北里大学は、世界的な細菌学者であり、日本の近代医学と衛生行政に貢献した北里柴三郎博士を学祖に仰ぎ、1962年に創設されました。「生命科学の総合大学」として60年を超える歴史があり、8学部と7大学院、併設校、附属施設を合わせた「知」のネットワークで未来につながる教育と研究を実践しています。島袋香子先生は大学3年の時に看護職を志し、助産師になった後、優秀な人材を自ら育成しようと教育者の道に進まれたそうです。
【島袋 香子(しまぶくろ・きょうこ)】
1956年生まれ。沖縄県出身。看護学博士(北里大学)。
79年3月琉球大学保健学部卒業。80年北里大学病院産科病棟助産師。85年北里看護専門学校専任教員、88年北里大学看護学部助手、91年北里大学病院産科病棟助産師、93年北里大学大学院看護学研究科修士課程修了。94年北里大学看護学部講師、2000年北里大学大学院看護学研究科博士後期課程修了後、同年北里大学看護学部准教授、08年北里大学看護学部教授。12年北里大学看護キャリア開発・研究センター長、14年北里大学看護学部長・看護研究科長、20年北里大学学長就任、現在に至る。専門は生涯発達看護学。
私が生まれ育った沖縄県は、第二次世界大戦時に日本で唯一地上戦があったところで、沖縄の子どもたちは多かれ少なかれ親世代の戦争体験を聞かされて育ちました。「慰霊の日」である6月23日は、家族で祖父母が亡くなった場所を訪れて手を合わせていたことを今も覚えています。
両親は共に教員で、父は小学校、母は中学校で教えていました。やりたいことを自由にやらせてくれましたが、甘やかされることはなかったです。私にも、弟や妹に対しても、早く自立してほしいと願っていたのでしょう。例えば歯医者などにかかる時、初診は親が一緒に来てくれましたが、次からは子ども一人で通っていました。
教育面に関しては、今振り返るといろいろと配慮してくれていたと感じます。少し遠い幼稚園に通っていたのは近所で私だけでしたし、小学3年の時に転校したのも教育環境を考えてのことだったと思います。転校先や、6年から通い始めた英語の塾で、同じ幼稚園に路線バスで通っていた友達と再会したので、教育熱心な家庭での情報交換があったのかも。中学入学後は塾で数学も教えてもらい、みんなで仲良く勉強しました。
中学校はいわゆるマンモス校で、私の学年は16クラスもあって、1学年の生徒数は700人近くいたはずです。その中で、クラス順位であれば1桁台、学年では2桁台の成績だったので決して悪くはありませんでしたが、上には上がいて、みんなすごいなと感じていました。得意だった教科は国語と社会です。国語の記述力に関しては、小学3年の時、担任の先生が作文に力を入れていたおかげで伸びたのかな、と。親が誕生日にはいつも本をプレゼントしてくれていたので、読解力もつきました。
部活動は合唱部に入って、月水金の放課後は部活、火木土は塾に通うというのが3年間のスタイルでした。勉強面では、高校受験に特化して対策するようなことはなく、授業を受け、出された問題にしっかり取り組んで知識を定着させていました。通っていた塾は、自分で考えることに重きを置く指導で、友達と集まって教え合いながら勉強していました。先生からは「一人でも勉強できるようになりなさい」と言われましたが、人に教えるとアウトプットできるので、そんなに悪くない方法だったように思います。
進路については父がよく相談に乗ってくれて、父の母校でもある沖縄県立那覇高等学校に入学し、また合唱部に入りました。NHK合唱コンクールなどの全国大会で好成績を収めるような中学だったので、入学するとすぐに先輩が「もちろん入部するよね」と声をかけてくれたのです。大学でも同じように勧誘されて、ずっと合唱部に所属していました。もちろん歌うことは好きでしたが、そうしたつながりがあったから長く続けられたのだと思っています。
高校の先生方は親しみやすく個性的な方々でしたが、毎時間わかりやすい丁寧な授業を展開してくれました。3年でクラブを引退すると、一応大学受験のための塾に通いましたが、短い期間だったので、私が身につけた学力の大半は学校の勉強がベースになっていると思います。
大学受験は、家から通える国立大学の琉球大学を志望しました。父が新しく保健学部ができると教えてくれたことも琉球大学に惹かれた一因です。家では「将来のために手に職を」と言われていて、保健学部なら臨床検査技師の資格を取れることも魅力的でした。臨床検査技師がどんな仕事をするのかよく知らなかったのですが(笑)。
大学の学びは「保健学とは何か?」から始まりました。現在は予防医学の分野に属する学問領域であると認知されていますが、当時は私を含め保健学部に入学した学生の多くがわかっていませんでした。最初の2年は一般教養を履修し、3年から臨床検査コースと看護コースに分かれて専門性を高めるのですが、臨床検査技師を目指して入学したものの、ここであきらめることに……。2年次の顕微鏡を使って赤血球を数える演習の際、正確に数えられなかったからです。電子顕微鏡がまだない時代で、目視で顕微鏡内の細胞を数えなければならず、それがどうしても不得手でした。
そうして消去法的に看護コースに進むことにしたのですが、勉強し始めると次第に興味がわいてきました。学部の学びを終えると看護師と保健師の国家試験を受験でき、さらに当時の琉球大学では、半年間大学に残って勉強すれば助産師の資格も取れました。4年の学びだけで社会に出るのが心もとなかったこともあり、大学に残ることにしたのです。
助産師のコースは、妊婦さんに付きっきりで分娩の介助をする臨地実習がたくさんあり、思いのほかハードでした。それでも先生方が協力的かつ熱心に指導してくださったおかげで、いざ助産師になった時、ほとんどの仕事が実習で経験したことばかりだったので、自信を持って臨床に立つことができました。
北里大学病院は、最新の設備が整い、先進の医療と看護を学ぶために全国から若い人がたくさん集まっていて、私もその点に魅力を感じて就職しました。ですが、5年ほど経験を積むと、多くの人が地元に帰ってしまうことを残念にも感じました。教育の道に進んだのは、北里大学に看護学部ができるから教員にならないかと声をかけられ、自ら優秀な人材を育て、大学病院に残ってもらえるように導きたいと思ったからです。修士課程、博士課程にも進学し、母性看護や生涯発達看護を研究しました。女性が妊娠を機にどのように母親へと変わっていくのかの心理過程を理解できれば新たな支援や産後ケアにつなげられると思いました。
長年本学で仕事をして感じる魅力は“壁がない”ことです。専門以外の分野でわからないことがあれば他学部の先生はいつも親切に教えてくださり、それは学生に対しても同じです。その「北里らしさ」をもっと活かしたいという思いで学長を務めています。新千円札(2024年発行)の顔になる学祖・北里柴三郎博士は、農・医・工の連携が予防医学に必要だと提唱しました。本学は医療系学部が中心ですが、2023年度から新たに未来工学部が加わり、農・医・工が揃うことになりました。次のフェーズに入った本学に私自身も大いに期待しており、“なりたい、を超えていく”をキャッチコピーに、学生がそれぞれの道を見つけ、さらに次のステップへ進めるよう支援したいと考えています。
今の時代、将来の目標は早く決めた方がいいという声もありますが、私は多くを経験してこそ進む道が見えてくると思っています。漠然とでも、「学びたい」「将来こうなりたい」という気持ちがあれば必ず前へ進めるはず。関塾で勉強している皆さんも、焦らずに今やるべきことを頑張って一歩ずつ自分の将来に向かってください。
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