1949年に2学部で発足した国立大学法人香川大学は、地域に根差した大学として時代のニーズに幅広く対応し続け、現在は6学部7研究科を有する総合大学となっています。創造的で人間性豊かな専門職業人・研究者の養成を理念とし、2018年から本格的な大学改革をスタート。デザイン思考教育などの特色ある取り組みを様々な分野で行っています。中心となって改革を進められている現学長の筧善行先生にお話を伺いました。
【筧 善行(かけひ・よしゆき)】
1954年生まれ。京都府京都市出身。医学博士(京都大学)。
81年3月京都大学医学部卒。同大学附属病院での研修を経て、82年7月より関西電力病院医員。89年3月同大学大学院医学研究科博士課程修了後、同大学助手として勤務。91年国立姫路病院医長。94年京都大学講師、2000年助教授。文部省在外研究員としてピッツバーグ大学滞在後、01年4月より香川医科大学教授。03年大学統合によって香川大学教授となり、05年より副医学部長、08年より副病院長を併任。理事、副学長を歴任し、17年10月に学長に就任。専門は、泌尿器科学、前立腺がん。
生まれたのは京都市左京区北白川、京大農学部の近くですが、京大病院に勤務していた父が名古屋市立大学に転勤になり、4~5歳の頃に引っ越したためほとんど覚えていません。引っ越し翌日くらいの夜、なんと家に泥棒が入って、父の「泥棒です!」という叫び声でがばっと目が覚めた、それが私の最初の記憶です。その頃はとても体が弱く、幼稚園にもろくに通えず病院通いばかりだったのですが、小学校に入ったら突然あまり病気をしなくなりました。学校に通えることが楽しくて仕方なかったようで、毎日帰ったら母にその日の授業を1時間目から全て延々と再現してみせていたそうです(笑)。卓球部・陸上部・体操部と部活を3つ兼ねていて、運動も精一杯していました。
小学4年の時、父が開業して家庭環境が激変。母も手伝いで忙しくなり、2人が夜の往診に行く時は5歳下の妹の面倒を見ながら留守番をしていたのですが、このまま帰って来なかったらどうしたらいいんだろう、なんて不安になったこともありましたね。それまでは結婚前に中学校教師をしていた母に教わることができた勉強も、自分でやるしかない状況に。幸い、どの科目もおもしろいと感じていたので苦にはならず、小学校・中学校とコツコツ真面目に勉強し、成績も優秀でした。
愛知県内トップの県立旭丘高校に入学したまでは良かったのですが、そこからが大変でした。学生運動の影響を強く受けていた高校で、最初の定期試験の前日、3年生による全校集会が開かれたのです。政治状況や試験ボイコットの話を聞かされ、大変な衝撃を受けました。試験は今まで受けて当然と思っていましたが、自分で決めて受けないという選択肢もあるのかと。「明日からの試験を本当に受けるのか。試験勉強の他にもっとするべきことがあるだろう」と熱弁され、その通りだと思ってしまいました。結局、試験は受けたものの、ほとんど勉強していませんでした。そこで人生が一旦リセット。コツコツ積み上げてきた優等生のキャリアは何だったのか、両親にも随分と反抗し、人が変わったようでしたね。学年が上がり、硬式庭球部に入ったことで徐々に落ち着きを取り戻しましたが、最初の2年近くは空白の期間でした。
受験生になり、親戚などに医者が多く、医学部に行きたいという思いがあったため、名古屋大学医学部を志望しましたが、先生からは医学部は難しいと言われました。受験はしたものの、やはり不合格。予備校の医学部進学コースに入って空白期間を取り戻すべく必死に勉強し、翌年は医学部を受けても良さそうな状態に。ところが、名古屋で大学生活を送る自分が思い描けず、京都の落ち着いた雰囲気の中なら集中して勉強できるのではと考えを改めて京大を受験しましたが、届きませんでした。当時は2期制で第2志望の大学は受かったのですが、合格発表を見て家に帰ると、私の机の上に京大入試に強い京都の予備校のパンフレットが。母が置いてくれたそれを見て、背水の陣の覚悟で京都で下宿をしての浪人生活を選びました。名古屋の予備校では不充分だった京大独特の問題への対策を教わることができ、今度は無事に合格できました。
2浪しましたが、入学した学年は皆仲が良く、充実した学生生活を過ごせました。私の専門の泌尿器科は他の科に比べて歴史が浅く、当時はかなりマイナーな科でしたが、今後発展する科だとも感じましたし、人が軽んじているようなところをやりたいという思いもありました。しかし、選んだ理由として最も大きかったのは吉田修先生に惹かれたことです。38歳の若さで京大の教授になられた非常に視野の広い方で、多くのことを学ばせていただきました。また、入門して5年程経った頃、基礎医学の分野の研究室に入る機会をいただき、中西重忠先生のもとで生化学・分子神経科学を学びました。他学部や他大学、企業の人も多く来ていた研究室で、科学全般のこと、他学部や企業の人の考え方を知ることができ、狭かった視野が一気に広がりました。恩師のお2人とも研究の目的が明確で公平な方で、学生への接し方など今の立場となっても大いに参考にさせていただいています。
ある程度力がつくと研究留学する場合が多いのですが、私はその時期、吉田先生が新しく立ち上げた学会誌の編集主幹を任され、他に研究室の雑務などをお手伝いすることも多く、多忙で留学は叶いませんでした。その後、吉田先生が定年で退官され、後任の教授選を1学年下の後輩と競うことになったのですが、いざ書類を書いてみると自分の研究がいまいちだと感じました。様々なことをしているうちに本来の研究において何をやりたいのかわからなくなってしまっていたのです。結果、後任には後輩が選ばれました。
後輩に気を遣わせるのが申し訳なく、早く京大から出て行ってあげたいと思っていたところ、文部省の在外研究員としてアメリカのピッツバーグ大学で日米共同のプロジェクトに携わる機会を得ました。とある企業が主体の、新薬を作るために遺伝子から研究を行うというもので、半年程の短い間でしたが、大変おもしろく有意義な仕事ができました。帰国が近付いた頃たまたま、香川大学医学部の前身である香川医科大学の教授公募の話があって応募したところ、2001年から勤めることになりました。
歴史が浅く実績もまだない大学だったので、少し不安もあったのですが、実際に来てみると若い先生ばかりで、やりたいことが自由にできる環境でした。京大のように同年代で優秀な先生が多いとお互いの立場や役割に気を遣わないといけませんが、香川医科大学ではそれがなく、溜まっていたものが一気に解き放たれた感じでした。アメリカでの経験を通してやりたい研究テーマも見つかっていましたし、学生たちへの授業も全て私が準備して行っていましたね。やればやるだけ結果もついてくる、という状態が続き、今に至っています。
振り返ってみると、全てが順風満帆な人生だったとは言えませんが、高校での空白期間や浪人生活、教授選での経験も、大きな糧となりました。大抵のことには動じなくなりましたし、いろいろな人の助けが必要だということも学べました。人生とはうまくいかない時にこそ重大なヒントがあるものなのだと思います。
香川大学では、デザイン思考教育を取り入れています。日本はものづくりで発展してきた国ですが、他国の技術力が上がってきた現在、単に性能がいいだけでは不充分で、付加価値となるアイデアを生み出せる人材が求められています。そういう才能は生まれつきのものだと思われがちですが、デザイン思考教育とは、誰もがアイデアを生み出す力を持てるという考え方に立った教育です。デザイン思考のもとになるのは共感力。つまり、相手の立場を理解し気持ちを共有する力で、グループワーク、他者と話し合いながら共同作業を行うことが非常に重要です。皆で問題を見つけ、優先順位をつけて解決策を出し合っていく。それを繰り返すことで、自然と求めに応じてアイデアを生み出す癖がついていくのです。
こうした力は、これからの時代、人種や国籍など立場の違う人と接する機会が増える国際化社会、そして人工知能が発達する情報化社会においても必要となるものです。医療の分野でいえば、診断などは人間よりもずっと多くの情報を処理して答えを導き出せる人工知能を利用することが増えるでしょう。しかし、人工知能は答えを出しても説明はしてくれません。患者さんに納得してもらうためには医者がきちんと説明しなければならないのです。そのもとになるのもやはり共感力です。
もう少し身近なアドバイスとしては、勉強や運動、どんなことでも楽しいところを見つけること。物事は楽しくないと続けられません。小中学校の勉強は大学受験までつながっており、私が高校の空白期間を取り戻せたのもコツコツと積み上げてきたものがあったからです。始まりは、学校に通うのが楽しいという気持ちでした。楽しいところが見つかった時、逆に見つからなくて困った時は、誰かと話してみましょう。それこそがデザイン思考の第一歩。人と話し合う習慣を身につけ、自分のアイデアを積極的に発信できるようになってください。
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