積み上げる、といった、それまで当たり前と思っていたことがあっという間に崩れ去ることがある」と実感しました。
得意な教科は数学で、国語や世界史も好きで成績は良かったです。数学は他の教科に比べ覚えることが少なく、原理原則と最小限のことさえ頭に入っていれば、あとは自分で組み立てられるところが好きでした。一方で文系にも惹かれていて、「評論家になって身を立てるのもいいな」と考えたり……。でも、高校3年生の夏休みには理系に進もうと決めました。
東京大学工学部に進んだのは、小さい頃から工作が好きで役に立つものをつくりたかったことと、得意な数学を活かせると思ったからです。両親が理論物理学を専門にしていたのでその道も選択肢のひとつと考えて相談したところ、「物理ができない人は理論物理には進まない方がいい」と。言葉の真意は「理論物理学の分野で頭角を現すには抜きん出た能力が必要だ」ということでした。このアドバイスに納得したこともあり、工学部に進みました。
*11970(昭和45)年の日米安全保障条約改定を阻止するために展開された闘争。学生が中心になり全国の大学や高校でデモやストライキを起こした。
東京大学大学院修了後、北海道大学から「講師として来ませんか?」と声をかけていただき赴くことに。北海道には高校時代の同級生がたくさんいたので、平日は大学で研究と教育に打ち込み、週末は友人たちとバーベキューをしたりドライブに行ったりしてのびのびと過ごして、天国のようでした(笑)。
東北大学に赴任したのも、私が専門とする研究分野の教授としてどうかとお声がけいただいたことがきっかけです。25年前のことですが、仙台に来たのは初めてでした。“杜の都”と言われる通り緑豊かな自然に恵まれ、皆さんとても温かくて私の家族もすっかり馴染んでいます。気づけば仙台での生活がこれまでで一番長くなりました。東北大学の素晴らしい研究環境に驚くと共に、さぁやるぞと張り切って研究に取り組みました。スピントロニクス分野で世界をリードする成果が出せたのは、同僚や学生諸君と共に研究を極めるという本学の研究第一という伝統のお陰です。
研究者として大きな影響を受けたのは、アメリカの研究所で師事した*2江崎玲於奈先生です。先生がおっしゃっていたのは、「何をやるか」ではなく「何をやらないか」が大事だということ。「研究者はあるレベルまで行くと、いろいろなことができるようになる。その中でやらないことを正しく見極め、やることを絞って世界と勝負しなさい」という意味です。この教えは今も私の指標になっています。
*21925年生まれ。物理学者。73年、ノーベル物理学賞受賞。
今年発表された「*3タイムズ・ハイヤー・エデュケーション世界大学ランキング日本版2020」(278大学対象)で東北大学が初めて総合トップに輝きました。高評価をいただいた理由は、いくつかありますがひとつを挙げるとすると教育面での取り組みにあると思います。具体的には、高校生とその保護者、高校の先生との対話を続けていること、全国の高校の進路指導の先生を対象にフォーラムを毎年開いていること、などです。こうした地道な活動が、東北大学が何を目指しどういう教育を実践しているかを理解していただくことにつながり、それが浸透した結果と嬉しく受け止めています。
東北大学が目指しているのは、知識を提供するだけの一方的な教育ではなく、今回のコロナ禍のように社会が大きく変化した時にどうすればいいかを冷静に判断できる、ダイナミックに激変する世界に対応できる人材を育てることです。様々な状況に応じて、社会がどう変わっていくべきかを考え、その変革をリードできる、答えのない課題に向き合い解決策を見出せる、より良い未来を自らの手で切り拓ける――こうした力を大学で身につけてほしいと願い、その手助けをするのが我々教職員の使命と考えています。
学生一人ひとりが自身の能力を最大限発揮できるように現代的なスキルは大学で教えますが、それをどう組み立て何に活かすかは自分次第です。東北大学は学生諸君がその何かを見出す場でありたいと願っています。これからは、未知の世界にどんどん挑み自らの意思で物事を動かしていく、新しい状況に積極的に切り込んでいく、そんな行動力が求められるでしょう。
皆さんには、こういう時だからこそ興味があることを究めてみる、そんな時間をもってほしいと思います。小さいことで構いません。「こういうことをしてみたい」と思ったら、実現するためにはどうすればいいか、何が必要かも考える。こうした経験を積み重ねることで自分の土台ができ上がっていきます。失敗や挫折も経験のひとつ。失敗を恐れず様々な体験をして、社会をリードする人になってほしいと願っています。
*3世界的に権威のあるイギリスの教育専門誌。2004年より「世界大学ランキング」を発表。日本版はベネッセグループの協力により2017年から発表を始め今年で4回目。
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