関塾が発行する親子で楽しむ教育情報誌、関塾タイムス

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2018年7月号 わたしの勉学時代

「自分の好きな道を進む」

私が生まれ育った利根町は、茨城県南部にあります。田舎の小さな農村地帯です。子どもの頃は、野山を駆け回る自由でのんびりとした時間を過ごしました。
実家は農家で、両親と祖母、2歳上の姉と暮らしていました。私は長男で跡取りだったわけですが、「家業を継いでほしい」とは一度も言われたことがありません。それどころか、父からは「これからは農業の時代ではなくなる好きなことをしなさい」と言われて育ちました。もともと「自分の好きな道を進む」が大越家の家風で、親戚の中には歯科医になった人もいます。父自身も若い頃は家を継ぐつもりはなかったようです。旧制中学を卒業後、植民地開拓のための国立学校へ進学したと聞いています。第2次世界大戦初期の頃でした。敗戦後は、開拓の仕事はなくなってしまったので、故郷に戻らざるを得なかったのでしょう。農家を継いだのも、本意ではなかったと思います。


小学校の行事は、地域を巻き込んで盛り上がりました。地域対抗の親子ソフトボール大会など、親子競技を楽しんだこともよく覚えています。

テストで自身のレベルを知る

当時の利根町立文間小学校は、1学年1クラス42名の小さな学校でした。男子は18名で、ちょうどソフトボールの試合ができる人数でしたから、放課後は全員で練習に励んだものです。町内のソフトボール大会で決勝に進んだのをきっかけに、小学6年生の時には野球チームをつくりました。監督の熱血指導のもとで特訓の日々を送り、まるで昔の青春ドラマのようでしたね。クラスメイトとはいつも一緒に過ごしていたので、仲間意識がとても強かったです。一方で、昔の田舎の小さな学校だったので、「男は女と口をきかないもの」でした。女の子と話していると、すぐに噂になったり、からかわれたりしたものです。小学5年生の時、隣の取手市から転任してこられた先生は、そんな私たちの様子を見て「なぜこんなに男女の仲が悪いのか」と驚かれました。隣の市とはいっても、取手は東京のベッドタウンのような地域だったので、だいぶ雰囲気が違ったのでしょう。あの時の先生の言葉は、今でも鮮明に覚えています。 そんな、周辺の地域とは隔たりのあった田舎の小学校は、お世辞にも教育に熱心とは言えませんでした。授業も時間割の半分程度しか行われず、多くの時間を自習や自由時間、行事の練習に費やしていたように記憶しています。もちろん学習塾もなく、 宿題以外の自宅学習をしたことがありませんでした。ですから、文間中学校に進学して時間割通りに学習が進むようになった時は、とても嬉しかったですね。また、中学校では、定期考査とは別に外部の業者テストを受けることができました。中学1年生の2学期から受けるようになったと記憶しています。これまでは、小さな学校の中での成績しかわからなかったのが、県内で自分の学力がどのレベルに位置しているのかが判明するようになり、非常に新鮮でした。好成績を残すと名前が発表されるので、そこもモチベーション維持につながりました。
一つ印象に残っている出来事があります。中学1年生で業者テストを初めて受けた時のことです。この時、第1位の成績で名前が掲載されたのは、同じ中学校の友人でした。私は、業者の集計のミスで50点も低くなってしまったため、第10位に名前が載っていました。本当なら1番だったので、大変残念な思いをしたことを覚えています。
この時、結果を知った担任の先生が、雨にもかかわらずバイクで家まで来てくださって、「大変申訳ない」と謝られたんです。先生の心遣い、生徒への熱い思いがよく伝わってきました。

「世の役に立つ医師になろう」

私にとって業者テストは「指標」でした。「自分には運動や芸術の才能はないけれど、勉強して力をつけて勝負できる職業なら向いているかもしれない」と思えたのもテストのおかげです。自分を客観的に分析することができ、これが医師を志すきっかけにつながりました。
私は小学校時代から算数が好きで、中学校でも数学と理科は得意科目でした。そこで、得意なサイエンスを通して人と関わりたいと思いました。医師は、病気の人を助け、世の中の役に立てる職業です。また、風邪などで病院へ行くと、その仕事ぶりを間近に見ることができましたので、働く姿を具体的にイメージできたことも大きかったです。子どもながらに、安定した収入が見込める職業であると思えたことも理由の一つでした。
医師になるためには、大学の医学部へ進学しなければなりません。学費のことも考え、国公立大学受験を意識して高校選びをする必要がありました。そこで、茨城県南地方のトップ校である茨城県立土浦第一高等学校を目指すことにしたのです。受験勉強は、業者テストの日程に沿った形でスケジュールを組みました。中学3年次には年に10回以上もテストが実施されたので、これに合わせて学習を進めていくと効率が良いと考えたのです。そうして無事に高校に合格できました。正直なところ、この頃までは学習に対して特に困難を感じたことがありませんでした。しかし、高校進学後に状況は一変しました。
土浦第一高校の授業は、田舎の小中学校とは比べものにならないほど難しかったです。特に数学と物理は新しい学問を習っているような感覚になり、「これまでの甘い学習環境ではだめだ」と考えを改めました。また、同級生の多くは、勉強ができるだけでなく、絵や音楽などの才能を備えた多彩な人が多く、とても新鮮でした。私と同じく医師を目指す友人もたくさんいて、互いに将来を語り合えたことも嬉しかったです。 しかし、残念ながら現役での合格は果たせませんでした。国立の医学部はどこも倍率が高かったうえに、当時は一期校と二期校の2つの区分で競ったため、現在よりもチャンスは限られていました。浪人するのが当たり前だった時代です。私も二度目の受験で筑波大学へと進学しました。


中学校では卓球部と郷土研究クラブに所属していました。郷土研究クラブでは、地元の貝塚を調査して、地層ごとに貝の種類と数を記録しました。夏は科学部と合同のキャンプもあって楽しかったです。

地元の医療に貢献するために

筑波大学を選んだ第一の理由は、地元で学びたいと思ったからです。加えて、医学専門学群の第1期生になれることも魅力でした。当時、茨城県は医療の後進県と言われていました。そんな地元に新しく開学した大学が、従来の講座制を廃止し、病態別のカリキュラム制などを取り入れた先進的な教育を取り入れるというのです。地元の医療に貢献するためにも、ぜひ進学したいと考えました。
専門教科の学習では、大変なこともたくさんありました。初めて附属病院の実習を経験した時は、机上の知識はまったく役に立たず、右往左往した記憶もあります。そうした経験を経て、学部6年生の時に神経内科を専門に選びました。進路相談の面談で、担任の中西孝雄教授から「ぜひ神経内科に進みなさい」とすすめられたからです。学者肌で「これぞ教授の典型」という雰囲気の中西先生から言われれば、とても断れませんでしたね(笑)。それに当時、神経疾患は原因や診断法、治療法が確立されていない分野で、原因のわからない難病も多く、面白そうだと考えました。私にとって、中西先生は大切な恩師の一人です。
私が臨床の現場に入った当時は※MRIがなく、頭の中を詳細に診断することは容易ではありませんでした。そんな中で、新しい症例に対して柔軟に思考を巡らせ、臨機応変に判断しなければなりません。こうした困難の中、多忙を極める医療現場で、「医師は常に患者から学ぶべきだ」と実感したものです。いくら優れた知識があっても患者を見ていない医師は実力が伸びていきません。現場から学ぶ重要性は、どんな分野にも当てはまるのではないでしょうか。

 ※核磁気共鳴を利用して、脳や脊髄、臓器などの状態を詳細な画像にする方法。

学びは次の成功への基礎

「勉学時代」真っただ中にいる皆さんにとって、日々の学習はとても大事です。まずはこれを疎かにしてはいけません。今の学びは、次の成功へとつながる基礎になります。もし「勉強が難しい、苦しい」と感じているなら、それは皆さんが成長するために頑張っている証拠です。今を乗り越えれば、一回り成長し、新しい世界に飛び立てるはずです。
それにプラスして、自分が好きになれることを一つ見つけてください。スポーツでも音楽でも芸術でも、何でも構いません。それらはきっと皆さんの出会いと可能性を広げてくれるはずです。保護者の方には、子どもたちと一緒に過ごす時間を大切にしていただきたいと思います。特に小学生は、自主性に任せるだけでは体験を広げることができません。一緒に行動したり、勉強したりする中で、子どもの成長を見届けていただければ幸いです。

筑波技術大学の強み

筑波技術大学には、聴覚障害者が学ぶ「天久保キャンパス(産業技術学部)」と視覚障害者が学ぶ「春日キャンパス(保健科学部)」があります。充実した情報保障技術、視覚障害補償機器などのサポートのもと、学生たちは学問・研究に存分に打ち込んでいます。各カリキュラムも同大学の魅力です。情報科学や機械工学、環境デザインなどの現在の産業・IT社会に欠かせない技術を学ぶ他、鍼灸学や理学療法学では最先端の病院実習も行っています。また、大学は個別指導などの就職支援体制にも力を入れていて、大手企業への就職、大学(大学院)への進学などを実現しています。そして、保健学科においては、国家試験の高い合格率を実現しています。こうした成果の下地には、学生たちの「学びへの真摯な姿勢」があります。

聴覚障碍者が学ぶ「天久保キャンパス」。