東京都三鷹市にある国際基督教大学(ICU)は、世界平和に貢献できる人材の育成を目指し、1953年に誕生しました。日本で最初のリベラルアーツ大学として国際理解と文化交流の推進を牽引し、多くの卒業生が世界を舞台に活躍しています。岩切正一郎先生の学長就任は、2020年の4月。本、映画、フランス文学に情熱を注いだ勉学時代の思い出を、数々のエピソードを交えて語ってくださいました。
【岩切 正一郎(いわきり・しょういちろう)】
1959年生まれ。宮崎県出身。文学修士(東京大学)。
83年3月東京大学文学部卒業。88年3月同大学大学院人文科学研究科修士課程修了(M.A.)。91年3月同博士課程満期退学。93年パリ第7大学テクスト・資料科学科第三課程修了(DEA)。96年より国際基督教大学教養学部助教授、2007年より教授。11年に同大学アドミッションズ・センター長、19年に教養学部長を歴任し、2020年4月より現職。専門はフランス文学、演劇。08年に第15回湯浅芳子賞(翻訳・脚本部門)受賞。
宮崎県の北端部に“神話のふるさと”と呼ばれる高千穂という町があります。私はそこで産声を上げ、延岡市に移ったのち、小学生から宮崎市で過ごしました。子どもの頃は本が大好きでした。小学校時代は怪盗ルパンやシャーロックホームズ、少年少女文学全集などに夢中で、海外の作品がお気に入りでした。当時は外国文学という意識はなかったのですが、名作に触れる中で自然と海外の作家が紡ぐ物語の魅力に惹かれていったのだと思います。
家族は両親と妹が2人で、父は銀行員、母は専業主婦でした。教育熱心というほどの家庭ではなく、妹たちはピアノ、私は習字に通うくらいでした。学校が終わると友達と外で遊び、家に帰ったら好きな本を読んで、毎日楽しく過ごしていました。しかし、小学6年の時、ひょんなことから中学受験をする機会が訪れます。宮崎大学教育学部附属中学校を目指していた近所の女の子が途中であきらめ、「岩切くん、受けてみれば」と参考書などを一式くれたのです。頭になかった中学受験ですが、勉強し始めると次第に問題を解くおもしろさに目覚め、「頑張ってみようかな」という気持ちになり、受けてみたらまさかの合格でした。
中学入学後は、様々なカルチャーショックを受けました。まず、小学校では女子は男子を「くん」付けで呼んでいたのですが、附属中学校では「岩切さん」と呼ばれるのです。気恥ずかしくて、なんだか違う世界に来たように感じました(笑)。また、初めて習った英語の授業がとてもおもしろく、どんどん好きになりました。当時、*1『ある愛の詩』という映画が流行っていて、校長先生が「私は原作小説を読みました。英語を習っている君たちもぜひ読んでみなさい」とおっしゃったことに感化され、すぐに挑戦したほどでした。
ただ、他の教科には大して興味も湧かず、中学1年の終わりから2年まで成績は低迷しました。その頃は友達と自転車で繁華街に行き、海外の映画を観るのが楽しくて仕方ありませんでした。それでも頭の片隅に「いつか勉強しなければ」という意識はあり、3年になってから真剣に机に向かうことに。私は県立高校志望でしたが、隣の鹿児島県にある有名進学校ラ・サール高校を目指す同級生に影響を受け、彼らが解いていた難しい問題集に挑戦したり、得意な英語は大学受験用の参考書で勉強したりして、受験を突破する力をつけました。
*11970年に製作されたアメリカの恋愛映画。原作・脚本エリック・シーガル、監督アーサー・ヒラー。第43回アカデミー賞作曲賞受賞。
進学した県立宮崎西高校では1期生でした。予定よりも早く開校したため校舎が未完成で、1年の時はプレハブ教室で過ごしました。雨音がうるさく、夏はとにかく暑かったですね……。高校時代は国語の先生に大きな影響を受けました。冬でも下駄ばきと半袖姿で、職員室にほとんどいないという個性あふれる先生でした。授業もユニークで、先生が高校時代に書いた作文を読ませてもらった時は、その文章のすばらしさに驚いたことを覚えています。単なる大学受験のための授業ではなく、ご自身の文学研究や文学の楽しさについてなど、先生が本当に伝えたいことを教えてくださいました。また、世界史の先生からも様々な刺激を受けました。*2フランソワ・ラブレーの『ガルガンチュワ物語』を借りて読み、海外文学の奥深さに魅了され、シェイクスピアなど英語の作品は理解しきれないながらも原文で読んでみて、「大学で海外文学を勉強したい」と思うようになりました。
受験勉強は、高校1年で一度英語塾を覗いてみたもののスパルタ式の詰め込み教育が性に合わず、1日で辞めました。その後、難関大学を目指す高校生向けの通信教育を始め、徐々に模擬試験で結果が出るようになったので「東大に行く!」と宣言しました。東大を第1志望にした理由はかなり単純で、東京に行って勉強したいという気持ちがあり、家庭の経済事情で国立大学しか選択肢がなかったからです。
*216世紀に活躍したフランス・ルネサンス(文芸復興)を代表する人文主義者。作家であり医者でもある。
大学でフランス語を学ぶことにしたのは、フランスの文学作品を翻訳ではなく原文で味わいたいと思ったからです。その頃は中原中也など日本の詩人も好きだったのですが、彼もフランスの作家から多大な影響を受けています。それでフランス文学を専門に選びましたが、最初から進学を考えていたわけではなく、ただもっと本を読んでいたくて、親からもらった就職活動用のスーツ代も本の購入にあててしまい(笑)、学部生活を人より2年多く過ごしました。そのうち、多くのすばらしい先生方との出会いなどを通して、もっと深く学びたいと思うようになり、大学院へ進学することに。
最終的にはフランスに留学してパリ第7大学に在籍し、テクスト・資料科学科の課程を修めました。渡仏当初は北部のアミアンという田舎町の大学に通っていたのですが、修士論文を書かなかったので、“遊学”という感じでした。アミアンの寮には、かつて植民地だったなごりでモロッコ系アラブ人の大学生が多く、それまで見慣れていた人たちとは違う彼らの雰囲気に最初は圧倒されてしまいました。しかし、慣れてくると普通に親しみをもって接することができて、異文化交流というものを実感しました。その後のパリの大学でも、男女が区別なく同じ寮で過ごして同じように学ぶなど、日本とは違う環境だと感じることが多かったですね。
帰国後は、東大の文学部助手として勤務しました。専門のフランス文学を教え始めたのは国際基督教大学(ICU)に着任してからです。ただ、入学時に専門を決める必要がないICUでは、最初から文学を学ぼうと決めている学生はほとんどいません。そんな中、せっかく興味を持ってくれた学生に「フランス文学はつまらない」と思われてしまうと学年が上がった時に専攻してもらえないので、いろいろと工夫を凝らし、私自身も楽しみながら講義を行いました。長年教鞭を執るうちに、フランス文学の研究の道へ進んでくれるような学生も出てきて、とても嬉しかったです。
関塾生の皆さんには、自分が好きなことをしてほしいと思います。苦手な教科の勉強などでも好きな部分を見つければいいのです。例えば、私は暗記が苦手で世界史の年代や用語がなかなか覚えられませんでしたが、本が好きだったので世界史も物語として捉えることで、突破口を見つけられました。
もうひとつ、人間関係も大事にしましょう。私には東大の同級生で舞台音楽も手がける作曲家の友人がいるのですが、彼は学生時代にゼミで私の翻訳を聞き、「いつか一緒に仕事をしたい」と感じたそうです。そして20年後、戯曲(演劇の台本)の翻訳の仕事を私に紹介してくれました。自分のことは自分が一番わかっているつもりでも、実は見えていない部分があり、それを誰かが評価してくれることがあります。皆さんも人との出会いを大切にして、ぜひ楽しい人生を歩んでください。
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