関塾が発行する親子で楽しむ教育情報誌、関塾タイムス

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2018年9月号 わたしの勉学時代

父と母の人生について

私の父は大変苦労してきたと聞いています。福島県にあった生家は、もともとは裕福だったそうです。ところが、父親つまり私の祖父が株で失敗し、間もなくして亡くなってしまいました。土地を売らざるを得なくなり、祖母と共に東京へ出て来たといういきさつです。学校も途中で辞めなければなりませんでした。その後は、働き過ぎが祟ったのか体を壊したこともあったようです。母と結婚した後も、苦しい生活が続きました。
母は琴の奏者でした。戦前は歌舞伎の舞台でも演奏していたそうです。*1盧溝橋事件が報じられた同日に、ラジオ番組に出演していた記録もあるのですよ。プロ奏者としての自負心からか、なかなか気位の高い人でしたね。しかし、その母であっても、姉と兄そして私の3人を育てながら琴を続けるのは限界があったようです。「子どもたちがいなければ、私には別の人生があった」と言われたことをよく覚えています。そんな母の姿を見てきたので、自分の結婚相手は「ちゃんと“自分の人生”を生きようとする人がいい」と決めていました。私の妻は、今も大学教員を続けています。

*1 1937年7月7日。中国・北京郊外の盧溝橋付近で起こった、日本軍と中国軍との衝突事件。日中戦争の発端となった。

我が家は裕福ではなく、私は幼稚園に行かせてもらえませんでした。「どうして自分だけが行けないのだろう?」と、周囲の友達に対してコンプレックスを持っていました。

「勉強」に関心がなかった

私は「勉強」が大嫌いです。勉強という言葉は、中国語では「気が進まないことを強いられる」という意味だからです。そして、残念ながら、実際に日本をはじめとした東アジアの教育は、受け身で詰め込み型の「勉強」の傾向にあります。これは元を辿れば記憶力偏重の中国の*2 科挙試験からきているのですが、こうした教育は改善していく必要があるでしょう。
小・中学校時代の私は、勉強に関心がありませんでした。おまけに、小学校の先生にも良い印象がありません。音楽の先生に殴られ皆の前に立たされた時のことは、特に鮮明に覚えています。私が一番前の席でふざけたのが悪かったのですが、一言の注意もなく突然手を上げられ、席から引きずり出されたんです。恐怖で震えが止まりませんでした。あの時、口頭で注意すれば理解したはずです。まちがった指導だったと今でもはっきりと言えます。
学習机を買ってもらったのは中学校に入ってからで、そこから少しだけ、テスト前の一夜漬けくらいはするようになりました。成績も上がってきて、先生から「自信がついてきたね」と褒められたのもこの頃です。卓球部の練習にも励んで、なかなか充実していたと思います。クラスではひょうきんな性格を発揮して、よくコントを披露していました。卒業する時だったか、クラスメイト全員から「國分は将来コメディアンになるといい」と言われたほどです。

*2かつての中国の官僚登用試験。四書五経などの書物を丸暗記しなければならなかった。

「石川ゼミに入りたい!」

神奈川県立鶴見高等学校に進学後も、学習にはあまり力を入れませんでした。塾に行くこともなく、卓球部の活動を続けました。高校3年生の夏になって慌てて受験勉強を始めた感じです。
私が慶應義塾大学法学部政治学科を志望したのは、そこに中国現代史家の石川忠雄先生がおられたからです。先生のことは、高校時代に著書『中国共産党史研究』を手にして知りました。もともと歴史が好きでしたから、わからないなりに真剣に読みました。そして、「大学は第一級の人物と出会う場である」という言葉を聞いていたので、それならば石川先生のもとで中国研究をしようと考えたのです。先生への強い憧れを抱いての入学でした。この頃は日中国交正常化前後で、多くの日本人の目には、中国は“ 奇妙な未知の国”に映っていたはずです。私も、周囲から「なぜ中国なんかを研究するんだ?」と言われたものです。
念願の石川ゼミに入ったのは学部2年生の時です。この頃は狂ったように学び、何でも貪欲に吸収しましたね。授業では常に「なぜそう考えたのか? その論拠はどこにあるのか?」を問われました。そのため、図書館に通い詰め、大量の文献にあたる必要がありました。大変でしたが、それ以上に自分の頭で考えることが楽しかったです。

小学3年生の時、東京都大田区から神奈川県へ引っ越しました。学校に対する印象は、その頃から少しずつ変化していったように思います。

「物事に完璧はないからね」

卒業論文の第一回中間報告の当日、私は39℃の高熱を出してしまいました。朦朧としながら必死に発表したのですが、この時、石川先生から「よくできている」というコメントをいただきました。まず学生を褒めない先生で、他のゼミ生たちも「初めて聞いた」と言っていたので大変嬉しかったですね。しかし、それが驕りにつながったのか、翌年の研究は勢いを欠いたように思います。最終報告を終えた時、ゼミの仲間たちからは、私の論文に対する質問は一つもあがりませんでした。すると、石川先生は「國分くんの論文は完璧だというのかね」とおっしゃいました。そして、立て続けに鋭い質問を浴びせたのです。少しかじった程度で専門家気取りになっていた私の論文は、先生によって見事総崩れにされてしまいました。発表後、先生に呼ばれ「物事に完璧はないからね」と諭された時のことは、今でもよく覚えています。この悔しさが、大学院進学へ向かう原動力になったことはまちがいありません。
また、大学院を出て教壇に立ち始めた頃、私はコンプレックスの塊でした。特に英会話力が不十分だと痛感していました。そんな時に巡ってきたのがアメリカ・ハーバード大学への留学の機会です。2年目にはミシガン大学に移り、中国研究のトップだったオクセンバーグ教授に師事。最高の研究環境で学ぶことができました。帰国の際には、留学の集大成として、ボストン経由でパリへ飛びヨーロッパ各地の研究者との交流を企画。さらに、モスクワから北京までを一週間かけて列車で旅しました。様々な人と議論を交わし、日本を客観的に見る目を養えたのも、こうした特別な経験があったからこそだと思います。しかし、これでまた少し驕りが出てしまいました。帰国後、石川先生からの仕事の依頼を「そうした仕事は、またあるでしょうから」という理由で断ったため、先生を怒らせてしまったんです。危うく破門されるところでした。仕事の依頼が次々と舞い込むようになり、立派な学者になったつもりだったんですね。
こうした経験を通して、私は何よりも人との出会いを大切にするようになりました。中国の復旦大学に留学した際には、現地人に扮してディープなフィールドワークを重ね、様々な出会いを経験しました。外国人はまず口にしない半生の赤貝を食べてA型肝炎を患ったりもしましたが(笑)、おかげで中国人が腹を割って本音を漏らしてくれるまでになったんですよ。こうして身につけた肌感覚が専門家として注目される一因になったのですが、これも石川先生に叱っていただいたおかげだと思っています。

子どもの頃の國分先生と、モスクワから北京までの列車旅での1枚

自分のミッションとは何か

私は誰よりも防衛大学校を愛しています。向上心に溢れ、誠実で、優秀な学生たちは本当にすばらしい。彼らは厳格な規律の中で生活をしていますが、それゆえに心があたたかいのです。そう実感しています。
多くの大学生は、入学と就職に重きを置いています。しかし、防衛大学校の学生たちのほとんどは自衛官になるので、4年間の授業や学校生活に全力です。当然、私たちも彼らのための教育に心を砕いています。幹部候補である学生たちは、いずれ何百、何千、中には万単位もの部下を預かることになります。国を守り、国民のために一生を捧げる仕事に就くわけです。そういった使命感、社会における自分のミッションを発見する場として、防衛大学校があります。機会があれば、ぜひ一度見学にお越しください。
皆さんも、これから迎える大学生活の中で、社会で何を成すべきかを模索してください。「大企業に入りたい」というような表面的な目標でなく、「こういう目的のためにこの仕事をやりたい」などの中身が大事です。自身の意思をしっかりと持ち、他人と比較ばかりしないことです。保護者の方には「我が子だけが人生のすべてではない」という意識のもと、適度な距離を保った関わりを心がけていただければ幸いです。

防衛大学校と世界

三浦半島・横須賀の小原台にある防衛大学校は、第2次世界大戦後、時の首相・吉田茂の発案によって誕生しました。陸・海・空の自衛隊幹部候補生が共に学ぶ例は、世界でも珍しいそうです。留学生も積極的に受け入れ、タイやベトナム、モンゴルなどから多くの若者が学びに来ています。もちろん防衛大学校の生徒たちも、アメリカや韓国、フランスなどへ赴き、世界各国の士官学校で研鑽を積んでいます。また、防衛大学校を会場とし、約1週間の日程で「国際士官候補生会議」も実施。約20か国の士官候補生を招へいし、国際情勢や安全保障に関わる討議などが開催されています。そんなグローバルな活動を展開する防衛大学校から、世界の平和を維持し、日本の安全を守る優秀な人材が輩出され続けています。

月例観閲式での、凛々しい学生たちの様子。