2019年5月号 わたしの勉学時代
故郷に息づく宿場町の名残
草津宿といえば、*1東海道五十三次の52番目の宿場です。滋賀県草津市には、そんな江戸時代の雰囲気を今に伝える宿場町の風情が色濃く残っています。ここが私の生まれ故郷です。子どもの頃は、ずっと遠くまで田畑が広がっていて、のどかなものでした。トンボを捕まえて遊んだことを覚えています。
父は高校で教員をしていました。京都の大谷大学を出て、僧侶の修行もしていたようです。詳しいことはわかりませんが、僧都の位を持っていたと本人から聞いています。父が滋賀県野洲市の高校に移ることになったのは、私が小学2年生の時です。その理由は、我が子である私にありました。私が、小学校に入ってすぐ、肋膜炎(胸膜炎)という病気にかかってしまったのです。退院後は安静と療養が必要だったので、空気のいい野洲へ引っ越すことにしました。
*1江戸時代に整備された五街道の一つ、東海道の宿場町のこと。
4歳上の兄、4歳下の弟の3人兄弟でした。兄は私が生まれてすぐ伯父の家へ養子に行きましたので、幼少期に一緒に過ごしたことはありません。
病気のこと、父との別れ
小学1年生の春、肋膜炎を患った私は大津赤十字病院に入院しました。小児病棟で過ごしていると、いろいろな病気を抱えた子どもと接します。痛がってベッドを降りられないほど重病の子もいれば、元気に退院していく子もいました。大きな手術痕が残った女の子のことも鮮明に覚えています。昨日まで一緒に過ごしていたのに、朝になったら亡くなっていた子も少なくありません。幼いながらに、いろいろと感じるところがありました。
小学1年生のほとんどを学校に行かなかったので、翌春もう一度入学式をしました。つまり、1年生をもう一度やり直したわけですね。2年生(本来なら3年生)で引っ越した野洲市では、「近江富士」として知られる三上山の麓で暮らしました。空気の澄んだ自然豊かな土地でしたよ。それでも、小学5年生の時にも入院をするなど、ほとんど学校に行けずじまいでした。「健康ほど大事なものはない」と痛感したものです。そこで、まずは規則正しい生活を送るよう心がけました。これは大人になった今でも続けていることで、徹夜はほとんどしたことがありません。
中学1年生になっても、学校にちゃんと通えたのは1か月ほどでした。そんな調子で過ごしていた、中学2年生の12月。父が交通事故に遭い亡くなってしまいました。そこで母は、私と弟を連れ、東京都世田谷区の実家に戻ることにしたのです。
偶然が生んだ仲間との出会い
世田谷区立松沢中学校へは、一人で転校届を持って行きました。母が弟に付き添って、小学校のほうに手続きに行ったからです。転校届を受け取った学年主任の佐原先生は、まず私に「どうする?」と尋ねられました。「進級自体は可能だけれど、受験生となるわけだし、これまでほとんど学校に行っていない状況で大丈夫なのか?」と心配されたのです。そして、「私が担当する2年生のクラスに入りなさい」と言っていただきました。私は迷わず「はい」と答えました。
この佐原先生のクラスで、私はかけがえのない出会いをします。それが、合唱部の活動をしていたグループです。中心メンバーには、後にNHKで多数の音楽番組を手がけることになる、鈴木誠一郎さんがいました。他に、ジャズピアニストになった人もいます。こうして初めて仲間と呼べる存在ができました。この頃から体調も少しずつ良くなってきました。ちょうど成長期だったことに加え、合唱も健康にプラスに働いたと実感しています。発声が体に良い影響を与えたのだと思います。健康を取り戻してきたこともあり、授業もちゃんと受けられるようになって、滋賀にいた頃には考えられなかった毎日を過ごしました。
父が亡くなり、寂しくて、一変した状況に戸惑いながらも、「将来は、自分の力で生きていくしかない」という自覚はありました。そして、自力で生きるためにも、高校そして大学へ進みたいと思っていました。当時の都立高校は9科目入試でしたが、それほど不安はありませんでした。なぜなら、毎日学校に通って勉強できる環境を、ようやく整えることができたのですから。また、療養中には、教科書を読んだり、マンガで歴史を学んだり、父に買ってもらった*2ソノシートで英語の発音を確かめたりといったことをしていました。その上で中学2年生を繰り返したわけですから、授業では知っていることも出てきます。そこに少しの安堵感があったので、精神的にはわりと楽でしたね。受験勉強で効果があったのは、全教科の参考書を声に出して読むことでした。声に出すと、ごまかしが利きません。読めないところ、理解できていないところを飛ばさずに勉強するには、うってつけの方法でした。発声は、健康にも記憶の定着にも良かったと思います。
*2レコードよりも薄い録音盤。シートレコード。
佐原先生から「中学2年生をやり直しなさい」と言っていただかなければ、音楽仲間との出会いもなかったでしょう。この時の仲間とは今でも交流があります。
自分の力で生きていくために
祖父に勧められて受験した東京都立新宿高等学校は、予想以上の進学校でした。入学後は授業についていくのに必死でしたね。大学進学の資金も自力で貯めなければなりませんでした。そこで始めたのが皿洗いなどのアルバイトです。わりと早い段階で早稲田大学を志望していましたが、入学金が用意できなかったこともあり、2年間の浪人生活を経て商学部に入学しました。
大学入学当時は*3学生運動の真っただ中。講義がほとんど休みになったことが、私には好都合でした。「今のうちにお金を貯めよう」と考えたのです。初めは小田急百貨店で働き、次に京王プラザホテルの皿洗いを始めました。たかが皿洗いと思われる方もいるでしょうが、これがなかなか良い経験になったんです。まず体力がつきました。それから、毎回違うフロアで仕事をするので、いろいろな現場の裏方をのぞき見ることができました。
アルバイトで貯めた資金の余剰分を使い、自分への投資も始めました。運転免許を取得した後は、実力をつけたいと思いました。「実力とは何か?」と考えたところ、「他人が付け焼刃で勉強したところで追いつけないものだ」と思ったんですね。それで、大学2年生になる前の春休みから、会計学校に通って簿記に挑戦することにしたんです。商学部とも関係ある資格ですから、自分の糧になると確信していました。資格取得後は、その会計学校でアルバイトをしました。雑用をしながら授業を盗み聞きできるのも良かったです。そのうち模擬試験の問題作成まで任されるようになりました。その会計学校では、次のステップにつながる、講師の方々との出会いもありました。
人との縁が、私の経験を豊かにしてくれたことは紛れもない事実です。大学院生の時には、全国地方銀行協会の通信講座の添削をしないかと声をかけていただきました。それから、アメリカの投資銀行の日本支店で働くこともできました。そこでは、会計の専門用語を英語で理解できることが必須だったので、私の能力がうまくはまったんですね。声をかけていただいた時、それに応えられる実力を身につけていたことが良かったと思います。
*3主に1960年代後半の大学生による大学改革運動・政治運動。
中学校時代、合唱部の仲間たちと。右写真は中段右端が大島先生。下写真は杉並公会堂での一枚で、先生は前列右から2人目。
経験を自分に投資すること
若い皆さんにはぜひ、自分への投資を惜しまないでくださいと言いたいですね。投資といっても、単にお金をかける・得るということではありません。大切なのは経験を積むことです。そして、どのような経験も、皆さんの意識一つで財産になります。例えば、私が経験したホテルの皿洗いも、目的を持って働けば、体力づくりにもなるし、ホテル事業の現場をのぞく機会にも、生きた英会話を耳にする機会にもなるのですから。
良い経験を積むためには、前向きに明るく生きていくこと。これが大事です。つらいこと、苦しいことがあると、なかなか難しいかもしれません。それでも、自分のこれからの伸びしろを信じて、とにかくトライすることを心がけましょう。私たち亜細亜大学は、一人ひとりの個性を伸ばし、前向きに力を発揮できる環境を提供していきたいと考えています。
アジア夢カレッジ
亜細亜大学では、皆さんの将来を豊かにする「経験する」プログラムがあります。その一つが「アジア夢カレッジ―キャリア開発中国プログラム―」で、4学部(経営学部経営学科・経済学部・法学部・国際関係学部)を対象にした少人数制の教育です。
このプログラムでは、成長著しい中国を見据え、日中の懸け橋となる人材を育成します。1年次に夢カレ生になったら、各学部に加えプログラムのカリキュラムも学ぶことになります。中国をはじめ世界各地で活躍する企業人による授業の他、2年次には中国・大連での半年間の現地教育も実施。中国滞在中の8週間には、現地日系企業でインターンシップ(ビジネス体験)も行います。想像以上の成長を実感することができますよ!
中国の企業を実際に経験できるプログラム。もちろん実践レベルの中国語も身につきます。