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ペンギンからオーロラまで

国立極地研究所は東京都立川市にあります。
南極・北極とその周辺地域について、物理学や生物学など様々な科学的視点から調査・研究を行っている機関です。
天候や氷の観測、ペンギンやアザラシ、植物の調査などがよく知られています。
厳しい環境の中にいる生き物たちを調べることで、いろいろな発見がありそうですね。
極地研究所の活動内容は、地上や海中などの調査・研究だけにとどまりません。
オーロラを観測することで地球と宇宙とのつながりについて調べるなど幅広く活動しています。実は、南極大陸には宇宙から降ってきた隕石がたくさん見つかる場所もあるのですよ。
また、長期間を極地で過ごす観測隊員たちを支えるため、研究者や企業によって様々な技術が開発されています。

実物に出合える科学館

極地研究所内には、誰もが自由に見学できる「南極・北極科学館」があります。
南極や北極でどのような調査・研究が行われているか、実物展示を中心にわかりやすく説明してくれます。
 館内には、これまで観測に使われてきたもの、今現在も使用しているものなどが展示されています。まさに極地研究の最前線を体感できる場所ですね。
 また、南極の氷を触ったり、観測隊員が実際に着ている防寒服と同じものに袖を通したりといった体験もできます。
南極にある昭和基地のライブ映像も見ることができるのですよ。極地撮影されたオーロラの映像は、「オーロラシアター」で鑑賞できます。
ドーム型の天井がスクリーンになっているので、迫力あるリアルな姿を楽しめますよ。
 では、実際に科学館の中を、ナビゲーターの村山さんに案内していただきましょう!
 
 

日本列島よりも古い南極大陸

 科学館の展示の中心は、南極観測における日本の歴史や最新の研究結果です。
南極大陸の面積は約1400万。オーストラリア大陸の2倍に相当する広さで、地球で5番目に大きな大陸です。
表面の約98%が氷に覆われています。村山さん「南極大陸の周りは、南緯65度を中心に、幅約500㎞のドーナツ状に
一年中風が吹いている暴風圏が取り巻いています。約500㎞は、東京~大阪とほぼ同じ距離です。
暴風圏があるため、帆船では大陸に近づくことができませんでした。人間が初めて南極大陸に上陸したのは、今から200年前。
南極探検の歴史は、さらにその後、今から105年前の明治45年からスタートします」
 今から105年前といえば1912年。100年以上もの積み重ねがあることに驚きです。そして、この間の調査で様々なことがわかっています。その一つが、南極大陸はかなり古い時期に誕生したということ。
それは日本列島ができるさらに前、大陸が移動を始めた頃に遡ります。ゴンドワナという超巨大な大陸から、アフリカ大陸などがだんだんと離れていって、南極大陸が取り残されたと考えられています。
一つの大きな大陸が分かれて今の地球の姿になったのですね。
 
村山さん「南極大陸には後からくっついた部分もあります。
ちょうど南極横断山脈が、大陸同士がぶつかった跡になります。
そのため、山脈を隔てて地層が異なっているのですよ。
南極大陸で最も古い地層は約40億年前、昭和基地周辺には約5億年前の地層があります。
日本が誕生したのはそのずっと後のことですから、南極大陸とは地層がまったく異なります。
南極の岩石は日本にないものばかりであることからも、それがわかります」
 南極大陸を調べれば、一つの大陸が分かれて今の姿になる、その最初の頃についていろいろとわかるのです。
 

南極点を目指した日本人

今から105年前の明治45年一人の日本人が「南極点一番乗り」を目指しました。
白瀬矗(1861~1946年)です。南極点とは南緯90度地点、つまり地球の最南端のことです。
白瀬と全く同じ年、ノルウェーの探検家アムンセン、イギリスの海軍軍人スコットもまた南極点を目指していました。
結果、最初に南極点に到着したのはアムンセンでした。
スコットはわずかに遅れて到着し、引き返す途中に不幸にも遭難死してしまいます。白瀬は途中で引き返して一番乗りは果たせませんでした。
村山さん「残念ながら、白瀬による南極点一番乗りは実現しませんでした。しかし、この時、白瀬は自分たちがたどり着いた場所に”大和雪原”という地名を付けました」
 真っ白な地図の上に一番先に地名を付けるというのは、冒険家のロマンですね。そして、南極探検の歴史が始まった年に、日本人が同じ舞台に立ってノルウェーやイギリスと競っていたとは驚きです。
この白瀬の南極大陸への上陸は、日本の南極観測の原点となりました。
村山さん「南極・北極科学館では、実際に白瀬が南極へ持って行ったものも展示しています。
愛用の金槌や、南十字星をデザインした『白瀬南極探検旗』の実物です。
白瀬も使ったであろう犬ぞりもぜひ見学してください。他にも、白瀬が持って行った味噌をする道具のすりこ木もあります。
遠く離れた場所でも味噌汁が飲みたかったのでしょう。実に日本人らしい持ち物ですね」
 そして現在、日本は南極大陸に4つの観測基地を設けています。その中で最も歴史があり、現在も中心的役割を果たしているのが昭和基地なのです。
 
 

南極観測隊員たちの生活

 日本が初めて南極に基地をつくったのは、1957(昭和32)年のことでした。
この2年前、「国際地球観測年」という世界規模のプロジェクトが提唱され、その項目にオーロラや氷河、気象学など、極地研究に関するものがいくつも含まれていました。
そこで、日本でも南極観測の準備が急ピッチで進められたのです。
村山さん「基地をどこにつくるかも決まっておらず、準備期間が一年もない状況でした。
しかも、”越冬できる条件は基地に住居があり日本との通信が可能なこと”。
わざわざ建築家を連れていくことはできませんので、保温効果のしっかりした、素人でも建てられる組み立て式の家が必要でした。
いわゆるプレハブ住宅ですね。大変な状況の中、日本にない素材などを輸入して実現したのです。今でも一棟が現役の倉庫として南極に建っています」
こうした課題を乗り越え生まれた知恵や工夫は、技術の発展にもつながっていきます。
現在、昭和基地の建物は進化していて、隊員の皆さんはゆっくり入浴を楽しむこともできるそうです。
電気も通っているので、部屋の中も明るく、日本と同じようにとはいきませんが、快適に過ごせる環境が整っています。
しかし、時に厳しい環境の中での調査も求められるのが、極地というもの。
特に、南極点を目指すためには、たくさんの燃料と時間が必要です。

村山さん「身一つで移動できる観光客であれば、南極点まで飛行機で簡単に行けます。
しかし、調査となると別です。雪上車に調査機器を積んで移動しなければなりません。
今から約50年前、村山雅美さんのチームが日本人で初めて南極点に到達しました。
この時、村山さんたちは5か月もの間を雪上車の中で過ごしたそうです。南極点まで往復で5182kmを移動したのですが、補充用の燃料はたくさんのドラム缶に入れ、雪上車で引っ張っていきました。
燃料は、南国の寒さにも凍らないように、特別に開発されたものなのですよ」
燃料は一日にドラム缶一本必要だったそうです。
5か月分ともなると、かなりの数を持っていかなくてはなりません。大変な冒険ですね!

 
 
 

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