未来を豊かにする「ライフ・イノベーション」のフロントランナーを目指す国立大学法人新潟大学は10の学部を擁する総合大学。地方中核・政令指定都市の新潟市にメインキャンパスを構え、日本海対岸のアジアを基点に世界に開かれた〝知のゲートウエイ〟の役割を担っています。顕微解剖学がご専門の牛木辰男先生は同大学医学部のご出身。幼い頃から描き続けている絵は、もはや趣味というより習慣になっているそうです。
【牛木 辰男(うしき・たつお)】
1957年生まれ。新潟県糸魚川市出身。医学博士(新潟大学)。
82年3月新潟大学医学部医学科卒業、86年同大学大学院医学研究科博士課程修了。86年岩手医科大学医学部助手(第ニ解剖学講座)、88年同大学医学部講師。90年北海道大学医学部助教授(第三解剖学講座)。95年新潟大学医学部教授(第三解剖学講座)、2001年同大学大学院医歯学総合研究科に配置換・同医学部教授に併任、04年同大学医歯学系教授(顕微解剖学)に配置換、12年同大学医学部副学部長、14年同大学医歯学系長・医学部長・大学院医歯学総合研究科副研究科長、18年同大学理事(国際担当)・副学長を歴任し、20年2月より現職。専門は顕微解剖学。
西日本と東日本の境界地として知られる新潟県糸魚川市で生まれました。糸魚川―静岡構造線と呼ばれる活断層は有名ですが、大体そこが西と東の方言の境でもあるんです。また、「糸魚川けんか祭り」では最後に京風の稚児の舞を踊ります。文化の融合がみられる興味深い土地です。
幼い頃の私はいわゆる“おばあちゃん子”。両親が共働きだったので祖母が私と兄の面倒を見てくれました。小学校に上がるまでは家でひとりで遊ぶのが好きで、祖母が押し入れにたくさんの画用紙を置いてくれていたので、自由に取り出してはクレヨンで絵を描いていました。絵は今もまだ描いています。まあ習慣ですね。
父と母は共に小学校の教員でした。勉強しなさいと言われることはなかったように思います。ただ、父が私の通う小学校の教頭をしていてとても過ごしづらかった(笑)。書道や絵の表彰の時、校長先生が不在だと父が代理で賞状を手渡すのですが、父から受け取ると友達に笑われたり冷やかされたり、気恥ずかしかったのを覚えています。
小学校の頃は特に得意・不得意な教科はありませんでした。好きだったのは図工で、4年生になって図工専科の先生が教えてくれて、それが新鮮で楽しく授業を受けていました。中学生になってからも取り立てて得意な教科はなかったのですが、本をよく読んでいたので国語は好きでした。
高校受験に関しては、田舎でもあり、今でいう受験勉強という言葉はなかったかもしれません。地元の公立高校に進むのが当たり前で、受験に対する意識はそれほど高くはなかったですね。ただ、私が受験するタイミングで県内の校区が変わり、選択肢が広がったので、どの高校に進むか少し迷いました。担任の先生が地元の糸魚川高校以外も受験できると教えてくれて、糸魚川市の隣の上越市にある新潟県立高田高校はどうかと聞かれました。
高田高校は家から遠いため、通うには下宿しなければなりません。一方、糸魚川高校はかつては私の家のすぐ裏にあったのですが、ちょうど校舎が移転してバスで時間をかけて通う必要がありました。それなら思い切って家を出るのも悪くないと思い、最終的に高田高校を選びました。
高校入学を機に親元を離れ、意識が変わったと思います。もともと人見知りでしたが、新しい環境で自分を知ってもらうには、アピールしたり自ら発言したりする必要があると知りました。糸魚川市と上越市は今でこそ北陸新幹線ですぐですが、当時は在来線を乗り継いで1時間以上かかり、文化も言葉使いも異なり、入学当初はカルチャーショックを受けました。糸魚川から入学した生徒は5人足ら ずで、他の生徒たちとうまくコミュニケーションをとるには、なおさら自分から積極的に話しかけなければならないと感じました。
高校生活は、親に下宿させてもらっている以上、頑張って大学に入らなければならないという意識があり、勉強優先で部活には入りませんでした。それでも級友のラグビー部の部員からスコアの記帳を頼まれて試合に同行したり、美術部に誘われてスケッチ旅行に行ったりと、忙しくも楽しい日々でした。高校でも変わらず絵を描くことが好きだったので、放課後にはいつも美術部員のように部室に出入りしていましたね。
そんな私でしたから、進学先を医学部に決めた時はとても驚かれました。生き物が好きで、最初は理学部で生物学を勉強しようと考えたのですが、実家に帰ってその話をすると、「じゃあ、将来は高校の先生になるんだな」と父に言われ気が変わりました。反抗期だった私は両親と同じ職に就くのが嫌で、同じ生き物でも人間について勉強する医学部に行こうと決めました。
新潟大学の医学部では個性的な先生との出会いがあり、特に解剖学の藤田恒夫教授から影響を受けました。藤田先生は*1ベルツ賞などを受賞した偉い先生ですが、専門の研究一辺倒ではない生き方をされていて非常に魅力的でした。“石の上にも三年”ということわざがあるように、日本にはひとつのことにとことん取り組むのを良しとする傾向があります。しかし藤田先生は、幅広い分野で第一線の研究をされ、学問以外でも絵に注ぐ情熱が尋常ではない。自分のアトリエを構えて大きなサイズの油絵をたくさん描かれていました。
そんな藤田先生の生き方は、東京大学時代の恩師である*2小川鼎三先生の影響もあるかもしれません。小川先生は脳解剖学の第一人者でしたが、突然クジラの脳を研究するために捕鯨船に乗ると言うので、藤田先生が「なぜそんなことをするのですか」と尋ねると、小川先生は「クジラの山に登ることで人の山が見えることもあるんだよ」とおっしゃったそうです。
また、藤田先生は留学先のドイツでの恩師バルグマン教授から、「いろいろ興味を持ってさまようのはいいことだ。その経験を経て元のところに戻ってきた時には、ひとつ上の段階に行ける」とアドバイスをもらい、勇気づけられたそうです。そうした話を聞き、藤田先生の生き方を目の当たりにして、私も自分が興味のあることはためらわないでやろうと思うようになりました。
*1日独の親善と医学の交流を深めるためにドイツの製薬会社が1964年に設立した医学賞。正式名称はエルウィン・フォン・ベルツ賞。
*2日本の脳解剖学と医学史の発展に貢献した脳比較解剖学者。鯨類比較解剖学の権威でもあったため「クジラ博士」とも呼ばれた。
学部卒業後は大学院に進学し、藤田先生のもとで顕微解剖学を専攻しました。博士課程修了後は岩手医科大学医学部で助手に就き、解剖学の別のスタイルに出会いました。新潟大学の大学院での研究は体の微細な構造を顕微鏡で観察する、いわば“見えた”ことを風景に描く解剖学だったのですが、岩手医科大学では神経をあえて切断して再生に向かわせるという実験解剖学が中心で、勉強になりました。その後、北海道大学を経て再び新潟大学に戻りました。
新潟大学は2030年に向けて「未来のライフ・イノベーション」の拠点になることを目指しています。ここでいうライフ・イノベーションとは、医学や生命科学だけの狭い領域を指すものではありません。「ライフ(LIFE)」には、人生や生き方、生命という人文学的な意味合いもあります。健康・福祉・医療分野に留まらず、豊かなライフスタイルにつながる社会のあり方を環境や地球にまで視野を広げて考え、人間がより良く生きていくための包括的な革新こそが、これからの時代には必要だと感じています。
関塾で頑張っている皆さんは未来を担っていくわけですが、今向き合っている勉強についてアドバイスをするなら、「勉強しなければ」という気持ちで取り組むのはもったいないと思います。勉強自体を目的とせず、まずは「知りたい」という好奇心を持つことが大事で、それがあってこそ勉強のおもしろさが見えてきます。そのことを忘れずに楽しく学び続けてください。
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