関塾が発行する親子で楽しむ教育情報誌、関塾タイムス

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2019年11月号 わたしの勉学時代

歩きながら思考を巡らせた

 私は愛知県の名古屋市で生まれ育ちました。学校も市内でしたが、幼稚園、小学校、中学校は家から遠く離れていたので、当時を振り返ると「よく歩いたなぁ」という思いが先立ちます。送迎バスのある幼稚園もありましたが、「がんばって歩かせよう」との父の方針でそこには入らず、片道2㎞ほどをいつものんびり歩いて通園しました。
 こうして長い距離を歩いていたことはとても意義があったと思います。例えば小学校の帰りの道は、「今日はこんなことがあったな」「家に帰ったら宿題はこの順番でやろう」などと常に考えを巡らせていました。こういった内省の時間が、後の考える力につながっていったように思います。
 家族構成は、父、母、兄、私の4人です。父は大正生まれの航空エンジニアで戦時中、設計を担当していました。まさに映画*1『風立ちぬ』の世界です。戦後は役目を終えて自動車業界に移りましたが、飛行機好きは生涯変わることはありませんでした。国産旅客機*2YS-11の就航時は出勤前の父に連れられ、夏休みにわざわざ早起きして離陸を見に行った記憶があります。父も母も躾は厳しいほうではなく、毎日、のんびり過ごしていた気がします。

*1スタジオジブリ制作の長編アニメーション映画。1930年代、日本で美しい飛行機を開発することに情熱を注ぐ実在の人物を描いた作品。
*2戦後初めて日本の航空機メーカーが開発した旅客機。

しっかり者の兄のおかげで、のびやかな子ども時代を過ごさせてもらいました。スキップと折り紙とちょうちょ結びでつまずいた以外は、ご機嫌でした(笑)。

作文にのめり込んだ小学時代

 小学校の頃から勉強するのは嫌いではなかったです。成績の良し悪しは別として、楽しくやっていました。好きになれなかったのは、音楽の試験の時にみんなの前で歌うことくらいかな。今でもカラオケに行く時は、あらかじめ周囲に「中で起きたことは言わないように」と約束してもらっています(笑)。歌うのは好きなんですよ。一番のめり込んだのは作文です。小3の時の担任の先生が優しい〝おばあちゃん(?)〟の先生で、いつも丁寧に添削してくださいました。当時でも珍しいインク壺のペン軸で書かれた朱字がとてもきれいで、作文用紙をそのまま持って帰って宝物にしたいと思ったほどです。添削から清書までの流れは今思うとちゃんと内省につながる学びでした。「こういう見方もあるよ」「こんな表現もできるね」と振り返らせ、「さあ、もう一度書いてみましょう」と導いてくださる。当時、各クラスで一作品を選び、全学年の優秀作を集めた作文集を毎年作っていましたが、私は小1から小6までずっと載っていたそうです。
 バカなことも随分やりました。小5の理科でシャーレーを使った発芽実験があるでしょ。4時間目の授業でふざけて大豆を耳に入れてしまい、取れなくなったんです。「病院で耳を切られるんじゃないか……」と一人思い悩んで迎えた終礼の時間。いつになく神妙な私の様子に気づいた先生に前に呼び出されました。「ああ、こっぴどく叱られる……」と思いきや、私から理由を聞くやいなや、黙ってピンセットで大豆をスッと引っこ抜いてくださいました。ものすごくほっとしたことをよく覚えています。

同じ本で再び読書感想文を

 中学校は各学年が11クラスほどある大所帯でした。そんな中でも私はのびやかに過ごしました。勉強には淡々と取り組み、クラブ活動はソフトテニスに熱中。朝練も放課後の練習もみんなと一緒に楽しく汗を流しました。
 私の作文好きは中学生になっても変わらなかったですね。国語の先生が小3時の先生の再来のようで、毎回細かなところまで見てくださいました。中3の読書感想文のことは今でもよく覚えています。私は周囲が大人びた作品を選ぶなか、小学校の時に一度書いた『フランダースの犬』(ウィーダ著)を再び選びました。決してラクをしようということではなく、中3になって同じ本に向き合ってみたら感想がどう変わるのかを純粋に試したかったんです。すると先生から「加藤君の感想文、とても良かったのでコンクールに出しましょう」と言ってもらえました。
 高校受験に向けた勉強は、自分なりにがんばりました。母の勧めで塾の夏期講習も受けました。塾では授業のスピードがとても速く、その速さにちゃんとついていっている他校の生徒がいることに何より驚きました。他流試合の良い経験でした。

高校の時、座禅を組みに行こうと兄と話が盛り上がり、いざ永平寺へ。一生の宝となる経験になりました。

教師を目指して教育大学へ

 私が進学したのは〝のんびり過ごせる〟と聞いていた愛知県立瑞陵高校でした。しかし、当たり前ですが、他の学区から優秀な生徒が大勢集まっていますから、のんびりなんてしていられない……はずなのに、私はついついのびやかに過ごしてしまいました。生まれながらの性格ですね(笑)。でも、さすがに高2になると「このままではエラいことになる」と多少の焦りを感じ始めました。
 大学の志望学部を決める時、物理部に入っていたので父のように航空工学を学ぼうと思いました。その一方で、国語の教師になりたい気持ちもあり、最終的に愛知教育大学を第一志望に。工学から教育への進路変更については、〝何となく〟で決めたのが正直なところです。
 そして無事に合格できましたが、1年時はそれほど大学生活を謳歌できませんでした。というのも、兄が浪人していたので、がんばっている兄の生活に合わせて私も何かしなければと朝刊の新聞配達を始めたんです。今思えば、この時、販売店で働く人々や配達先の人々の生活を垣間見れたことは、よい社会勉強になったように思います。兄の受験勉強が落ち着いた12月頃にアルバイトを辞め、大学の勉強をちゃんと始めました。
 大学での学びは高校までとはまるで違い、まさに「学問」と向き合うことができて新鮮でした。恩師となる先生方が国語学や文学の研究会をされていて、私も1年生ながら参加させてもらいました。本当に楽しかったですよ。好きなことを毎回先輩たちと議論し合えるわけですから。「今度教わるあの作品、もう読んだか?」「読んでどう思った?」などと聞かれ、自分の感想を述べると「それは違うだろう」と指摘される。「1ページ目から一字一句、最後の最後までちゃんと読めば、こういう結論を導けるはずだ」と返されるんですね。とにかく深く読み込め、と。まして教師を目指すのなら、それをやらないと生徒の前には立てないと伝えたかったのでしょう。そんな国語学に魅せられ、学部卒業後は*3東京都立大学の大学院に進み、研究者の道を歩み始めました。

*3現在は首都大学東京。

野球も大好き少年でした。

認められて自尊心は育まれる

 私は勉強することを楽しんでいたように思います。そこで「なぜ好きなんだろう?」と考えると、やっぱり〝面白い〟から。理科には理科、国語には国語、各教科それぞれの面白さが必ずあります。皆さんにはぜひそれに気づいてほしいです。そして、それに気づかせてあげるのが先生や親御さんの役目でもあります。
 私は小1の時、日本語の助詞の「は」と「わ」をどう使い分ければよいのかわからず、混乱したことがありました。それで一度、適当に混ぜて文章を書いたことがあったのですが、その時に先生が一つひとつ丁寧に、小1でもきちんと理解できるように教えてくださいました。私が作文や国語に興味を持つようになったのは、もしかしたらこうした体験や先生のおかげかもしれない。何がきっかけになるかわかりません。
 親御さんは、たとえお子さんが悪い点数を取っても、やんちゃが過ぎたとしても、「大器はいつか晩成する」という気持ちで見守ってあげてほしいと思います。一人ひとり全員が一人ひとり大器だと思います。つい口うるさく言ってしまいがちですが、そこはぐっと堪えて、「大丈夫?」と気にかける程度に見守ってあげる。そして、勉強でも運動でもお手伝いでも、とにかくがんばった時はしっかり認めてあげてください。「自分はできる」「誰かの役に立っている」と感じることで子どもは自尊心を育みます。そこから自らの興味・関心も広がっていくのです。国連が*4SDGsとして17の目標を設定していますが、もしかしたら興味を抱いた分野がその中にあるかもしれない。そんなことを親子で一緒に話すのもいいかもしれませんね。

*4Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)の略。2015年9月の国連サミットで採択され、地球上の「誰一人として取り残さない」というスローガンのもと、17分野のゴールと169の具体的なターゲットを設定。

SDGs実現のための先進教育

 キャンパス内で鹿が草を食む姿が見られるという奈良教育大学は、古都・奈良の中心地にあり、世界遺産を含む多くの伝統文化遺産と、豊かな自然に囲まれています。そんな特色を生かし、2007年、大学で初めてユネスコ・スクールに加盟するとともに、2017年度からは近畿地方全域の拠点校として、※ESDの研究や推進、教材開発、教員養成に取り組み、現職教員や教員を目指す学生向けに、様々なセミナーや勉強会の機会を提供しています。国連で「持続可能な開発目標(SDGs)」が採択され、学習指導要領にもESDの理念が反映されているだけに、これからの地球全体の発展に寄与する大学として、同大学の取り組みに期待が寄せられています。

※Education for Sustainable Development (持続可能な開発のための教育)の略。

博物館と連携して開催した、奈良県川上村でのESDティーチャープログラム認定証授与式の様子。