京都精華大学は、「人間尊重」「自由自治」を理念に掲げ、英語英文科、美術科の2学科をもつ短期大学として、1968年に開学。1979年に4年制の大学となって以来、「表現で世界を変える人間の育成」のため、日本初のマンガ学部の開設など学問の領域を常に広げ、挑戦し続けています。日本の大学初のアフリカ系大学長として注目されたウスビ・サコ先生は、バンバラ語、英語、フランス語、中国語、そして関西弁を自在に操ります。
【ウスビ・サコ(Oussouby SACKO)】
1966年生まれ。マリ共和国・首都バマコ出身。博士(工学)(京都大学)。
マリ高等技術学校(リセ・テクニック)を卒業後、85年より中国へ留学し、北京語言大学、東南大学で学ぶ。91年、大阪の日本語学校に入学、同年9月京都大学研究室に所属。99年、同大学大学院工学研究科博士課程修了。2001年より京都精華大学人文学部専任講師に就任。02年、日本国籍取得。12年より京都精華大学人文学部教授、13年より学部長に就任。18年4月より現職。専門は建築計画学、空間人類学、コミュニティ論。
私はアフリカ、マリ共和国の首都・バマコで生まれました。国家公務員の父と専業主婦の母、妹と弟の5人家族でしたが、我が家にはいつも20~30人ほどの人が住んでいました。近い親戚から遠い親戚、親戚の知り合いの知り合いなどというよく知らない人までいたのですが、マリではそう珍しいことではありません。田舎から首都に出てきた人が同じ地方出身の人を頼って訪ねてきて、そのまま何日も逗留したり、一緒に住み始めたりするのです。マリでは子どもは地域の皆で育てるものなので、当然その人たちも我が家の教育に口を出します。私はやんちゃでよく叱られていて、どうやって大人たちの目を盗むかばかり考えていましたね(笑)。
地域での教育は、挨拶や食事の仕方、年長者へのふるまいなど日本でいう躾にあたるものであり、学校での教育とは全くの別物。マリの学校教育はフランス式、公用語もフランス語です。日本の国語にあたるのがフランス語や哲学(高校から)という感じです。父が学校教育に熱心だったので、私は最初、当時マリで唯一の私立小学校だった男子カトリックスクールに通いました。いわゆるお坊ちゃん校で、学校の友達と地元の友達は全く違いました。学校では言われた通りきちんと勉強していたものの、放課後や夏休みなど学校がない時は地元の友達と遊んでばかりで、成績は上がったり下がったり。父が私を叱っても、家に住む大人たちの中には勉強などしなくてもいいという人もいる。そこで父は、「これでは駄目だ。もっと厳しい環境で勉強させよう」と考え、小学4年の時、学校の先生をしていた田舎の親戚の家に私を預けました。
親戚の家は大変厳しく、毎日夜11時まで勉強漬け。4~5㎞も離れた学校まで歩いて通って疲れているのに、少しでも寝るとベルトで血が出るほど打たれるのです。電気も水道もなく、井戸での水くみも私の仕事でしたし、おまけにご飯がものすごくまずい。おかげで成績はみるみるうちに上がりましたが、地獄のような日々が6年間、中学3年まで続きました。
マリも日本と同様、小学校6年、中学校3年、高校3年、そして大学、というシステムですが、日本と大きく違うのは、成績が悪いと落第してしまう留年制度が小学1年からあることです。小中学校の卒業時にも全国統一試験があり、3回落ちるともう進学はできません。学費は大学まで無料ですが、途中で落第する人も多く、識字率は30%ほどです。小中学校は地域の学校に通うのが普通ですが、高校は成績によって進学先が決まります。当然、成績が良ければ名門校に入学でき、その学校は首都バマコにあります。私はこのチャンスを逃さず、リセ・テクニックという技術者を育てるための理数系特別校に入学しました。ちなみに、文理は自分で選べません。中学までの成績で、文系ができれば文系、理系ができれば理系の高校へ割り振られます。
晴れて都会へ戻り、地元の友達が皆おしゃれでかっこよくなっていることに衝撃を受け、追いつこうと一緒に遊んでばかりいたら、最初の成績はクラス37人中35位という散々な結果でした。即座に我が家で親戚会議が開かれ、普通校に転校させろなどという話まで出ましたが、また転校させられてはたまりません。なんとか成績を上げるには、と考え出した方法が学校の友達と自主的な勉強会を開くことでした。放課後は教室、週末は私の家に集まって、宿題をしたり試験の過去問題を解いたりしました。これがとても効果的で、最初は5~6人でしたが、最後には15人くらい集まるようになって、お互いに支え合って勉強でき、成績も順調に回復、常に5位以内をキープしていました。
高校3年になるとバカロレアという高校卒業兼大学入学資格試験があり、成績優秀者は国から奨学金をもらって留学できます。必ず通るとは限りませんが、専門分野もある程度希望できます。私は建築を希望しましたが、国外で学ぶなら建築だろうという単純な理由でした。マリには建築を本格的に学べる環境がなかったので、設計やデザインがなんだかかっこよく見えたんです(笑)。バカロレアで優秀な成績を取れたので、ヨーロッパやアフリカの有名な建築大学に行けるだろうと思っていたのですが、割り振られた留学先はなんと中国。正直、アジアは全くの想定外でした。
戸惑いながら留学したのですが、中国での待遇はとても良く、また世界中から何百人も留学生がきていて、世界の広さを実感し、価値観が大きく変わりました。例えば、マリはフランス語圏ですので、英語なんてという雰囲気があり、私も実は英語が苦手だったのですが、どの国の留学生に話しかけても英語が返ってきて、これほど世界共通の言語なのかと驚きましたね。
1年間中国語を勉強してから本格的に建築を学び始め、成績も良く大学院の試験が受けられたので、卒業後すぐに帰国するのではなく進学を選びました。ですが、中国では現地調査に警察の許可が必要で、調査先も指定されます。ただ理論や技法を学ぶだけではなく、もっと自由に現地調査に基づいた研究がしたいと思っていたところ、日本での研究の話を聞き、前年日本へ旅行して興味を持ち始めていたこともあって、日本への留学を決めました。半年間日本語を勉強して、京都大学の大学院で、建築計画学、中でも空間と人間との関わりをテーマに研究を続けました。博士号を取った頃、環境を変えたいと思い、京都精華大学の公募へ応募して、専任講師に。今は学長をしていますが、日本で学長として終わるのではなく、教育や建築の分野でこれまで得てきた経験や研究成果などをマリをはじめ世界で役立てていきたいと思っています。
皆さんには、問いを立てられる人間になってほしいです。日本でもマリでも学校教育は答えを出すような勉強が中心で、それ自体を悪いとは思っていません。しかし、マリでは学校とは異なる教育を地域や家庭で受けて育ちます。使用する言語も違い、二重人格のように育つので、学校の枠に合わせる自分とそうではない自分がいます。だからひとつのことが駄目でも、次はこうしてみよう、と考えることができます。日本は、皆同じ枠の中にいないといけない、少し外れるだけで駄目だという意識が強すぎると感じます。だから自分で考えず、誰かに正しい答えを出してもらいたがります。ですが、正しい答えに従うだけならロボットの方がずっと正確で速いです。これからの社会で活躍するためには、問いを立てられる力、課題に直面した時に本質を問う力が必要なのです。
実際に今、新型コロナウイルスの流行で社会は大きな課題に直面しています。例えば、GoToキャンペーンなど、始まったかと思えば停止されて、もはや何が正しいかわかりませんよね。そこで、答えを出してもらうのを待つのではなく、なぜ始まって、なぜ停止されたのか、自分で調べたり、いろんな人の意見を聞いたりして、どうするのがいいのか考えてみてください。一人ひとりが考えて行動することで、社会は良い方向に変わっていくでしょう。
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