関塾が発行する親子で楽しむ教育情報誌、関塾タイムス

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2019年12月号 わたしの勉学時代

遊びは宿題を終えてから

 鳥取に住んでもう40年近くになりますが、生まれは東京です。お寺が多く、寺町とも呼ばれる台東区谷中の出身で、その後引っ越して5歳から小学5年生までは板橋区、6年生からは神奈川の川崎市で過ごしました。当時の自分を振り返ると無類の本好きでしたね。幼い頃は母に絵本の読み聞かせをせがみ、字が読めるようになると興味のある本を次々手にしていました。読書の他は機械いじりのようなことも大好きで、時計やラジオが壊れると修理という名目で分解を楽しんでいました。どちらかというと性格は内向的。そんな私を心配して、小学3年生の時に父が野球のバットとグローブを買ってきてくれたんです。それをきっかけに外で友達と遊ぶ機会が増え、転校先でも野球を通じてすぐに仲良くなることができました。
 父はメーカー勤務のサラリーマンで、母は珠算塾の先生をしていました。家の躾は厳しかったですね。父からは「長男たるものは」と事あるごとに言われ、姉や弟の幸せを考えて長男の私が我慢するようにと、長男教育を受けて育ちました。今からすれば相当な時代錯誤です(笑)。一方、勉強面では母の教育が厳しく、遊びに行くのは必ず宿題を終えてから。先に遊んでいる友達の輪に、いつも30分ほど遅れて入っていました。

いろいろなものに興味があって、本も推理小説や伝記などジャンルを問わず手当たり次第読んでいました。文章を書くのも得意で、小説を書いてみたこともあります。

数学は自ら難問に挑戦

 小学・中学時代の勉強はどの教科もまんべんなく好きでした。やや苦手だったのは社会かな。単純に覚えることよりも筋道を立てて理屈で考えることが得意だったので、数学や理科が好きでした。特に数学は中学3年生頃になると普通の問題では物足りなくなり、難問レベルの文章題にチャレンジしていました。一つの公式を当てはめるだけで解けるような問題ではないので、ああでもないこうでもないと、頭の中の知識を総動員してとにかく延々と考える。丸一日かけても解けない問題もあって、そんな時は「今日はもう寝よう」と布団に入るのですが、夜中にふと「こうすれば解けるかも!」とひらめいたりするんです。飛び起きて再び問題に向き合うとスッと解ける、この爽快感と達成感がたまりませんでしたね。
 高校受験は担任の先生の勧めで国立の東京学芸大学附属高校を目指すことに。いわゆる難関校で、入試日が公立校より1か月ほど早かったこともあり、“力だめし”で受けました。定員は400人。そのうち、300人は附属中学からの内部進学ですから、外部から入れるのは残りの100人。さらに男女半々なので、枠は50人です。そこに1000人が受験したので、競争率はなんと20倍。入試当日、教室を見回して、「この中から合格するのはたったの2人程度か……」と思ったのを今でも覚えています。それでも運が良く合格することができました。

「理系でも文才を生かせるぞ」

 精神面で大きく成長できたのは高校時代です。ハイレベルな高校でしたが、自主性を重んじる校風で、学校行事の企画は生徒主体で行っていました。遠足や修学旅行の行き先もある程度自分たちで決められたので、皆であれこれと話し合いました。
 先生は学者肌の方が多かったように思います。高校2・3年生の時に担任してくださった体育の先生など、後々大学の先生になる方もいらっしゃいました。多くの生徒に慕われる、人望のある先生で、私もいろいろとお世話になりました。特に、大学進学での文理選択では親身になって相談に乗ってくださいました。私は本好きも手伝って文章を書くことが得意だったのですが、それを生かせる文系学部に進むべきか、それとも数学や化学の道に進むべきか悩んでいました。先生に相談すると、「理系に進んでも本は読まないといけないし、文章を書く機会も山ほどある。文才はどこでも生かせるぞ」との助言をいただき、迷いが吹っ切れました。
 理系の中でも化学を勉強したいと考えて学部を決め、周りの友達の多くが東大を志望していたので、私も自然と東大を目指すように。受験勉強も、学校の授業が高度だったので、ついていけていれば大丈夫という空気がありましたね。実際、クラス40人中24人が東大に入りました。優秀な生徒ばかりでしたが、いわゆる“ガリ勉”はいなくて、皆、遊ぶ時は遊ぶ、勉強する時は勉強する、とメリハリをつけていました。とにかく楽しい高校時代でしたね。

学校のテストはゲーム感覚で楽しんでいましたね。戦略を立てて挑み、点数が取れなければもちろん自分のミス。失敗したらそこから学べばいいのです。

学部では昆虫、大学院では植物

 大学に入った頃は学校の先生を目指していました。小中高で良い先生に多くめぐり会えたので憧れもありましたね。ですから1年次から教職課程を履修し、真面目に勉強していくつもりでしたが、いつしか出席が疎かに……。他の*1教養学部の授業とは違い、出席しにくい時間帯に設定されていたので、教職課程を履修していない遊び仲間の誘いに負けてしまいました。結局教職の単位は取れず、あの時、遊ばなければよかったなと今でも後悔しています。皆さんはそんな大学生活を送らないようにしてください(笑)。
 1・2年次の教養学部を終えると、3年からは以前より興味のあった有機化学を研究するために農学部に進みました。所属したのは農薬学研究室。農薬学と聞くと合成化学物質を想像されるかもしれませんね。しかし、私が専攻したのは生物化学で、自然界の生き物が生成する物質を扱う分野。その中で昆虫のメスがオスを引き寄せる時に発するフェロモンについて研究しました。
 卒業後は東大の大学院に進学し、同じ研究室で今度は植物化学に取り組みました。学部時代から所属していたこの研究室はもともと植物が専門の部屋だったので、私も改めてその分野に興味を持ったんです。植物ホルモンや分泌物質について研究し、その中でも細胞分裂の活性化や機能制御に関わる*2サイトカイニンの生合成の解明に取り組みました。

*1東京大学では入学後の2年間は教養学部で基礎・総合・主題科目の授業を履修する。
*2発芽や成長などの生理過程を調節する植物ホルモンの一種。サイトカイニンは似た構造を持つ複数の化合物の総称で、細胞分裂の促進や老化の抑制などに関与する。

上:高校時代の中島先生(左)。同じく外部から入学した友達と切磋琢磨されていたそうです。
下:東大研究室での1枚。

留学で“気づき”が得られる

 就職はそのまま東大の研究室に残りたかったのですが、席が空くまでに5~6年はかかる状況でした。そこで、恩師の教授から、食品メーカーの研究職、公的企業の研究職、鳥取大学への赴任、という3つの選択肢をいただきました。私は迷わず鳥取大学を選択。大学の教員は教職免許がなくても務まりますし、好きな研究に取り組みながら学生の教育に携われることに大変魅力を感じました。また当時はスキーが大好きで、自然豊かな鳥取の地へ行けることも楽しみでした。
 赴任先は応用微生物学研究室。大正9年創立の鳥取高等農業学校を前身とし、西川英次郎先生が早くからカビの研究に携っていらっしゃいました。西川先生は、小説家・芥川龍之介の親友で、エッセイにもたびたび登場されています。2人は旧制東京府立三中の同級生であり、西川先生が主席、芥川龍之介が次席で卒業されたそうです。そんな優秀な方がいらっしゃった伝統ある研究室でカビと向き合ってみたら、これが実におもしろい。生成される物質が想像もつかない複雑な化学構造をしていて本当に不思議でした。
 それを日々解明し、農業や環境問題にどう役立てられるかを追い求め、30代でアメリカのミシガン州立大学に研究留学して、1年間を過ごしました。そこで多くの方と出会い、著名な論文を読み、協力して作業を進めることで、研究への情熱はさらに高まりました。
 こうした経験を通じて改めて思うのは、積極的に海外で学ぶことの大切さです。留学すると多くの“気づき”が得られます。語学が至らない、日本のことを語れないなど、専門の学業以外での弱みも見えてくる。自分に足りないものに気づけば、自然と次に向かう意欲が高まります。実際、本学でも留学から帰ってきた学生は目の色が変わり、その後の学ぶ姿勢に大きく影響があります。留学は、新たに成長するきっかけとなるまたとない機会であり、ぜひ若いうちに経験してもらいたいと思います。
 これからの時代、大学という研究・教育機関を含め、様々な分野で活躍するためには国際的な視点が必須です。次代を担う皆さんはどんどん海外へ出て視野を広げ、様々な知識を身につけてください。

地域の課題解決から、世界を舞台に

 鳥取大学は今年で創立70周年を迎えました。それ以前の前身校の時代から、鳥取砂丘をフィールドとした砂防造林や砂丘農業の研究など、地域の課題解決に取り組む実学的・課題解決型の研究を充実させてきました。その研究は、乾燥地研究センターに引き継がれ、その後さらに世界の乾燥地へと拡大、実践されています。2015年からは国際乾燥地研究教育機構が設立され、乾燥地研究センターをはじめ、鳥取大学の全学部(地域学部・医学部・工学部・農学部)が連携して世界の乾燥地の問題解決に取り組んでいます。鳥取大学には他にも、世界トップクラスの遺伝資源を持つ菌類きのこ遺伝資源研究センターや、再生医療分野に取り組む染色体工学研究センターなど、日本を代表する特色豊かな研究施設があり、それらの研究は世界を舞台に展開されています。

乾燥地研究センター