2019年1月号 わたしの勉学時代
少年時代の思い出と宝箱
長崎市中心市街地の北に、浦上という地区があります。観光スポットにもなっている浦上教会(浦上天主堂)がある所です。また、1945年8月9日に投下された、原子爆弾の爆心地から北東へ約500mの地点でもあります。私は戦後生まれですが、長崎に刻まれた原爆の記憶と共に少年時代を過ごしました。そのことについては後ほどお話ししましょう。
この浦上が私の故郷であり、我が家は浦上天主堂の信者でした。魚屋を営む両親のもとで育ったのは、兄が2人、姉が3人、そして末っ子の私の6人。長兄とは18歳も離れていたので、兄弟という感じはしなかったですね。私が小学生の頃には、上の4人は就職や進学ですでに実家にいなかったので、家では2歳上の姉と過ごす時間が圧倒的に長かったです。その姉と小遣いを出し合って、『マガジン』や『サンデー』といった少年マンガ雑誌を買って読んでいたのを覚えています。冒険小説も好きで、よく読んでいました。友達と連れ立って、近所の山を探検したのもいい思い出ですね。山では、水晶や黒雲母の欠片を拾い集めたり、アリの巣を観察したりしたものです。
冒険や探検に心惹かれた少年時代を振り返った時、宝箱を大切にしていたことを思い出します。とある小説で、主人公が町を探検する話があって、自分も浦上を歩いて回ったことがありました。その時に拾った錆びついた錠前を宝箱に入れていたんです。私にとって、水晶や黒雲母と同じくらい大切な物でした。
両親は食堂も経営していた時期がありました。私が小学校に入学してから、中学校に進学した頃までだったと記憶しています。
教会の町、原爆の記憶
カトリック教会の信者が多い長崎市には、独特の地域性が根付いています。その一つが、信者の子どもは教区の皆で面倒を見るという伝統です。
私が通った山里小学校には、クラスに同じ教会に通う信者の子どもが複数人いました。彼らとは、週に3日、放課後に落ち合って教会学校へ行きました。そこで、聖書の物語を紙芝居で学んだり、シスターと一緒に過ごしたり、神父から宗教の歴史などについて話を聞いたりしたものです。このような時間をとおして、子どもたちは「神様は、いつも私たちを見守っていてくださる」ことを肌で感じ、学んでいきます。神様を感じることで「たとえ人目のない所であっても、神様が見ておられるのだから悪さはできない」と考えるようになるのです。こうした感覚は、キリスト教に限らず、神道や仏教などとも共通しています。「お天道様が見ているよ」と言って、子どもを諭すことがありますね。長崎の教会学校は、宗教をとおして子どもたちが社会性や道徳性を身につける場になっているのです。
実は、長崎市立山里小学校は、原爆によって甚大な被害を受けました。この学校には『あの子』という第2校歌があります。長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典でも披露される歌で、作詞者は永井隆博士です。永井博士は、カトリックの信徒であり、長崎医科大学の教授であり、放射線の専門家でした。被ばくされた後は、原爆の研究をしながら文筆活動を続け、43歳の若さで亡くなられました。山里小学校の校内には、原爆でなくなった子どもたちを偲び平和を尊ぶ『あの子らの碑』があります。これは、被ばくした子どもたち、教師、永井博士の寄附により建てられたものです。毎年11月の平和祈念式には、この碑の前で『あの子』を合唱するのですが、その練習が例年夏休み明けから始まりました。私たちのクラス担任の和田先生は専門が音楽で、それはもう熱心に指導されていたのを覚えています。そんな先生の姿、悲しみを帯びた旋律を思い出すと、原爆の記憶を辿った子ども時代が蘇ります。
長崎を彩る宗教、そして原爆の記憶が、私の中で絶妙にバランスを保ちながら根付いていったように思います。
聖ルドヴィコ神学院へ
私は長崎南山中学校に進学しました。例年の半分にあたる1学年1クラス30名という少人数で、他学年に比べて賑やかさには欠けましたが、結束力は抜群でしたね。例えるなら、同じ歳の30人の兄弟が一緒にいる感じです。長崎には、司祭を目指す人たちを養成する神学院があり、教区や修道会ごとに運営されています。長崎南山学園の母体である神言修道会にも聖ルドヴィコ神学院があり、ちょうど中学・高校に併設されていました。中学のクラスメイトの約8割は、親元を離れてそこで共同生活をしていましたね。彼らが身を置く特殊な環境に驚くことも多かったです。
中学校に進学後も、週に1度の浦上の教会学校には通い続けていたものの、司祭職を特別に意識したことはありませんでした。ところが、高校1年生の時、「宗教」の授業を担当する先生に憧れを抱きました。教会法を学ばれ、神父として教会で働くかたわら非常勤講師をされていた方です。その授業では、教科書もノートもすべて机の中。先生が留学したローマでの出来事、人との出会い、これまでの知見に基づいた世界のキリスト教の動きなど、魅力的な話の数々を聞いて胸を弾ませました。それで「こういう教員になりたい。海外に行って活躍してみたい」と思い、聖ルドヴィコ神学院の門を叩いたのです。神言修道会は学校を運営していて、海外に拠点もあります。夢の実現にぴったりだと思いました。その神学院へは、ほとんどが中学1年生で入学します。その中でたった一人、高校2年生の私が混ざっていたわけです(笑)。こうして、初めて実家を離れたのですが、寄宿舎(寮)での生活は充実していましたね。神学院で2年間を過ごし、南山大学へ進学しました。
高校1年生の鳥巣先生(左写真)と、高校2年生で聖ルドヴィコ神学院に入った時の一枚(下写真)。中学1年生の入学者たちに混じって、高校生はただ一人だったそうです。
*1現在の中国東北部。
*2ロシアの極東地域から輸入される木材のこと。
マルクス先生との出会い
南山大学では、まず一般教養と哲学を学びました。途中で一度休学したのですが、それは修練期のために岐阜県多治見市の修道院に入ったからです。その後、大学3年生に復帰して哲学を修め、神学を学び始めました。南山大学では、様々な時代の西洋哲学について学ぶことができました。地球の姿が明らかになっていなかった古代の思想、天文学が発達していった時代の中世哲学など、どれも興味深かったです。各時代を彩った魅力的な人物たちにも惹かれましたね。そして、どのような時代であっても西洋哲学の源流には必ず、絶対的な超越者たる神の存在があった、と思いました。それは、私が子どもの頃から「いつも神様が見守っていてくださる」と肌で感じていたこととも共通するものでした。
大学時代は、キャンパスの東側にある神言神学院で寝起きをしました。カトリック司祭・修道者・宣教師の教育・養成機関で、ここもいわば寄宿舎です。この神学院で、有期誓願期の私たちの指導司祭をされたのが、後の南山大学第5代学長であるハンス
ユーゲン・マルクス先生です。マルクス先生は、私が神学の勉強を始めた頃からの付き合いで、大学院のゼミの担当教員でもありました。加えて神学院でも共に過ごすのですから、それはもう大変お世話になった方です。マルクス先生は、一言で表すならばマメな人でした。きれい好きで、トイレ掃除も率先してされていましたね。机の上には、いつも一輪挿しに花が生けてあったのを覚えています。夏休みになると、先生は私たちゼミ生を連れ、軽井沢へ避暑に行くのが恒例でした。しかし、別荘に着くとまずは掃除で、それから午前中は各自で研究。昼食を終えたら、温泉地まで山道を延々と1時間かけて歩いて行ったものです。あれはバカンスというより修行でしたね(笑)。南山大学や留学先のウィーンでも数多くの魅力的な出会いがありましたが、マルクス先生は特に印象的でした。
*1カトリックにおいて、修道生活に入る前に宗教的訓練を受ける特別な期間。
*2修練期の後、修道会の定めに従って生活する一定の期間。
「好き」の感覚を磨くこと
私たちが成長するためには、知性と感性の両方が必要です。物事をただ暗記するだけだと、いずれ必ず忘れてしまうでしょう。そうならないためにも、自分の中に芽生えた「好き」の感覚を大切にして、好奇心を磨いていってほしいと思います。さらに、好奇心をとおして知り得たことを、友達や家族と話し合ったり、自分に問いかけてみたりしてください。そうして「好き」の感覚を磨いて、知識を広げていってほしいと思います。保護者の方には、自身の経験を押しつけて意見するのではなく、子どもの話に耳を傾け、家族の会話を楽しんでいただければと思います。
南山大学の国際教育
南山大学では、2017年度からクォーター制がスタートしました。1年を4回に分け、試験を含む8週間を1クォーターとするもので、履修計画を柔軟に組み立てられるのが特長です。短期間で集中して学ぶことで、学修効果の向上も期待できます。海外の大学で6月からスタートするサマーコースに参加するなど、短期留学の選択のしやすさも見逃せません。クォーター制を導入することで、海外からの留学生も受け入れやすくなり、キャンパス内のグローバル化にもつながっているようです。さらに、同大学では、英語のみで授業を行う国際科目群も開講していて(2018年度は約60科目)、海外留学に近い体験もできます。国際人としての素養が十分に身につく環境が用意されています。
留学生が多い南山大学のキャンパスでは、豊かな国際交流が可能です。