2005年に都立の4大学を統合・再編して発足した、東京都が設置する唯一の公立総合大学である首都大学東京は、2020年4月に東京都立大学へと名称を変更し、新たなスタートを切りました。世界有数の大都市・東京が設置する大学として、世界トップクラスの大学であり続けるため「TMU Vision 2030」を策定し、ビジョンに掲げた将来像へ向けて、現学長の上野淳先生をはじめ、全学一丸となって取り組まれています。
【上野 淳(うえの・じゅん)】
1948年生まれ。岐阜県出身。工学博士(東京都立大学)。
71年3月東京都立大学工学部卒。73年3月同大学院工学研究科修士課程修了、77年3月同博士課程修了。同大学工学部に助手として勤務後、84年より助教授、93年より教授。大学統合・再編により、2005年首都大学東京都市環境学部教授となる。基礎教育センター長、大学教育センター長、副学長、学長特任補佐を歴任し、15年4月に学長に就任。名称変更により20年4月より東京都立大学学長となり、現在に至る。専門は建築計画学。
生まれ育った岐阜県山県郡(現 山県市)は、静かで穏やかな地方の小さな町で、山と川と田んぼしかないようなところでした。父と母、兄と弟の5人家族で、両親はどちらも小学校の教員でした。母は私が生まれて退職しましたが、優しくも厳しい人で、人として間違ったことはしないようにときちんと育てられました。父は豪放磊落な人で、ゴルフ・釣り・音楽鑑賞・俳句など、とにかく多趣味で、キャンプやピクニックによく連れて行ってくれました。
ですが私は体が弱く、入退院を繰り返していたので、小学校は休みがちで、あまり良い思い出はありません。偏食でもあり、班全員が食べ終わらないと遊べない給食の時間はつらかったですね。当時は、勉強も運動もして、給食も残さず食べて、というような何でもできる子が良いとされる時代だったので、自分はそれとは正反対だと感じていました。体が弱く自由にできることが少なかったので、本を貪るように読んでいました。父が勤務先の小学校から毎日本を借りて帰ってくれていて、私は図書館の本を全て読んでしまったそうです。本当かどうかはわかりませんが(笑)。
その後、栄養状態が改善したり、有効な治療薬が徐々に普及したりしたおかげで、中学生頃にはだんだん体が良くなっていきました。しかし、中学2年の3学期、父の転勤で東京に引っ越すことに。体は丈夫になったものの、今度は方言が気になって皆とあまり馴染めず、結局、中学校を卒業するまで家にこもりがちのままでした。中学校については、引っ越してすぐの音楽のテストがリコーダーの演奏だったことに大変驚きました。岐阜ではハーモニカで、リコーダーは習うどころか持ってさえいませんでした。また、高校入試のための業者テストが毎月行われることにも戸惑いましたが、主要教科では進度などのズレがあまりなく、幸いにも良い成績をとることができました。当時は成績の順位でどの高校を受けるか決まるのが一般的だったので、それに従って都立立川高校に進学しました。
高校時代は、私にとって1番のターニングポイントとなりました。最も大きかったのは、生涯付き合いが続くような、非常に親しい友人がたくさんできたことです。体もとても良くなってサッカー部にも入りましたし、方言もあまり気にならなくなっていました。とにかく多彩で優秀な生徒が集まっていて、読んでいる本や将来についてなど、様々なことを話して刺激を受け、物事を深く考えるようになりました。高校生になってやっと人生が開けたと感じました。
また、将来の進路を決めたのも高校の時です。もともと数学や理科が好きで理数系に進みたいと思っていて、工作や設計図のようなものを描くなど、ものを作ることにも小さい頃から魅力を感じていました。それらに加えて、16歳の時に東京オリンピックがあり、*丹下健三先生など名立たる建築家の方々がオリンピックを目指して素晴らしい建築物を次々に作られていました。建設現場などを直接見たわけではありませんが、報道などを通してそれらを身近に感じることができ、自分も建築の道に進みたいと思うようになりました。そして、現役での進学を志望していたこと、学費が他大学に比べて安かったこと、何よりも中規模の総合大学というのが自分の性格に合っていそうだと感じたことから、東京都立大学を進学先に選びました。
*(1913~2005)建築家、工学博士。戦後日本を代表する建築家の一人。東京五輪会場の国立屋内総合競技場(現 国立代々木競技場)、大阪万国博覧会会場、広島平和公園などをはじめ、国家的なプロジェクトを数多く手がけた。
私が入学した当初、建築工学科は1学年が35人ほどで、学生・教授間の距離が近く、非常に家族的な大学でした。現在は1学年50人に増えていますが、その雰囲気は変わっていないですね。
専門を決めたきっかけは、師匠にあたる長倉康彦先生が素晴らしい方だったからです。建築といっても、地震の揺れに対しても壊れない技術や構造を研究する分野、照明や空調などの環境をコントロールする分野など様々です。私の専門の建築計画学は、病院や学校といった公共施設などを作る時、基本的な空間構成はどうあるべきかを研究する分野です。例えば、病院のベッドの間隔はどのくらい空いていれば患者さんにとって心理的にベストなのかを考える、というようなものです。長倉先生はこの分野の第一人者でいらっしゃって、それはもう憧れました。数理手法や心理学など様々な要素が必要となる分野で、自分の資質にもとても合っており、非常に幸運な出会いでした。
現在は工学部の学生の7~8割が大学院に進学しますが、私の頃はせいぜい1割、1学年で3~4人でした。景気が良く、大手企業からいくつも内定をもらえて行きたい会社を自由に選べるような状況で、就職を選ぶ学生が大半でした。しかし私は、子どもの頃から、自分は皆と同じようにはできない、同じではなくてもいい、という思いがありました。だからこそ、他の誰も持っていないような自分独自の世界を築いてから社会に出たい、そう考えて進学を選びました。
博士課程在学中に結婚し、家内に経済的な苦労をかけていたため、教員になるつもりはなく、博士号をとったらすぐ就職しようと思っていました。ところが、博士課程を修了する頃、突然師匠に呼ばれ「私の研究室の助手をしませんか」とお声がけをいただきました。助手としてお手伝いをしながら自分の研究も進めていたところ、30歳を過ぎた頃にまた師匠に呼ばれて今度は助教授にと。そしてもう半世紀以上この大学にいます。極めて幸せなことで、師匠には感謝してもしきれません。
これまで多くの論文を書き、いくつかの建築作品をプロデュースしてきましたが、そうした自らの業績よりも、多くの優秀な学生を育て、社会に送り出せたことこそが、私にとって最も大きな財産です。大学というのは、教員が学生に一方的に知識を伝えるのではなく、教員と学生がお互いに教え合い、切磋琢磨しながら学んでいくべきところです。そのためには教員と学生の距離が近く、話をしやすい雰囲気であることが必要です。私の場合は、研究室でお菓子や飲み物を用意して懇親会を開いたり、自宅に学生や卒業生を招く日を設けたりして、なるべく彼らが口を開きやすい状況を作り出せるような工夫をしていました。学生も非常に良く応えてくれ、真摯に努力を重ねて立派に巣立ってくれましたし、私も彼らから多くのことを学べました。
大学にとって一番重要なのは、研究と教育とがどちらも高い水準で上手く循環していくことです。学生は、教員の質の高い研究を見て刺激を受け、生じた疑問や発想について教員と議論を重ねることで自らを成長させていくのです。東京都立大学は、私が入学した頃からこうした雰囲気が作られている大学であり、この高度な研究力と質の高い教育の好循環を守っていくことが私の学長としての仕事だと思っています。
自分の子どもの頃を振り返って、関塾生の皆さんにお伝えしたいのは、たとえ皆と違うところがあっても、駄目だと落ち込むのではなく、自分は自分だと思って行動することの大切さです。私も体が弱かったり、方言が気になったりと、悩むことが多かったですが、皆と同じでなくてもいいと思って行動することで自分に合った道を見つけることができました。自分は何が好きなのか、何が1番向いているか、そして将来どうなりたいのかを一生懸命考えて、進路を選んでください。そのために役に立つのは、本を読むことです。小さい頃から読書が好きでいろんな本を読んでいたことが私の人生観や研究者としての力を形成するもとになりました。
また、勉強については、なるべくオールマイティに学んでおくことが大事です。私は理系に進みましたが、高校も大学も公立を志望したので国語も社会も必要でしたし、国際化、多様化が進むこれからの時代、その傾向は益々高まっていくはずです。小中高と様々な知識をバランス良く身につけ、その上で自分なりの強みを発揮できる、そういう人が社会で最も活躍することができるのです。
そして、保護者の方には、そんなお子様を長い目で見ていただきたいと思います。幼い頃は体が弱かった私が高校生になる頃にはすごく丈夫になったように、子どもにはいろんな個性や可能性があります。お子様が自分に合った道を見つけることができるよう、皆と比べて違うところがあっても個性として重んじ、どうか辛抱強く見守ってあげてください。
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