2022年は日中国交正常化50周年に当たる年です。現在、日本にとって最大の貿易相手国である中国は、古くからつながりの深い隣国です。両国間には紀元前からの交流があり、古代の日本が中国から取り入れた様々な文化は、今も身近に残っています。しかし、二千年以上も続く歴史の中には、国としての正式な交流が途絶えていた期間が長くありました。そして、隣国であるが故の複雑な問題も抱えており、解決へ向けて互いに良好な関係を築くことが求められています。
そこで今回は、日中の歴史を振り返ってまとめ、中国から伝わった文化なども紹介します。日本と中国がこれまでどのように関わってきたのかをきちんと知って、これからについて考えていきましょう。
中国は王朝が次々と変わった国です。日本の時代と照らし合わせながら、歴史の流れを振り返りましょう。
中国は、世界の中でも最も古くから文明が栄えた地域のひとつで、紀元前1600年頃には殷という王朝が生まれています。殷の時代から文字を持っていた中国は、周辺の国についての記録も残しました。日本についての最も古い記録は、紀元前1世紀頃、漢(前漢)の時代に出てきます。中国から文字が伝わり、日本でも記録を残すようになったのは6世紀頃ですので、日本という国の始まりを考える時から、中国はすでに欠かせない存在なのです。
自国が文明の中心であり、他国は従うべきだと考えた中国は、どの王朝の皇帝も、周辺の国に貢ぎ物を持って挨拶に来ることを求めました。これを朝貢と言い、朝貢すると臣下として認められ、国を支配する王の称号と権利が与えられました。以降、東アジアにこの体制が広がっていきます。
日本も朝貢を行いますが、6世紀以前は数回程度、数百年おきの記録が残っているだけです。飛鳥時代に聖徳太子が隋に遣隋使を派遣してから増え、仏教や律令(法律)、組織制度などを学び、国の形を整えました。その後、朝鮮半島の支配権をめぐる白村江の戦いで唐に負けた日本は、もっと学ばなければならないと考えます。そこで遣唐使を増やし、平安時代中期に菅原道真によって中止されるまで、様々なことを学び、日本に合わせて取り入れました。
遣唐使が中止されたのは、唐が衰え始めており、日本も匹敵するまで成長したのだから、もう学ぶことはなく、朝貢を続ける必要もないと考えたからだと言われています。以降、日本は朝貢を行わなくなり、正式な国交は長く途絶えます。
平安時代末期に平清盛が行った日宋貿易などの私的な貿易はありましたが、朝貢を求められても断っていました。鎌倉時代、朝貢を拒み続ける日本に対して、実力行使に出たのが元寇です。台風による暴風雨で元は撤退し、この頃から倭寇と呼ばれた海賊集団の活動が盛んになります。そこで、次の明は、倭寇を取り締まるため、朝貢以外の貿易を一切禁止しました。天皇ではなく、室町幕府の将軍・足利義満がこれに応じて朝貢し、日明貿易(勘合貿易)が始まりましたが、幕府の衰退や戦国時代の混乱で途絶え、再び私的な貿易が主流になります。
安土・桃山時代、天下を統一した豊臣秀吉は、明を支配しようと考え、明と朝貢関係にあった朝鮮に協力を求めますが、拒まれたため、朝鮮に出兵します。なかなか決着がつかず、秀吉が死ぬまで戦いが続き、朝鮮にも明にも大きな被害を与え、関係が悪化します。江戸時代になり、徳川家康は、明との関係を修復しようとしましたが、うまくいかず、次の清の時代も私的な貿易が続きます。徳川幕府は日本人が外国と自由に交流するのを禁じましたが、長崎の出島でオランダと清との貿易のみ許可しており、清との貿易量はオランダを大きく上回っていました。
西洋諸国が東アジアに次々と訪れると、日本と中国の関係は大きく変わります。明治時代、日本は積極的に西洋文明を取り入れ、先駆けて近代化を進めましたが、大国であり続け、朝貢関係を外交の基本とした中国は、歴史的に他国から学ぶものはないと考えていました。また、島国で外敵の脅威が少ない日本とは違い、敵対勢力に対抗できる軍事力を備えており、清の時代も日本との国力の差は明らかでしたが、イギリスとのアヘン戦争では清が負けます。
日本と清は日清修好条規を結び、数百年ぶりに国交が復活しますが、朝鮮半島や琉球(沖縄県)の支配権をめぐって日清戦争が起こります。日本に負けたことに衝撃を受けた清は、多くの留学生を送り、日本を通して西洋文明を学んで近代化を進め、中華民国を建国しました。その後、日露戦争にも勝って自信をつけていた日本が満州を占領し、日中戦争が起こります。以降、両国間では、第二次世界大戦で日本が負けるまで、戦争が続きます。
戦後、中華人民共和国が成立しますが、台湾は中華民国を名乗り続け、日清戦争後台湾を統治していた日本は、中華民国とのみ国交を結んでいました。台湾を自国の一部とみなす中華人民共和国とは、長い間相容れず、1972年9月の日中共同声明によって、ようやく国交が再開されたのです。
中国から日本に伝わり、日本の文化として根づいたものは身近にたくさんあります。中でも代表的なものを紹介します。
様々な食文化が中国から伝わっており、最も代表的なものは米と茶です。米づくりが日本に伝わったのは縄文時代後期で、日本米の起源は中国の福建米だと言われています。茶を飲む習慣は、奈良時代に唐から伝わったとされます。日本茶は緑茶、中国茶は青茶(ウーロン茶)という印象がありますが、中国では緑茶が主流で、日本の緑茶も中国に起源があります。また、箸を使う文化も中国から伝わり、飛鳥時代に取り入れられました。
漢字が日本に伝わったのは1世紀頃で、使える日本人が増えたのは6世紀頃です。中国語を書くために生まれた文字であり、そのままだと日本語では使いにくいため、読み方(訓読み)を増やしたり、ひらがなやカタカナをつくったりして、日本だけの使い方が生まれ、今に至っています。文字を書くための道具である、筆・紙・墨・硯などもすべて中国から伝わったものです。
儒教は4~5世紀頃、仏教は6世紀頃に日本に伝わり、これらの考え方を取り入れることで、国の制度が整っていきました。儒教は儒学とも言い、目上の人を敬うなどの道徳や礼儀に重きを置く考え方で、日本では主に学問として発展しました。仏教は、現世で良い行いをすることで死後に清らかな世界へいけるという考え方で、今でも日本のお葬式の多くは仏教式です。
時間の流れを年・月・日などの単位で区切って暦(カレンダー)をつくる方法は、6~7世紀頃に中国から伝わりました。そのため、お正月、節分、ひな祭り、こどもの日、七夕、お盆、お月見などの古くからある季節に関する行事の多くは、中国から伝わったものです。平安時代には貴族を中心に行われていましたが、日本独自の風習も取り入れながら変化していき、庶民にも広がって現代まで続いています。
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