2019年6月号 わたしの勉学時代
職人一族の中の「変わり者」
大阪府岸和田市といえば、「だんじり祭」が有名ですね。岸和田で生まれ育った私も、子どもの頃はだんじりを曳いたものです。しかし、両親が祭りに熱心だったかというと、そうではありません。それは、指家が岸和田ではなく、もともと貝塚市のほうにあったことが関係しています。
板を差し合わせた木工品を指物といいます。この指物の技術を用いて、家具や器具を作る職人を指物師と呼びます。私の指姓は、祖先が指物師をしていたことが由来のようです。そんな指家があった貝塚市は、かつて職人が集まって栄えた町でした。祖父が早くに亡くなったので詳細はわからないのですが、昔はどうも羽振りがよかったようです。木を扱う指物師らしく、墓石の名を工夫して「」と作字するなど、洒落好きだったらしい祖先の足跡も残っています。親戚もそろって手に職をつけ働いている人ばかりでした。
私の父は技術者でした。産業機械の設計・試作などを請け負う、少し特殊な仕事をしていました。「こういう新商品をつくりたい」という依頼をもとに、製造工程を考えながら機械を設計していたようです。よく「特許をたくさん取ったんだぞ」と自慢していました。そのわりには、うちは貧乏だったんですけどね(笑)。
このような職人一族の中で、初めて四年制大学に進学したのが私です。当時、親戚たちからは「変わり者」扱いされたことをよく覚えています。
「自分にしか動かせない機械」が父の自慢でした。部品の削り方を工夫するなど、緻密な作業を積み重ねていく仕事は、まさに職人技だったのでしょう。
絵を描くことが大好き
私は、絵を描くことが大好きな子どもでした。特に、洋の東西を問わず、歴史の本に出てくる絵画や絵巻を模写するのに夢中でしたね。不思議なことに、この興味が後々専門分野と深く関わってくることになります。絵を描いていた記憶は、幼稚園に入る前、物心ついた頃からすでにありました。小学生になると、図画工作の授業でクレヨンや水彩画の道具を扱うようになり、ますます好きになりましたね。そうすると、そのうち油彩画にもチャレンジしたくなって、それを両親に言ったところ油絵具を買ってくれました。決して高価な物ではなかったのですが、嬉しくて、今でも強く印象に残っています。絵画のカラー印刷を見ながら、どうやったら同じように色をのせられるか試したものです。これが小学6年生の時のことで、ちょうど大阪万博が開催された年でもありました。
大阪万博に参加するため、小学校で楽器の練習をしたこともいい思い出です。小学3年時のクラス担任が音楽の先生だったことも、何か縁を感じます。実は、後年になって知ったのですが、この私が小学校3年生当時には、すでに大阪で万博が開催されることが決まっていたようです。それで、3年後に向け、岸和田の小学校が鼓笛隊を結成することになりました。私たちの学校では、その担任の先生が中心となり、準備が進みました。そして、いよいよやってきた万博の開会式は、なんと中学入学直前の3月15日。子どもですから、練習の目的はあまりわかっていなかったのですが、無駄にならずによかったですね。思い返してみると、当時の盛り上がりはすごかったです。万博に参加する前日には、私たち鼓笛隊は、まず岸和田の駅前でパレードをして、地元の人の応援を受けて会場入りしたのですよ。
「学者のほうが向いている」
小学校時代は、将来の夢を思い描いたことがありませんでした。そのせいで困ったことが起きました。中学校入学直後に、進路希望を提出するよう求められたからです。私も両親も首をかしげました。なにしろ進学には縁の無かった家なものですから、これが進学について問われているとは誰も思いつかなかったんです(笑)。悩んだ末に、とりあえず「エンジニア」と書いたことを覚えています。入学後、周りの同級生はすでに3年後の高校受験を意識していたので、とても驚きました。
中学校で苦心したのは英語です。小学校で学んだローマ字との違いに混乱しました。「同じアルファベットを使っているのに、ローマ字と英語はなぜ発音が違うのだろう?」と思ったものです。理屈抜きで英単語を丸暗記することもできませんでした。当時は、海外からやって来る人がほとんどおらず、英語は身近な存在ではなかったことも、苦手を克服できなかった一因かもしれません。一度だけ、小学校の遠足で電車に乗った時、海外からの旅行者を見かけ、珍しさのあまり子どもたちが次々とサインを求めたことがありました。そういう時代だったんですね。もちろん私も、その列に並んだ一人です(笑)。
高校は、大阪府立岸和田高等学校に進学しました。進学校ではありましたが、のんびりとした雰囲気も持ち合わせていたと思います。私も、この頃になると、ぼんやりと「大学に行くのだろう」と考えていました。学者もいいなと思いましたが、美術部に入り、絵を描くことへの興味がますます強くなったので、美術系の大学を少し真剣に考えるようになりました。ところが、美術部の顧問の先生は「きみの絵は理屈っぽい。学者のほうが向いている」と言うのです。岸和田高校美術部の先輩には、あのコシノ三姉妹の長女ヒロコさんと、次女ジュンコさんがおられます。日本を代表するファッションデザイナーを指導された先生は、私の絵から何かを見抜いていたのでしょう。先生の言葉を機に、学者の道を行くことを決め、大阪大学文学部へ進学しました。
中学校では、クラス担任が顧問を務める囲碁クラブに入りました。今思えば、囲碁の陣地を、白と黒の絵画的にとらえて考えていました。趣味の絵が役に立っていましたね。
導かれるようにイギリス史へ
私の専門は近世イギリスの歴史研究です。イギリスに興味を持ったきっかけは、子ども時代の記憶の中に思い当たります。一つは読書体験です。小学生の頃は「シャーロック・ホームズ」シリーズが大好きで、いつかイギリスを訪れたいと思ったものです。もう一つの理由が、ずっと好きだった絵画です。小学校に入学したての頃、両親が小学館の『世界原色百科事典』を買い与えてくれました。その本には、世界の歴史を彩る、様々な美術作品がカラーで掲載されていました。これらを模写するうちに、しぜんと歴史に興味を抱くようになったのだと思います。『世界原色百科事典』は繰り返し読んでいたので、内容をよく覚えています。こうした視覚資料は歴史研究でもよく活用するので、役に立つのです。物語や絵画から受けた影響は計り知れません。こうした下地があって、導かれるようにイギリス史の研究へと進んでいきました。
研究生活で避けて通れなかったのが英語です。大学生になっても、英語への苦手意識は抜けないままでした。ところが、西洋史の研究では、洋書の資料を読み込まねばなりません。「これではいけない」と思い、好きな美術関係の洋書を読むことにしました。これは効果がありました。音楽やファッションといった、自分が興味のある分野の英文にふれると、理解が深まります。英語が苦手な人に、ぜひおすすめしたい方法です。
イギリス史研究における一番の恩師は川北稔先生(大阪大学名誉教授)です。先生が、私の研究者人生をすべて決めたといっても過言ではありません。初めてお会いした時はまだ30代の若手研究者で、研究室を持たれたばかりでした。つまり私は一番(古い)弟子というわけです。厳しくも優しい川北先生から受けた影響は大きく、本当にお世話になりました。また、大学院時代には、憧れだったイギリスにも初めて訪れることができました。感動もひとしおでしたね。すっかり忘れていたのですが、最近その時の写真を整理したところ、最初に訪れていたのはベイカー街だったんです。物語の中で、あのシャーロック・ホームズの家がある通りです(笑)。
興味を持って「調べる」こと
私の人生は、自身の好奇心によって切り拓かれてきたように思います。好奇心に駆り立てられて、いろいろと「調べる」うちに、しぜんと知識や経験が積み重なっていきました。若い皆さんにも、ぜひ好奇心を大事にしていただきたいです。新しいことに出合ったら珍しがり、面白がることが、可能性を広げてくれるはずですよ。
興味を持って「調べる」ことは、情報の真偽を見抜く目も養います。今はインターネット上に情報が溢れ、検索をすれば何かが必ずヒットします。しかし、それは果たして信じていい情報でしょうか。他の意見もあるのではないでしょうか。一つの結果で完結するのではなく、「調べる」経験を積み重ねましょう。
高校時代に指先生が描かれた自画像。
模擬国連世界大会
大学時代に半年以上の留学を経験し、多様な世界にふれる神戸市外国語大学の学生たち。語学を一つの手段として、それぞれの夢を切り拓いています。そんな同大学は、国連が全面支援する活動で、全米学生会議連盟(NCCA)が主催する「模擬国連世界大会(National Model UnitedNations)」にも積極的に参加。国連本部などを舞台として5千人以上の学生が参加する春季のニューヨーク大会、世界各地で開催される秋季大会に学生を派遣しています。模擬国連は、単に英語力を発揮する場ではありません。学生たちは国際問題への理解を深め、政策提案力や交渉力などを磨くことができます。2020年11月の主催は、なんと神戸市外国語大学。世界各地の学生が神戸に集まります。
模擬国連では、学生たちは自国以外の国の代表となり、課題解決のために話し合いを重ねます。