大阪市立大学は、“近代大阪経済の父”五代友厚らが1880(明治13)年に開所した大阪商業講習所が源流。日本初の市立大学である大阪商科大学を経て、今年創立140周年を迎えました。理論と実際との有機的な連結を重視した教育を基盤とし、国内外で活躍する多くの人材を輩出しています。掲げるスローガンは「笑顔あふれる知と健康のグローカル拠点」。今回は、同大学の卒業生でもある荒川哲男先生にお話を伺いました。
【荒川 哲男(あらかわ・てつお)】
1950年生まれ。大阪府出身。医学博士(大阪市立大学)。
75年3月大阪市立大学医学部卒業。81年同大学大学院医学研究科内科学専攻内科学第3課程修了。87年10月同大学医学部講師、90年米国カリフォルニア大学アーバイン校内科学客員教授、93年大阪市立大学医学部助教授、2000年同大学大学院医学研究科教授。同大学医学部附属病院消化器内科・内視鏡センター部長兼任。04年同大学医学部附属病院副院長、12年同大学大学院医学研究科長・医学部長。16年公立大学法人大阪市立大学理事長、大阪市立大学学長。19年4月より公立大学法人大阪副理事長兼大阪市立大学長。同年5月より一般社団法人公立大学協会理事。専門は消化器内科学。
生まれ育ったのは大阪市城東区です。小さい頃は、缶けり、べったん(メンコ)、ベーゴマ、ビー玉などでよく遊んでいました。家族は両親と兄1人、姉2人です。末っ子だったので、父にはキャッチボールをしたり相撲をとったりとよく遊んでもらいました。キャッチボールをしたあとは牛乳屋さんに寄るのですが、私はコーヒー牛乳を飲みたいのに、父は「甘くて体に良くないからダメ! 体にいい牛乳を飲みなさい」と。だから今も牛乳は飲みません(笑)。
小学生の時は勉強があまり好きではなく、美術や体育が好きでした。4月生まれのため早生まれの同級生より体力的に有利でしたね。走るのが速く力も強かったので、スポーツは何でも学校で一番、運動会でもいつも一等賞でした。この頃、父からしょっちゅう聞かされた言葉があります。1つは「がまん、がんばり、がむしゃら」。語呂が良く今も耳にこびりついています。もう1つは、米沢藩(山形県)9代藩主・上杉鷹山の「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も」です。この2つを事あるごとに言われていたので、小学生ながら私の心には、「いざという時はがむしゃらにがんばらなければ」という気持ちが根付いたと思います。
小学校時代は成績が良く、中学受験では担任の先生から「(偏差値の高い)大阪教育大学附属天王寺中学校を受けなさい」と指導されました。入学できたものの、いろいろな学校から優秀な生徒が集まっていたので成績はビリに近かったです。小学校ではトップの成績だったのに……と大変ショックを受けました。でも、ここで一念発起してがんばろうとは思わず(笑)、勉強より野球がしたかったんです。野球部に入りたかったのですが廃部になっていたので、野球の次に好きだった柔道部に入り、3年間部活に打ち込みました。
中高一貫校でそのまま高校に進学し、高校時代の成績は中の下くらい。英語は得意で、他の教科は平均的にそこそこという程度でした。覚えるより考えることが楽しかったので理数系の教科が好きでしたね。夜型で夜の方が集中できたため、勉強はよく深夜にしていました。一夜漬けも得意で、試験が終わったら覚えたことはきれいさっぱり忘れている、そんな感じでした(笑)。
成績はずっと変わらずでしたが、ビビビッ!とくる同級生が現れたことがきっかけで真面目に勉強するようになりました。同級生とは今の妻のことですが(笑)、交際し始めたところ、神戸大学の医学部生だった彼女のお兄さんから、「どこの馬の骨かわからないような奴に妹は任せられない」と言われてしまいました。当時は、大自然の中で牛や馬の世話をしたいという漠然とした夢があり、医者になろうと考えたことは一度もありませんでした。それが180度方向転換(笑)、交際を反対する彼女のお兄さんに文句を言わせないためには医学部に行くしかない!と。
志望校は、経済的な理由で国公立の家から通える大学に絞らざるを得ず、選択肢は大阪大学か大阪市立大学しかありませんでした。大阪大学を受けるには学力不足、大阪市立大学も難しいだろうと言われたのですが、受験前の学内試験で3位になり受験を決意。しかし私は、集中力はあるものの長続きしないんです。当時は「5時間以上寝たら大学に落ちる」といったいい加減な情報が流れていました。8時間は寝ないとボーッとして頭が働かない私はダラダラ勉強しない!と決めて、短時間集中型で毎日必死に机に向かいました。
集中力を高める秘策もありました。彼女と交際中でしたが、受験勉強が忙しくなるとなかなか会えません。そこで、木彫りの虎の置き物をプレゼントしようと考えました。勉強中集中力が切れてくると、ノミを使い金づちで叩きながら一心に彫るんです。するといつしか無の境地になります。パイプに詰まったドロドロの汚れがスーッと落ちるように心が浄化されるんです。30分くらい彫るとスッキリしてまた勉強に集中できる――そんな風にしてがんばった結果、大学に合格。1年くらいかかって完成した虎の置き物は彼女にプレゼントしました。
大学に入学した1969(昭和44)年は大学紛争の真っ只中で大学は閉鎖、入学式は中止、授業もありませんでした。私は自転車で1人旅に出て、約1か月かけ各地を回りました。総走行距離は3000㎞くらいでしょうか。自分自身を見つめ直す貴重な体験ができました。道中のことも思い出深いですが、出発前のことが今も心に残っています。旅に発つ前日、高校の友達の家に一晩泊めてもらったのですが、出発当日の朝、家を出る時に彼のお母さんが、「親御さんが心配するからこれで毎日家に電話しなさい」とビニール袋いっぱいの十円玉をくれました。もちろん携帯電話などない時代です。親の立場で心配してくれたのだと、とてもありがたかったですね。
医学部卒業後は、患者さんがみるみる良くなる外科医になりたいと思っていました。ところが手術の実習で、マスクにアレルギーが出て、こりゃ長時間の手術は持たないと断念し、内視鏡ができる外科的な消化器内科を選びました。今では、早期がんなどの内視鏡手術も可能になり、大満足しています。
それ以外にも、多くの患者さんは、まず消化器内科に来られるので、様々な判断が必要になります。腹痛はもちろん、体重減少の人も受診されます。その中には、産婦人科や内分泌疾患などが隠れていたりします。他の科で原因がわからず消化器内科に来られた患者さんを的確に診断できた時は、とても達成感があります。これが消化器内科の魅力ですね。
関塾生の皆さんにはまず、目標を定めることの大切さを伝えたいですね。遠い未来の目標でなくても構いません。1年後、2年後……近い将来の目標を立ててください。根底に流れるもの、成し遂げたい大目標はしっかりと持ち、その上で掲げる小目標は状況に応じて変えてもいいでしょう。
私の場合は、ベースには病気で苦しむ人を助けたいという思いがあり、それを達成するために「大学を卒業したら民間の病院に勤めよう」という目標を立てました。結果的にこれは叶えられませんでしたが、開業医にならず大学院に進んだことで好きな研究に打ち込めて仲間が増え、研究成果を評価してもらえたことに確かな手応えと喜びを感じました。それで開業医になるのをやめましたが、やりたいことがベースにしっかりとあれば、短期の目標はその都度変わってもいいと思います。まずは直近の目標を立て、その実現に向けてがんばることが大事ですよと言いたいですね。
もう1つ伝えたいことは、社会に出たら正解は1つではないということです。私の専門である消化器内科の診療の話で例えると、高熱を出し激しい腹痛を訴える患者さんが運ばれてきたとしましょう。時刻は夜の7時、医者の数が減っている状況です。ここで緊急手術に踏み切るか、抗生物質を投与して翌日医者が多く集まるまで様子を見るか――どちらを選択しても正解はありません。正解がはっきりあるというのは、社会の中ではほとんどないと言っていいでしょう。こういう時に頼りになるのは自分の経験と直観力。決断を迫られる場面に直面した時、より良い判断が下せるように様々な経験を積んでほしいと思います。
今、皆さんに求められるのは、コミュニケーション力と新しい情報を集める収集力です。コミュニケーション力を磨くには、ユーモアととんちを大いに活用してほしいですね。この2つを持っているとそこに人が集まり、人の輪ができます。その中で多彩な人々と関わることでコミュニケーション力が養われ、新しい情報を収集できるという好循環が生まれます。激動の現代社会を生き抜くには、コミュニケーション力の他に、主体性や粘り強さ、洞察力なども必要になるでしょう。これらを磨くために、若い時に興味のあることに果敢に挑み、内面的に大きく成長してほしいと思います。私が自転車の1人旅で得た経験や人との出会いは、今も人生観の根源になっています。まずは自分がやりたいことを定め、それに向かってチャレンジしてください。
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