伊能忠敬(1745~1818)は、50歳を過ぎてから日本全国を測量して歩き、日本で初めて実測日本地図を作った人です。17年もの歳月をかけて精力的に地図作りを進めましたが、その完成を待たずに73歳で死去。後を引き継いだ弟子たちによって、1821年、ついに日本全土の実測地図「大日本沿海輿地全図」(伊能図とも言う)が完成しました。地図が完成して今年はちょうど200年。正確かつ精密な地図は、どのようにして作られたのでしょうか? 忠敬の偉業を探ると共に、「地理院地図」の活用法も紹介します。
伊能忠敬は1745年、上総の国(現在の千葉県九十九里町)に生まれました。17歳の時、佐原村(現在の千葉県香取市佐原)の名家・伊能家の婿養子となり、酒造業などを営んでいた家業に力を注ぎます。一方で学問に高い関心を持ち、文学や医学、数学、天文学、測量学、暦学などを学びました。49歳で家業を息子に譲った忠敬は、50歳で江戸へ出て天文学者・高橋至時(1764~1804)に弟子入りし、天文学や測量術を本格的に学び始めます。
1800年、55歳の忠敬は弟子たちと江戸を出発し、蝦夷地(現在の北海道)と東北地方を測量する第1次測量の旅を始めます。以後、全国測量の旅は計10回、足かけ17年に及び、歩いた総距離は約4万㎞、地球1周分に達しました。
忠敬は旅の様子を日記に綴っています。日記には毎日の天候や作業内容、訪れた名所旧跡、宿泊地などが記され、忠敬らの足跡を詳細にたどることができます。日中はわらじがすり切れるほど歩いて測量を行い、夜は天体観測をし、宿ではその日の記録を地図にまとめる……。こんな日々を重ね、根気強く地図作りを進めた苦労が垣間見えます。起床時間まで書き留めていることから几帳面さもうかがえる測量日記は、全部で51冊にも及びます。
伊能忠敬の年譜
その1・測量器具を考案
伊能図を見るとわかるように、地図は驚くほど正確で緻密です。200年も前の江戸時代になぜ、これほど精度の高い地図を作ることができたのでしょうか?
忠敬は、ある地点とある地点の距離を測る時、両地点の間を*一定の歩幅で歩き、その歩数から距離を換算する「歩測」をしました。しかしこの方法では、坂道やでこぼこした道などでは、どうしても狂いが生じてしまいます。
そこで採用されたのが「間縄」という縄をピンと張って測る方法。ところが、間縄は植物でできていて濡れると伸縮するため、この方法もやはり誤差が生じてしまうことに。誤差をできるだけ少なくしたい忠敬が考え出したのは、丈夫で天候に左右されない鉄製の器具「鉄鎖」でした。1尺(約30㎝)の鉄線が鎖状に60本つないであり、10間(18m)まで測ることができます。地図の精度を上げるため、忠敬はこの他にも様々な器具を考案し、測量に役立てました。
*忠敬の歩幅は69㎝でした。
その2・天体観測で位置を補正
忠敬は各地を歩いて距離を測ると共に、天体観測で位置の補正を行いました。「象限儀(中)」を使って北極星の高度を観測し、その土地の緯度を算出。「測食定分儀」を用いて日食や月食を観測し経度も測るなど、誤差をできるだけ少なくする努力を惜しみませんでした。
これほど正確な地図を作ったのも、地図を作るために天体観測を取り入れたのも、日本では忠敬が初めて。伊能図はその後、100年以上にわたって使われました。
全国をくまなく歩いて正確な地図を作った忠敬は、近代的な日本地図作成の先駆者と言えるでしょう。伊能図完成から200年後の現在、地図の世界は大きく広がっています。Web上の地図でも好きな場所や行きたい場所を見てみたり、知りたい情報を集めたりすることができますよ。
地理院地図とは、日本国内を測量して基本となる地図を作っている国土地理院が発信するWeb上の地図のこと。全国の地形図や色別標高図、空中写真などを見ることができ、いろいろな地図を重ね合わせて見ることも可能です。社会や地理の学習に役立つ便利な使い方を紹介しましょう!
自分が住んでいる地域が昔はどんな場所だったのか、知りたくありませんか? 地理院地図では指定した場所の昔の空中写真(1928年頃~現在)を見ることができ、例えば1945~1950年というように知りたい年代をピンポイントで調べることも可能。「並べて比較」という機能を使えば、同じ場所の昔と今の写真を2画面で表示し、2つを見比べることもできます。
全国の3D地図が見られるのも特徴です。画像を回転させたりズームアップしたりできるので、行きたい場所、見たいスポットを好きな角度からじっくり見てみましょう。さらに、土地の断面図や標高を知ることもできます。今、住んでいる場所やいつも眺めている風景も、詳しく調べると新しい発見があるかもしれませんよ!
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