国立大学法人宇都宮大学のスローガンは、「地域とともに学生の未来をつくり、学生とともに地域の未来をつくる」。1949年の開学以来、栃木県唯一の国立大学として“知の拠点”であり続け、2024年4月には地元の強い要望と期待に応え、データサイエンス経営学部が新設されました。池田宰先生は工学分野のご出身。「文理複眼」を掲げる先生らしく、中学・高校時代はすべての教科をまんべんなく勉強されていたそうです。
【池田 宰(いけだ・つかさ)】
1956年生まれ。東京都出身。工学博士(東京工業大学)。
81年3月東京大学工学部工業化学科卒業。82年東京工業大学工学部教務職員、88年同大学工学部助手、90年同大学生命理工学部助手。92年ドイツ・ザーランド大学博士研究員。97年広島大学工学部助教授、2001年同大学大学院先端物質科学研究科助教授。02年宇都宮大学工学部教授、08年同大学大学院工学研究科教授、12~14年同大学大学院工学研究科長。15年同大学理事・副学長を経て、21年4月学長に就任。専門は生物有機化学。
生まれも育ちも東京ですが、父の故郷が石川県の能登半島だったので、少年時代は夏休みや春休みになると遊びに行き、親戚の家で過ごしていました。地元愛が強かった父と同じく、私も北陸には少なからず思い入れがあります。
小学校は、兄が通っていた学習院初等科に入学しました。下町の東京都江戸川区から、初等科があった四ツ谷まで電車通学をしていて、近所の子どもたちと一緒に過ごす時間があまりなく、よく1人で自転車に乗って遊んでいました。今も趣味でサイクリングを楽しんでいますが、間違いなくこの頃の自転車遊びが原点です(笑)。
大正生まれの父は陸軍士官学校、母は東京女子高等師範学校(のちのお茶の水女子大学)の出身で、両親は学び直しのために入学した明治大学で出会ったそうです。教育熱心だった母は、「通信簿はオール5をとるのが当たり前でしょ」と。初等科4年生の時に現在の天皇陛下、浩宮様が入学してこられ、1学年上には高円宮憲仁親王がいらっしゃいました。学習院は由緒正しい校風で、その影響からか、自分で言うのもなんですが、聞き分けのいい子どもだったと思います。
高学年になると進学塾に通い始めました。「勉強の助けになれば」と母が入塾させたのですが、私は大学までそのまま学習院に通うつもりでいました。そんな時、塾のテストで良い点数をとったことで先生から中学受験を勧められ、次第にその気になり、受験することにしました。
そうして麻布中学校に進学。大規模な学園紛争があった頃で、1年生の3学期は定期試験ができなくなる事態に。校長先生が責任をとって辞任したり、高校の上級生が生徒の権利を求めて学校側にかけ合ったりする光景を間近に見て、いろいろな世界があるのだなと感じました。
麻布中学校の授業は、大学の講義のようでとても新鮮でした。決まったカリキュラムと教科書に沿って行う授業もありましたが、大体は自主性に任せるというやり方で、自ら進んで勉強しないと何も身につかないのです。小学校から始めた剣道も同じです。武道の稽古も義務ではなく自己鍛錬としてやらなければなかなか上達しません。麻布中学校の自由な校風のおかげで、主体性を持って行動するという考え方が身についたと思います。
高校生になり大学受験が近づくと、誰もが自分が文系向きか理系向きかを考えるようになります。ですが私は、「この教科が得意だからこの学部に」というのがなくて……。古文や漢文、英語も好きでしたし、数学や理科の勉強もおもしろくて、「どちらかといえば理系向きかな」くらいの漠然とした気持ちで進路を決めました。将来、こんな仕事に就きたいというビジョンもなく、剣道部と並行して活動していた自転車サークルで機材を整備するのが好きだったので、とりあえず工学部を志望しました。
大学は一浪を経て東京大学理科一類に合格。予備校時代は、なぜか医学部志望クラスに入ってしまい、そこには中高時代の友達が何人かいました。志望校を決める時、東大の理科一類を受けると言うと「弱腰だな!」と。もともと医学部に行くつもりはなかったので、「そう言われてもなぁ……」と困惑するしかありませんでした(笑)。
東京大学の魅力は、進学選択制度(通称「進振り」)があることです。2年生までは教養学部で一般教養科目を履修し、その後、本人の希望と成績によって、どの学部・学科に所属するかを決める、というものです。何となく工学系を学んでみようと考えていた私にはぴったりの制度でした。
工学部で化学を専門にしようと思ったのは、教養学部で*戸田不二緒先生の講義を聞いたことがきっかけです。先生が生命化学についてお話しされるのを聞いて、スッと腑に落ちる感覚があったのです。当時(昭和50年代)は、生化学(バイオケミストリー)や生物工学の学問分野がまだ確立していなかった時代。米国留学から帰国した戸田先生は、日本で先駆け的にタンパク質工学(プロテインエンジニアリング)に目を向け、人工細胞や人工酵素の研究をされていました。私は4年生から戸田先生の研究室に所属し、そうした異分野融合の実験や研究に取り組み、どんどんのめり込んでいきました。
卒業後は、研究を続けるために東京大学大学院へ。ところが、指導教官である戸田先生が東京工業大学に移られることになり、状況は一変。他の教官のもとで研究する選択肢もありましたが、大学院入試の際に大学は「戸田先生の指導が受けられる」ことを確約して合格させたわけですから、私にはその権利があるはずだと主張しました。大学側はこの主張を受け入れてくれ、学科長が戸田先生のもとにいた大学院生を引き取るというかたちで、東大に籍を置いたまま東京工業大学で研究を続けることが認められました。
*東京工業大学名誉教授。生物工学の分野で人工酵素の研究に従事した。
ドイツに留学したのは、東京工業大学に勤めて10年ほど経った頃です。定年を控えた戸田先生に背中を押され、フランスとの国境に近いザーランド大学で生命工学について研究しました。帰国後は広島大学に助教授として着任。振り返れば、父の故郷の北陸、生まれ育った東京に愛着があり、社会に出てから住んだドイツや広島にも特別な思い入れがあります。それぞれの土地の文化に触れたことで視野が大きく広がったと感じています。飛び込んだ環境に自分を溶け込ませることは、人を成長させるのに大いに役立ちますね。
宇都宮大学の学長に就任し、自ら掲げた座右の銘は「初志貫徹」と「臨機応変」です。一見相反する言葉のようですが、“志”がないと大学運営のロードマップは描けませんし、時代の要請に応える大学へと進化させていくには“柔軟な姿勢”も必要です。
本学は、学生が分野の枠にとらわれない「文理複眼」の視点を持つことを重視し、地元・栃木とともに発展していく「共創」を目指して教育と研究活動を展開しています。学生、保護者、教育機関、地方自治体、産業界などが双方向の関係で対話を重ねながら、地域の特性や潜在力を活かす「共創」を本学が中心となって進め、地域との連携をより一層強めていきたいと考えています。
関塾で学んでいる皆さんは、生まれた時からスマートフォンがあり、知りたい情報をすぐ手に入れられる環境で育ってきたのではないでしょうか。これからは、その膨大な情報の中から、価値のあるもの、重要なものを選びとる能力が求められます。何が正しく、何が自分に必要なのかを判断するには、文理複眼の視点を持つことが大切です。“多様な眼”を養えば、今まで気づかなかったことに気づけるかもしれません。自分を一歩先へと進めることができますよ。
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