頭に角があり、肌の色は赤や青で、虎柄のパンツをはいて、金棒を持っている──“鬼”と聞けば、そんな姿が自然と思い浮かぶのではないでしょうか。鬼ごっこをしたり、『桃太郎』などの昔話に登場したり、節分で豆をぶつけたりと、鬼に触れる機会は多く、その存在を知らない人はまずいないでしょう。
また、大ヒットした『鬼滅の刃』も鬼を退治する物語ですね。『鬼滅の刃』には、角がなかったり、人間と変わらない肌の色や服装をしていたり、一般的なイメージとは異なる姿の鬼が登場しますが、そのルーツは古典にあります。今の私たちがイメージする姿は、日本に古くから存在する鬼の、ほんの一部に過ぎないのです。
今回は、そんな日本の鬼にまつわる話を紹介します。
鬼が登場する最も古い文献は、8世紀に編纂された『出雲国風土記』だと言われています。出雲の国(現在の島根県)阿用の郷の由来として次のような話が載っています。田畑を耕作していた男が、一つ目の鬼に食われて「アーヨ、アーヨ」と叫んだので、その土地を阿欲と呼ぶようになり、後に阿用に改められたというものです。
以降、古代の様々な文献に鬼に食われた人の話があり、中には正史に実話として残されているものもあります。いずれの鬼も、人を超える力を持ち、人に危害を加える恐ろしい存在であることは共通していますが、鬼の姿は書かれず被害だけを伝えるものも多く、決まった姿はありませんでした。
最初はただ恐ろしく正体不明の存在だった鬼ですが、次第にその性格や背景も語られるようになり、人に味方をする鬼の話や、人が復讐のために鬼となる話などが出てきます。平安時代には、百鬼夜行という群れとなって行進する鬼の目撃譚も多く残っています。鬼の正体や具体的な姿がわかるようになると、陰陽師など人を超えた力を持ち、鬼に対処できる者が出てきました。
この頃になると、角が生えていたり、人とは異なる数の目や手足を持っていたり、牛や馬の顔をしていたり、物に手足が生えていたりといった、様々な鬼の姿が具体的に描写されるようになります。また、人を超えた力を得た者や、人から鬼になった者には角が生えてくるとも言われました。
中世になると、鬼が出てくる話はさらに増え、「酒呑童子」などよく知られる鬼もこの時代に生まれました。それらの多くは人が鬼を退治する話であり、鬼は依然として恐ろしく人を超えた力を持っているものの、強い武士であれば知恵や努力によって倒すことが可能な存在へと変化しています。
そして近世でその傾向はより強くなり、節分で豆によって追い払われるような弱い存在になってしまいます。角を持ち、虎の毛皮をまとった姿が定着したのもこの頃で、そのイメージが現在まで残っています。
このようにして、古代では実在する恐ろしい存在として信じられていた鬼が、徐々に物語の中で人に倒される存在へと変化していったのです。
数ある鬼退治の物語の中でも、源頼光と四天王による酒呑童子の討伐は特に人気があり、いくつかのパターンがありますが、主なあらすじは次の通りです。
京都府の大江山には酒を飲むことが好きで酒呑童子と呼ばれている鬼が多くの部下と住んでおり、若い女性をさらうなどの悪行を働いたため、天皇は頼光に鬼退治を命じました。頼光は四天王と呼ばれる4人の部下、渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武を連れ、大江山に向かいます。山のふもとで神の化身である老人に出会い、神酒と兜を授かり、山伏に変装するようにと助言されます。助言の通り山伏を装って酒呑童子の城を訪ね、道に迷ったので一晩泊めてほしいと頼みます。最初は警戒していた酒呑童子も、頼光が泊めてくれるお礼にと差し出した神酒を酌み交わしているうちに打ち解け、身の上話を始めます。普段は人の姿に化けている酒呑童子でしたが、人には無害で鬼には毒となる神酒を飲んだため、酔いつぶれて寝てしまい、正体である鬼の姿を現します。そこで頼光たちは、酒呑童子の体を押さえつけ、首をはねます。はねられた酒呑童子の首はまだ生きており、頼光に襲いかかりますが、兜に噛みつくと動かなくなりました。兜のおかげで難を逃れた頼光は、酒呑童子の首を持ち、都に凱旋しました。
他に、渡辺綱と茨木童子(酒呑童子の部下)との戦いや、鬼となる前の酒呑童子についてなど、各地に関連する話が多く残っています。
よく知られているように、節分では「福は内、鬼は外」と言って豆を投げる風習があります。もともと節分は「季節を分ける」という意味で、季節の変わり目である、立春・立夏・立秋・立冬それぞれの前日を指す言葉でした。春を迎える立春は1年の変わり目でもあり、最も重要なものだったため、次第に立春の前日のみを指すものとなりました。
そして、季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると信じられており、追い払うための「追儺」という儀式が平安時代から行われていました。本来、邪気は目に見えないもので、追い払う仕草をするだけのものだったのですが、次第にわかりやすく、実際に鬼を見立てて追い払うようになったそうです。
また、鬼が出入りする方角である「鬼門」(北東)を十二支で示すと「丑寅」となるため、鬼は牛の角を持ち、虎の毛皮をまとっていると考えられるようになっていきました。豆を投げるようになったのは室町時代頃で、「魔滅」に通じることから、邪気を追い払うことができるとされており、都の鬼門に位置する鞍馬寺や貴船神社には鬼に豆をぶつけて追い払ったという話が残っています。
鬼が実在するものとされていたのは昔のことで、今では想像上の存在と考えられていますが、現代にも鬼の子孫と名乗る人々がいます。
飛鳥時代、修験道の開祖とされる役小角は、山で厳しい修行を重ねることで、鬼を使役するほどの力を得たと言われています。奈良県の生駒山に住み、人に害をなしていた前鬼・後鬼という夫婦の鬼を改心させて従えていました。前鬼・後鬼は、役小角に仕えて修行を重ね、ある時「お前たちはここまで修行したのだからもう鬼ではない。里におりて人として生活しなさい」と言われました。そこで、現在の奈良県下北山村で暮らし始め、「山で修行する人たちを守り、導きなさい」という教えに従って、宿坊を立てて修験者のお世話をしたり、修行の仕方を教えたりするようになりました。そして、前鬼と後鬼の子ども、五鬼熊・五鬼童・五鬼上・五鬼継・五鬼助の5人もそれぞれ宿坊を営み、代々受け継いでいきました。明治時代の修験道廃止令で宿坊が減って1つだけになりましたが、下北山村には「前鬼」の地名が残り、五鬼助の61代目当主である五鬼助義之さんが今も役小角の教えを伝え続けています。
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