関塾が発行する親子で楽しむ教育情報誌、関塾タイムス

MENU

2018年5月号 わたしの勉学時代

母の猛反対にあい大学進学へ

私が生まれたのは東京都墨田区向島です。ちょうど東京スカイツリーの真下辺りで、近くを隅田川が流れています。ここに住んでいたのは3歳くらいまでなので、子どもの頃の記憶は、駒込に移ってからのほうがはっきりしています。駒込には大学院時代まで住んでいました。
ふぐ料理屋の板前だった父は、新宿や四谷などに店を構えていました。ふぐの季節は冬ですから、忙しくなる時季にヒレ酒づくりを手伝ったりするため、私も厨房に出入りしたものです。そんなふうに過ごしてきたので、私自身はすっかり父の跡を継ぐつもりでいたのですが、母の猛反対にあい断念しました。それで仕方なく大学に進んだというのがいきさつです。母は私に学をつけさせたかったのでしょう。父は群馬県の山奥の貧しい農家に生まれ、初等教育を受けた後すぐに働きに出た人でした。母も *1 左官の家の出身でしたので、学がないと職業の可能性が狭まることを痛感していたのだと思います。父は漢字が一切読めませんでしたから。周りからは「板前の息子大学教授にまでなったというのも珍しい」と言われたものです。

*1建物の壁や土塀などを塗り上げる専門の職人。

今は無き東京の野原

かつての駒込には芝居小屋があり、大衆演劇は地元の人々に人気でした。町内に小屋が2軒は建っていたように思います。私の初めての芝居体験は小学生の時でした。芝居小屋に入って行った大叔父を追って中をのぞいたのがきっかけです。大叔父に「こっちへおいで」と手招いてもらい観劇することになりました。そこで何を観たのかは今はもうはっきりとは覚えていないのですが、おそらく大衆演劇の一座による剣劇であったと記憶しています。自身と演劇との縁の深さを感じる原体験でありました。
もう一つ深く印象に残っている駒込の風景は、染井墓地の近くにあったグラウンドです。当時「森永グラウンド」と呼ばれていたので、おそらく森永乳業が所有していたのだと思います。野球が2試合同時にできるほど広い野原でした。野球少年だった私は、毎日のようにここでボールを追いかけたものです。野原の中央に大きな木が群生していたことも鮮明に覚えています。放課後になると、我ら悪童たちはその木の下で寝転がり、牛乳を飲みながらいろいろな話をしました。この頃の東京には、まだ野原や空き地が点在していたのです。夏祭りの折にはそこに掘立小屋が建ち並び、芝居の一座が来ていました。仮設のステージも組まれ、そこで落語家の初代・林家三平が口演をしたこともありましたね。当時彼が人気絶頂の頃でした。その話芸に、皆で腹を抱えて笑ったものです。今ではまずお目にかかれない光景です。こうした今は無き野原や空き地の中で、私の知的好奇心の土台は築かれていきました。

小学生時代の読書体験

私が持つ最も古い“におい”の記憶は、中学校に上がって初めて手にした革製の野球グローブのにおいです。小学生時代の野球チームでは布製のグローブとボールでプレーしていました。革製品は当時とても高価で、私たちには縁遠い品物でした。そんな貧しい下町の子どもが、中学のクラブ活動で革製のグローブを手にしたのですから、その感動は相当なものです。何より「野球をやっている」実感を得ることができました。革のグローブはグリスを塗ってメンテナンスをするのですが、そのにおいは今でも思い出すことができます。
野球と同じくらい夢中になったのが読書です。これについては、小学1年から4年まで私たちのクラス担任だった安倍先生の影響が大きかったですね。小学2年生の頃に「読書感想文を毎週提出するように」と先生に言われたことがきっかけで、週に何冊か本を読むようになりました。読書感想文は添削されて戻ってくるのですが、そこに書かれた先生のコメントを毎回楽しみにしていたものです。いわゆる論文指導のような型にはまった添削ではなくて、児童と同じ目線に立って感動を共有してくださる文章でしたね。ノートを受け取る時には、手紙の返事をもらうようでワクワクしていました。読書の習慣がついたのはこの時期です。小学生時代には歴史物や伝記物が大好きで、特に*2上杉鷹山の伝記は印象に残っています。政治の在り方、名君主の統治についてなど多くを学びました。
そんな小学生時代の読書体験ですが、大いにショックを受けたこともあります。小学6年生の時、読書感想文のコンクールに応募することになりました。私は自分の感想文と一緒に、他のクラスメイトの作品も回収して来るよう先生に言われました。その中に「日常の中で……」という書き出しの作文を見つけたのです。これはもう、はっきりと覚えています。それまでの私は、読書感想文のパターンに沿って、お決まりの書き出しであればいいと考えていました。ですから、予想もしていなかった一文に出合って「こんな書き出しがあるのか」と衝撃を受けたのです。この一件をきっかけに、文章に対する考え方が大きく変わりました。その「日常の中で……」という文章を書いたのが、初恋の子だったというのも大きかったかもしれません(笑)。

*2江戸中期の大名で、米沢藩の第9代藩主。倹約や藩の改革を行い、莫大な借金を返済して財政 の立て直しを成功させた。

読書をしながら山手線を一周

小学校、そして中学校での経験は、私にとって大きな財産です。特に先生方との出会いには感謝しかありません。中学2年生の時に出会った竹内先生には、難しい本に挑戦する私を励ましていただきました。それが力になったことをよく覚えています。私の知的好奇心は、学校で開拓されたと言っていいでしょう。
しかし一方で、高校にはほとんど行きませんでした。朝はまず「行ってきます」と言って家を出ます。そして本を読みながら山手線を一周して降ります。それから染井の墓地でまた本を読みながら時間を潰し、父の仕事を手伝うため母が家を出る時間を見計らって帰宅するのが日課でした。この時期の読書量は相当なものだったと思います。人生で一番本を読んだのではないでしょうか。後に私の大切な恩師となる中村雄二郎先生の本を読んだのもこの時期です。しかし、そんなことを続けていると当然出席日数が足りなくなるので、母は毎年のように学校に呼び出されていました。
板前になるつもりでしたので、受験勉強と言えることはほとんどしておらず、高校3年生の夏休みになってようやく参考書を開いたという有様でした。ただ、実は英語だけは家庭教師がついていました。かつて駒込の近くにあった東京外国語大学の大学院生で、山中桂一さんという人に教わっていました。私が入り浸っていた本屋のお客さんだったことが縁で、家庭教師になっていただいたのです。週に一度下宿先にお邪魔して、山中さんが選んだ英語のテキストを読みました。後に東京大学の名誉教授、言語学の第一人者となられた山中さんを通して「学問をする環境とはどういうものか」を知れたことは収穫でした。

法哲学者、そして能の世界へ

大学受験の際に法学部を選んだ理由は、『弁護士プレストン』というアメリカのテレビ番組に影響されたからです。主人公が陪審員を前に演説をして、最後の最後で評決をひっくり返すシーンがかっこよかった。しかし、大学に入って日本には陪審員制度がないことに気付き、それはもうがっかりしました(笑)。他にもいろいろと原因があり、結局弁護士になることは諦めました。法哲学の研究者になろうと決めたのは大学3年生の頃です。
法哲学、そして恩師である中村雄二郎先生との出会い。それと同じくらい大きな存在となったのが能でした。きっかけは大学院時代、天才能楽者・観世寿夫さんの舞台を観たことです。あれは忘れもしない、神楽坂の矢来能楽堂の舞台でした。あの時に受けた衝撃は言葉に表せません。人生というのはわからないもので、あの舞台を観なければ、私はただの能が好きな法哲学者で、プロデューサーにはなっていなかったと思います。
皆さんにも、こうして私が経験してきたように、知的好奇心への道を拓くきっかけとなる出会いがあることを願っています。新しい可能性を見出すためには相当のエネルギーが必要で、一人では成し遂げることが難しいでしょう。その可能性を見出すきっかけこそが、学校や塾での恩師との出会いだと思うのです。
高校生や大学生の時点での能力は未知数です。その時は追い着けなかった高みにも、いつかは届くものだと思っています。今できないことを恥じに思う必要はありません。様々な出会いを通して、自分を成長させてください。

学生と世界を結ぶ明大

明治大学は2014年に文科省の「スーパーグローバル大学創成支援」事業に選定され、世界トップレベルの大学との交流・連携を進めています。2017年6月には「海外トップユニバーシティ留学奨励助成金」を新設。スタンフォード大学やペンシルベニア大学などで学ぶ「明治大学海外トップユニバーシティ留学プログラム」参加者を対象に、1学期あたり最大300万円の助成金を支給する体制を整えました。
また、2019年春には「和泉国際混住寮(仮称)」の入居が始まる予定になっています。この国際混住寮では、留学生と日本人学生が共に暮らし、教室以外の場での自主的な学びと交流が自然と生まれる、新しいタイプの学生寮。海外を目指す学生にとって最高の生活環境を提供します。
2023年度、単位取得を伴ともなう海外留学経験者数を4000人に、そして外国人留学生の受け入れを4000人にすることを目標としている明大。国際的な広い視野を育て、多様な価値観を養うすばらしい環境が整っています。

発生医学研究所の建物。 生命科学の分野で国際レベルの研究が行われています。