地域とつながり、地域に貢献し、世界に羽ばたく医療人を育成する国立大学法人滋賀医科大学は県内唯一の医学系大学。「サステナブル(持続可能)でアトラクティブ(魅力的)な大学」を目指し、教育と研究の両軸で特色ある医学、看護学、先進医療を実践しています。上本伸二先生が医師の道を志したのは高校1年の時。何事もうまくなるためには「好きになる」ことが大切だとエールを込めて語ってくださいました。
【上本 伸二(うえもと・しんじ)】
1956年生まれ。愛媛県出身。医学博士(京都大学)。
81年3月京都大学医学部卒業、90年同大学大学院医学研究科(外科学専攻)修了。93年同大学医学部第2外科助手、同年ロンドン王立大学ハマースミス病院へ留学。97年文部科学省在外研究員としてベルギー出張を経て、同年京都大学医学部附属病院臓器移植医療部助教授。2001年三重大学医学部第1外科教授、同大学医学部附属病院副病院長を経て、06年京都大学大学院医学研究科教授。その後、京都大学医学部附属病院副病院長、同大学大学院医学研究科長・医学部長などを歴任し、20年4月より現職。専門は外科学(消化器外科、小児外科、臓器移植)。
豊かな自然に囲まれた愛媛県喜多郡で生まれ育ちました。子どもの頃の遊び場といえば山や川が中心で、年下も年上も関係なく、みんな一緒に山では冒険ごっこ、川では魚獲りなどをして遊びました。体を動かすことが大好きでしたね。
小学校は田舎の学校だったので、6年間ずっと1学年1クラス。地域の人口は5千人ほどだったでしょうか。小さな町でしたが、当時は日本が高度成長期に入っていく時代で、非常に明るい雰囲気がありました。父が営んでいた林業も、この頃は景気が良かったと後になって聞きました。母は自宅で日用品を扱う雑貨店をしていて、よく配達のお手伝いをしましたよ。
小学校の勉強は、算数、理科、体育、図工が好きでした。中でも算数が好きで、つるかめ算で答えを出したり、図形を展開して問題を解いたりするのがおもしろかったですね。高学年になると「ちゃんと勉強するんだよ」と、兄と私はそれぞれ個室がもらえました。これをきっかけに毎日コツコツと真面目に……とはいかないまでも、テスト前には自分の部屋で自主的に勉強していました。
中学校では陸上部に入り、中長距離走の選手として部活に打ち込みました。授業は小学校の時と同じく数学と理科が好きで、初めて習う英語も楽しく学べました。一方で、国語の勉強にはあまり力が入りませんでした。理由は、読書をする習慣がなかったからだと思います。自ら進んで本を読み始めたのは大学に入ってからで、中学から高校まで、国語の成績はなかなか上がりませんでしたね。
受験は、今のようにがむしゃらに頑張るという雰囲気ではなく、のんびりしていて、地元に塾もなかったので、学校の授業をしっかり聞き、問題集を買って勉強しました。中学校の成績は上位の方でしたから、高校入試は問題なくクリアできました。
進学した愛媛県立松山東高校は都会の松山市にあり、自宅からは通えなかったため下宿することに。まだ15歳ですから最初は寂しくてホームシックになりましたが、それも初めだけ(笑)。同じ高校に通う10人の下宿生たちとの共同生活にすぐに馴染み、下宿生活を楽しんでいました。
医学部を目指そうと思ったのは、高校に入ってすぐでした。町にひとつしかない小さな診療所にお医者さんは1人だけという田舎で育ったことが影響しています。子どもの頃は僻地医療という言葉など知りませんから、医者になる=そういう環境で働くものだと思っていました。大学を出て医者になれたら、地元に戻ってみんなの役に立ちたいという気持ちがあったのです。
この志のもと、高校では部活に入らず、学業優先で3年間を過ごそうと考えていました。そんな私が影響を受けたのは、同じ下宿先の先輩たちです。高校3年の先輩が、毎晩机に向かって難しい問題を解いている姿を見ると、「私もあれくらい頑張らないと」と気持ちが引き締まりました。
京都大学を受けると決めたのは、願書の締め切りがせまったギリギリの時期。進学校の松山東高校で上位の成績をとっていたので、担任の先生からは地元の愛媛大学医学部は安全圏と言われていて、四国から近い岡山大学も候補に入れていました。そんな時、先生に「お前なら京都大学に行けるかも。ただし、運良く数学が解けたらの話だ」と言われ受験を決意。ですが、今も昔も京大入試の数学はとても難しく、私は数学の問題を見た途端、すぐに諦めかけました。それでも粘りに粘り、頭の中にある知識をフル回転させたら、残り30分を切ったところでパッと解法がひらめきました。この時のことは今も鮮明に覚えています。
高校で好きな運動を我慢した反動もあって、京都大学入学後は医学部のテニスクラブに入り、熱中しました。毎日テニス7割、勉強3割という熱の入れ様でしたね(笑)。落第はできませんから、試験前には「やる時はやる!」という集中型で臨みました。学部時代に感じたのは、困難な時に一緒に励まし合い、高め合える友達がいる有難さです。試験前になるとテニス仲間で集まって勉強し、医師の国家試験を受ける時もみんなで支え合いました。
医学部は最終学年の6年次にいろいろな診療科の臨床実習を体験します。外科医になろうと決めたのは、自分の“手”で手術をして患者さんを治療したいと思ったからです。学部卒業後は、初期研修制度がなかった時代なので、そのまま京大の外科医局に入局。1年ほど勤めたのち、大学関連病院の一般外科で手術の修練を積みました。4年後に大学院生として京大第2外科の研究室へ入り、2年の研究生活を経て小児外科の臨床へ。学部を卒業する時から小児外科に興味があり、当時は死に至る確率が高かった病気のひとつである胆道閉鎖症を治したいと思っていました。この病気の治療には、当時日本ではまだ行われていなかった生体肝移植が必要で、アメリカやドイツで手術を受けさせるため、患児を連れて度々渡航しました。日本で初めて生体肝移植が行われたのは1989年。その翌年、日本で2例目となる生体肝移植手術が京大で行われ、私は助手として参加することができました。
一般外科に始まり、小児外科を経て、再び成人の外科に戻って肝膵胆領域の手術と治療に従事しました。これが、私の医師としてのキャリアです。その時その時で力を尽くしてきましたが、順風満帆だったわけではありません。生体肝移植の手術後にB型肝炎を発症する患者さんがいて、いくら調べても原因がわからず、途方に暮れたこともあります。その後、徹底的に調査して原因がわかった時は、医療に貢献できた喜びと充実感でいっぱいでした。
また、2001年から5年間、三重大学に赴任したことで、地方における医師不足の問題を目の当たりにしました。私が医師を志したきっかけでもあるこの問題を解決したいという思いがあります。また、学長として私がすべきことは、“地域に支えられ、地域に貢献し、世界に羽ばたく大学”という本学の理念のもと、優れた医療人を育て、特色ある医学・看護学の研究を行い、質の高い先進的な医療を実践することです。そして大学卒業後は、地域に根づいて着実にキャリアアップができるよう、様々な環境づくりにも取り組んでいます。
これから夢を持って未来へ羽ばたいていく皆さんには、“好きこそものの上手なれ”という言葉を伝えたいですね。何事も「好きになる」ことから始まります。私の場合は、小学校時代は算数、中学・高校では数学が好きで、それを勉強し続けたことで様々な困難を乗り越えられました。関塾生の皆さんも、自分が好きなことを見つけ、それをもっと好きになれるように勉強し続ければ、きっと確かな手応えをつかめるはずですよ。
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