国立大学法人神戸大学は10学部・15研究科を擁する国内有数の大規模総合大学です。持続可能な新しい社会に寄与する国際性や多様性に加え、卓越性と柔軟性にも富む人材を育てる教育を実践し、研究においては独自性を重視して真理を探究する基礎科学と、地域社会との共創を目指す応用科学の両軸で国内外に貢献しています。藤澤正人先生は同大学医学部の卒業生。学長に就いてもなお野心と奉仕の精神をもって邁進し続けています。
【藤澤 正人(ふじさわ・まさと)】
1960年生まれ。兵庫県出身。医学博士(神戸大学)。
84年3月神戸大学医学部卒業後、同大学医学部泌尿器科学講座で研究に従事。神戸大学医学部附属病院医員(研修医)、89年神戸大学大学院医学研究科博士課程修了後、総合病院神鋼病院泌尿器科医師。90年アメリカ合衆国人口問題研究所研究員。92年神戸大学医学部附属病院助手。2002年川崎医科大学教授。05年神戸大学大学院医学系研究科腎泌尿科学分野教授。14年神戸大学医学部附属病院長。18年神戸大学学長補佐。19年神戸大学大学院医学研究科長・医学部長。21年神戸大学長就任、現在に至る。専門は泌尿器科腫瘍、生殖内分泌、腎移植。
兵庫県の中央部にある神崎郡市川町は、県内で人口が2番目に少ない町です。そんな田舎で生まれ育った私の子どもの頃の遊び場は、決まって山か川でした。「こういう遊びをしよう!」と思いついたら周りから木や竹を切ってきて、竹馬やソリといった遊び道具を一から作りました。どうすればうまく仕上げられるかを考えながら手を動かすことが好きでした。
小学校時代は、クラスメイトにちょっかいを出したり、いたずらをしたりしてばかり。学校ではしょっちゅう先生に叱られて廊下に立たされていました(笑)。母親が呼び出されたことも何度かあったんですよ。
父は旧制の兵庫県師範学校出身で教師をしていました。だからといって私や姉、兄に対して勉強を強いることもなく、家では優しく、両親ともに愛情たっぷりに育ててくれました。娯楽が少ない時代でしたから、毎日が早寝早起き。小学生の時は夜の8時、中学生になっても夜の10時には布団に入っていました。いたずら好きで、健康優良児。そんな子どもでした。
勉強に精を出し始めたのは中学2年の後半だったでしょうか。それまでは部活のバスケットボールに夢中になり、高校受験もまだまだ先という思いがあったので、宿題以外はたいした勉強をしていませんでした。
では、なぜ自ら机に向かうようになったのか。それはやはり「勉強したら、その分だけできるようになる」と感じたからです。それに気づくと自ら目標を立てて頑張れるようになり、努力の成果は定期考査で良い点数となってあらわれました。家の近くに塾なんてありませんから、自学自習あるのみです。3年になってもそのスタイルで自ら参考書を開き、家でひたすら問題を解きました。
高校は公立の進学校、兵庫県立姫路西高校に進学しました。地元のローカル線のディーゼル機関車に朝早く乗車し、最寄り駅に着くと20分ほど歩かなければならず、通学するのに片道1時間半を要しました。住んでいた町から通うにはこの経路しかなく、3年間、決まった仲間と同じ時刻の同じ車両に乗り、同じ道をワイワイ言いながら歩いて通学する毎日は楽しく、自然と一体感が生まれました。
好きだった教科は数学、英語、化学でした。理由は単純明快で、勉強したらすぐにテストの結果に直結するからです。逆に、国語は勉強してもなかなか点数アップにはつながらず、結局最後まで好きになれませんでした。
自学自習のスタイルは高校に入ってからも継続しました。塾に行く選択肢も決してゼロではなかったけれど、いざ通うとなると姫路の中心街まで出る必要があり、往復に費やす3時間を考えると家で勉強するほうが賢明に思えたのです。大学を意識して受験勉強に力を入れ出したのは高校2年の半ば頃。特に3年の夏休みはとことん勉強すると決め、朝は9時~12時、昼は1時半~5時、夜は7時~12時の3つの区切りを毎日のルーティンにして机に向かいました。時々ラジオの受験講座を聞くくらいで受験のテクニックなどを知らなかったので、今から思うと効率の悪い勉強方法だったかもしれませんが、自分を信じてやり抜きました。
高校時代は、3年の頃には医学部を目指せる成績をキープしていました。当時の市川町には小さな医院が2つあるだけで、私もお世話になっていたので、将来地元に戻るかどうかはわからないけれど自分も医者になって社会に貢献したい気持ちがあったのです。
受験勉強と大学の勉強の違いを簡単に言えば、「答えがあるか、ないか」です。入試問題には必ず答えがあり、受験生はそこにたどり着くために知識をインプットし、演習問題の数をこなせばこなすほどテクニックを磨くことができます。一方、大学の勉強は“答え”がありません。疑問に思ったことや目の前にある課題に対し、「どうすれば解決できるのか?」を自分自身で考え、その答えを自ら導き出すのです。答えは必ずしもひとつではありません。私が入った医学部であれば、修得した専門知識やデータをもとに仮説を立て、どの機器や薬を用い、どの動物で実験して実証していくかをすべて一から考える必要があります。大変ではあるけれど、それが大学で学問や研究に携わるおもしろさです。
学部の学びを終えると研修医として外科系の講座に身を置き、泌尿器科の医師になることを決めました。まだまだ伸びしろのある領域で、医療を進展させられる可能性が大いにあると感じられ、新たな研究を通じて患者さんに貢献できる自分なりの“答え”を見つけたいと思いました。大学院では精子形成障害の解明を手がけ、名古屋大学の吉田松年教授のもとに飛び込み、研究に取り組みました。さらに、ニューヨークの研究所に留学し、泌尿器に関する知識と技術を貪欲に吸収しました。一方で、コンサートに行ったり、旅行をしたり、スポーツを楽しんだり、大いに遊びました。やはり若いうちに多くの人と交流して、勉強だけではなく、多様な文化や生活習慣に触れておくのが良いと思います。
留学後は神戸大学に戻って研究を続けました。神戸大学がアメリカ製の手術支援ロボット『da Vinci』を導入したのは2010年。当時、前立腺がんの手術は、おなかを大きく切って行っていましたが、ロボット導入後は小さな穴から内視鏡で手術を行い、体への負担や出血も少なく、術後の回復も早くなりました。これからの時代はロボット手術が主流になる――。そう感じた私は、さらに高い精度を備えた国産ロボットの研究に産学連携で着手し、*『hinotori』を共同で開発しました。2020年の12月に1例目の手術が行われた時は、まさに感無量。製品化に至る道のりは困難の連続でしたが、それでも前進できたのは最後までやり遂げるというあきらめない心、医療に貢献したいという研究者の熱意があったからに他なりません。
関塾生の皆さんも、何事もあきらめずに最後までやり抜いてください。そして、将来的には大学で学ぶ意義を考えて、自分が興味を持った学部にぜひ進んでほしいと思います。大学生に将来の夢を尋ねると「就職すること」と答える人も少なからずいて、正直残念な気持ちがします。学部で学び足りなければ大学院の修士課程に進んで専門をさらに究めることができますし、本気で研究者を目指し、博士課程に挑んでほしいと思います。神戸大学は10学部・15研究科を擁する総合大学で、入学後は所属する学部以外の授業も履修することができます。他分野の知識をたくさん得ることで、自らが飛躍できる可能性はさらに高まり、それが社会貢献につながります。
*神戸大学と地元企業が研究 ・開発を手がけた初の国産手術支援ロボット。その名は兵庫県宝塚市ゆかりの漫画家・手塚治虫の名著『火の鳥』に因む。
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