2020年3月号 わたしの勉学時代
父の勧めで中学受験
「生まれ育ったのは京都市上京区の西陣ですが、両親とも広島県の出身だったので、生粋の京都人とは言えないかもしれません。小学校のすぐ近くに住んでいたので、帰ったら鞄を置いてまたすぐ学校に戻り、下校時間まで遊んでいました。機織り業者などが集まっているのんびりとした土地柄だったので、近所の子どもたちと思う存分遊んでいましたね。
父・母・弟の4人家族で、父は開業医でした。午前は外来、午後は往診、一服してから夜の外来と大変忙しく、なかなか休みは取れませんでしたが、お盆などは広島に帰省していました。広島の祖母は兄弟の多い長女としていろいろと苦労してきた尊敬できる人で、大きく影響を受けました。友人や親戚など様々な立場の人に対応する祖母の姿を見て、話し方や気持ちの表し方といった人への接し方を自然と身に付けることができました。
躾や教育方針は父が決めていましたが、叱られる時は母を通じて。直接叱られることはあまりありませんでした。母は感情表現が豊かだったので、叱り役にも向いていたのでしょうね(笑)。新しいことも取り入れるタイプだった父に、洛星中学校の受験を勧められ、見学に行ってみるとカトリック系のせいか校章や建物が非常に格好良かった。それで受験を決めましたが、元来、自分のペースを乱されるのが嫌な性格ということもあり、受験勉強は自分で計画を立てて取り組みました。それまでも学校の勉強は真面目にしていたので、6年生になってからも教科書を中心にいろいろと勉強しました。
中学で帰宅後の勉強の予定表を作るよう言われたのですが、当時はアメリカのテレビドラマが大流行。見たいテレビの前後に勉強をするという予定表を作っていたら、両親に叱られてしまいました(笑)。
一流大学の医学部に?
洛星中学校に無事入学でき、まず最初に中高一貫校だから6年間思い切り遊べるぞと思いました(笑)。そんな思いで過ごし始めた学校生活でしたが、最初の定期試験で順位1桁台の成績が取れたのに、担任の先生から「この程度の成績では一流大学の医学部には入れないぞ」と言われました。それまで医学部どころか大学の話をしたこともなかったので、びっくり仰天したことを覚えています。入学直後にそんなことを言われたおかげで、以後、少なくとも試験の時は一生懸命勉強して、成績が下がらないように努力しました。科目の得意不得意はそこまでありませんでしたが、物理は苦手でしたね。試験で60分中40分くらい経っても1問も解けず、0点かもしれないとものすごく焦ったことがあって、その時はなんとか解き方を思い付いたのですが、以来ずっと苦手意識があります。
本格的に進路を考えたのは中学3年で文理を選択する時。裁判官や弁護士にも興味があって法学部もいいなと思いましたが、ただ漠然と憧れていただけで特に根拠はありませんでした。対して医者は周りに多い身近な職業だったので、結局は医学部に決めて京大を目指すことに。自分で選んだ参考書や問題集を徹底的に解くという勉強方法で、1回やって解けなかった問題だけを2回目にやる、2回目も解けなければ3回目と、解けない問題がなくなるまで繰り返しました。ただ、数学だけは少し不安もあり、高校3年の時、中学で教わった先生が開かれていた私塾に通いました。それまでは有名で分厚い参考書に取り組めばいいと思っていましたが、その先生の指導は典型的な受験問題を集めた薄い問題集をじっくり解くというものでした。そのおかげで、数学ではむやみに数をこなすのではなく解き方のコツを学ぶことが重要なのだとわかり、難しいと言われる京大入試の数学も解けるようになりました。
内科でも癌を治せるかもしれない
大学に入学した1968年は学生運動が最も激化していた時期で、京大も例外ではありませんでした。授業があったのは最初の半年ほどで以降は全学ストライキ。正常化したのは3年目でしたが、最初の2年間は専門とはあまり関係ない教養課程で、幸い専門課程からは思う存分学べる環境でした。中でも、*早石修先生の授業はとても明解で素晴らしかったです。まず助手や院生などに講義をして問題点を確認し、改善した上で実際の授業に臨まれていたと後に聞いて、ノーベル賞候補と言われるほどの偉大な先生でもそんな努力をされているんだと驚き、大変感動しました。
卒業後の専門について、まず内科というのはすんなり決まりました。手先が不器用で外科には向いていませんでした(笑)。しかし、内科の中で何をするかは迷いに迷いましたね。苦手な物理が必要となる研究など、したくない分野はあってもしたい分野がなかなか見つからない。そんな時、医員として勤務していた倉敷中央病院で白血病の患者さんを受け持ちました。白血病は血液の癌で、教科書通りに抗癌剤を投与したところ、これが非常によく効き、命も危ない状態だったのが元気になって退院しました。後に再発してしまいましたが、国内外の論文を読み別の薬を投与したらそれもまたよく効きました。「癌は手術でしか治らないと言われているのにすごい、これなら内科でも癌を治すことができるかもしれない」。そう考え血液内科をやろうと決心し、医員終了後は最新の研究を学ぶために京大大学院へ。大学院を修了する頃、恩師の中村徹先生が福井医科大学へ教授として着任されることが決まりました。私も助手として2~3年来ないか、と言われて福井に来たのですが、どうも1桁間違っていたようで30年以上経ってしまいました(笑)。
中高時代の部活は軟式テニス部。大学でも硬式テニスをやっていました。エースというわけにはいきませんでしたが、いろんな 友達ができて楽しかったですね。
小学生、お父さんとの1枚
高校生、初めての友達同士での旅行。
*京都大学名誉教授。医学博士。「酸素添加酵素」を発見し、従来の概念を変える業績を残したとして高く評価されている。後進の育成にも尽力し、ノーベル医学・生理学賞を受賞した本庶佑氏など、世界的研究者や大学教授100人以上を世に送り出した。
文法も会話もどちらも必要
元々大学院の後は留学したいと思っていましたが、福井に来て2年程してそれが実現し、アメリカ・ノースカロライナ州立大学に2年間留学しました。日本の大学病院だと診療や講義など研究以外の仕事も多く家族との時間を確保するのが難しいのですが、アメリカでは研究をするか家族と過ごすかのどちらかしかなく、ある種のカルチャーショックを受けました。妻と幼い子どもを連れていて、2年後に帰国予定の私は、競争相手にはならず、移民に寛容な伝統もあるせいか、非常に友好的に接してもらえました。2年目には、子どもの世話があるだろうと助手までつけてくれたのですが、これが逆に大変でした。それまでは一人で黙々と研究していれば良かったところを、人に指示しなければならなくなったのです。苦労しましたが、そのおかげで英会話が上達しました。
一方で、ほとんど喋れなかった頃、アメリカ人と論文の文法について議論し、私の方が正しくて感心されたこともあります。日本人は文法はできても会話ができない。よく言われることで、その通りではありますが、文法が正しいというのは他にはない強みにもなり得ます。世界中で、英語を喋れる人はたくさんいますが、英語の論文を直せる人はほとんどいないでしょう。今まで日本人がしっかりとやってきた文法も会話と同じように大切にしないといけません。国際社会で活躍するためにはどちらもが必要なのです。
大事なのは自信を持つこと
留学後、京都に戻るなども考えたのですが、当時、福井医科大学はできたばかりでこれから地域医療の中心となっていくべき存在。これはきちんと土台を作っていかなければならないと、使命感に駆られ、それを共に推進できる雰囲気が学内にあったので、福井に残ることを選びました。試行錯誤しながら新しいものを作っていくおもしろさもありましたね。
長年、学生たちと接していますが、近頃は大人しい人が多いと感じます。国際化が進む現在、福井大学でも教職大学院でのエジプト教員の受け入れなど世界各国との交流に力を入れています。皆さんには、こうした国際社会で活躍できるよう何事にも積極的に関わっていってほしいと思っています。そのために何より大事なのは自分に自信を持つことです。勉強でも何でも自分に合った方法を見つけて、それを一生懸命やることが自信につながります。もちろん最初はうまくいかないこともあるでしょう。良いと言われている方法でも自分には合わないかもしれません。ですが、良い方法とは人によって違いますし、自分に合う方法が必ずあります。失敗した時は原因を調べて、別の方法を試してみればいいのです。自分に一番合う方法を見つけたら、ひたすらがんばる。そうして自信を持って様々なことに挑戦できるようになってください。
連合教職大学院で新しい教育を
福井師範学校・福井青年師範学校を前身に持つ福井大学の教職課程は、学校や地域と連携した教育の実践研究や、教師の資質向上の取り組みで知られています。最近では、連合教職大学院・教育学部・附属学園が一体化した、新しい教育を実践するための体制が高い評価を得ています。連合教職大学院とは、現職の学校教員がより高度な教育を行うための知識や技術を学ぶ場所で、院生が大学院に通って授業を受けるのではなく、教授が実際の学校現場へ出向いて一緒に授業を作っていくという画期的な形が取られています。そうした初等中等教育の在り方はエジプト政府からも注目され、2018年「エジプト・日本教育パートナーシップ(EJEP)」の受け入れ先として選ばれました。
現場を見学するエジプト人教員。4年間で680名を受け入れる予定となっています。