関塾が発行する親子で楽しむ教育情報誌、関塾タイムス

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2018年10月号 わたしの勉学時代

家族6人のくらし

私は宮城県の岩出山町(現・大崎市)の生まれで、小学3年生で石巻市へ移り住み、それからずっと海を眺めて育ちました。ですから、1960年のチリ地震の際、石巻に押し寄せた津波も目撃しています。北上川の水がぐーっと引いていき、川底が見え、海では大きな船が押し流されていく様は今でも忘れることができません。海と共に発展してきた石巻は、水産業や造船業が盛んなことで知られています。同級生の親にも造船に携わっている人がいたので、船を造る仕事は身近な憧れの職業でした。
父は宮城県石巻高等学校で数学を教えていました。子ども4人、合わせて家族6人を教員の給料で養っていたので、裕福なくらしとは言い難かったです。子どもたちの服はお下がりが当たり前、下着も母が手縫いしていました。そういえば、小学校の家庭科の授業で「パンツは母が縫ってくれます!」と高らかに発言して、恥ずかしい思いをしたことがありました。他の家では、パンツは洋品店で買うのが常識だと知らなかったのです。
貧しいといえば、4人きょうだい一緒の生活も大変でしたよ。私は次男で、下に弟と妹がいました。狭い我が家における生存競争(笑)は、それはもう激しかったです。お菓子が出されたなら、取られる前に急いで食べ終えなければなりませんでした。中学1年生までは自分専用の学習机がなく、廊下の突き当たりに置かれた小さな机を兄たちと共有したものです。そんな苦しい生活を少しでも楽にしようと、父は家で私塾のようなことをしていました。大学進学を目指す高校生に数学を教えていたんです。そのような状況でしたので、私たちが父から勉強を教わることはありませんでした。

当時の石巻では、捕鯨を生業にしている家がとりわけ裕福でした。その家の子どもがいい服を着ていて、 羨しかったことを覚えています。

文武両道の青春時代

小さい頃から運動能力には自信がありました。小学5年の時には招待リレーの選手にも選ばれたんですよ。中学校からは陸上部に所属し、大学時代までハードル競技に打ち込みました。県の大会でも優勝したことがあり、陸上界ではわりと有名人だったんです。中学時代はオリンピックを夢見たこともありましたが、上には上がいるもの。東北大学でインターハイ決勝に残った選手と出会い、その実力の差に打ちのめされてしまいました。全国トップレベルの選手がいる環境で練習できたことは、挫折も味わいましたが、かけがえのない幸せな経験でもあったと思います。
そんなわけで、部活動がメインで勉強は二の次だったのですが、成績は落としたことがありません。小学校から高校まで、成績は常にオール5でした。まさに文武両道。すごいですよね。自分でもすごいと思います(笑)。中学校の外部模試でも常にトップクラス。模試の特待生として受験料が免除されていたほどです。また、中学3年の時には、学校で受験のための補講コースが開かれました。模試の成績順にクラス分けをして、放課後の2時間ほど授業があったんです。この補講が、受験勉強に大いに役立ちました。
自主学習の時間を効率的に確保できたことも成績キープにつながったと思います。特に高校時代は、家から学校まで徒歩5分という環境だったのもよかったですね。放課後は、まず陸上部の練習が16時から19時頃まであります。帰宅後は夕食を済ませて20時には就寝。22時頃から起き出して机に向かい、深夜1時頃にもう一度布団に入るという生活でした。部活動から勉強への切り替えがうまくできていたように思います。また、自分では「勉強をすごくがんばっている」という意識はありませんでした。

父への対抗心と進路

厳しい教師だったと、父は卒業生の間で語り継がれる存在だったようです。私自身も石巻高校に通ったものの、父の担当学年にはならなかったので、噂話を聞いたことがあるだけなのですが。ある時、高校の後輩が「岩渕先生は、叱る時はチョークを投げてきた。怖かったなぁ」と話していたのを覚えています。
そんな父は、我が子に対しても容赦しませんでした。私も数えきれないほど叱られましたよ。躾についても厳しかったです。食事の際に姿勢を崩そうものなら、すぐに手が飛んできたものです。父は戦争で片腕を失った傷痍軍人でした。そのことについて、子どもの頃の私は、「もしも父に両手があったなら、もっとたくさん叩かれていたはずだ」とばかり考えていたものです。片手でもこんなに激しく叩かれるのだから、両手があったらさらに酷かっただろうと。そんなことを考えるほど、私にとって父は怖い存在でした。
中学・高校時代は、模試でいくら良い成績を残しても、父の反応はそっけないものでした。「長年教師をやってきて、お前より優秀な生徒をたくさん見てきたから、これくらい当然だ」という雰囲気でしたね。常にそんな調子で褒めないものですから、兄や弟は「勉強をやめた」となったのですが、私だけは違いました。当然のように父の勤める石巻高校へ進学し、父が卒業した東北大学工学部を目指したのです。当時はあまり自覚していませんでしたが、振り返ってみると、父への対抗心以外の何物でもなかったですね。「東北大学に入らなければ、親父に負ける」と意識の底で思っていたんです。
最初、大学では憧れの造船を学びたいと思っていました。しかし、東北大学では学べないことを知り、渋々諦めました。代わりに選んだ分野が機械です。また、大学に入学した時には、すでに「大学院に進んで研究をしよう」と自分で決めていました。修士課程を修了したら就職しようかとも考えたのですが、運よく助手のポストが空いたので、大学に留まることにしました。この時、「就職して機械を相手にするより、大学で学生を相手にしていたい」と思ったのですが、そこには教員だった父の影響もあったと思います。

小・中学時代から、県や全国レベルの陸上選手が身近にいたので、大変良い刺激になりました。部活動に打ち込んだ青春時代でしたね。

“世界一”を目指すために

今後、陸上競技でウサイン・ボルト選手の記録を破る人は、なかなか出てこないと思います。スポーツで世界一になることほど、難しいことはないですよね。しかし、研究の世界は違います。学問には、まだ注目されていない分野がたくさんあります。それらの分野で根気よく追究し続けていけば、きっとその道の第一人者になれるはずです。つまり、誰だってiPS細胞を生み出した山中伸弥教授のような、“世界一”の研究者になれる可能性があります。“世界一”になるために、大学ではぜひ一流の研究者と触れ合っていただきたいと思います。
それと、“世界一”を目指すためにもう一つ大切なことは、“科学する心”を養うことです。世の中は不思議なことで溢れています。例えば「太陽の周りを公転する惑星」と「原子核の周りを回る電子」。スケールこそ違いますが、よく似ていると思いませんか?私はこのことについて中学生の頃から不思議で仕方なくて、今も「なぜだろう?」と考えています。この「なぜだろう?」と思えることが大事です。「シャープペンシルはノックすると芯が出てくる。なぜだろう?」でも何でもいいのです。皆さんもぜひ身近な物事に「なぜだろう?」と関心を向けてみてください。そこから“科学する心”は育っていきます。皆さんが今、日常生活で当然のように使っている物の中には、ほんの数十年前には存在していなかった物も多いはずです。それらは開発者の“科学する心”から生み出されました。そう考えると、身近な物事に対する好奇心が膨らんできませんか?
例えば、私は最近、寿命について考察する時間が増えました。ヒトも機械もいずれ寿命がきますが、そこにはどんな共通点があるのだろうと考えるのです。ヒトと機械は似ても似つかない存在ですが、「細胞の老化」と「金属の疲労や摩耗」には同じところがあるかもしれません。少し視点を変え、複数の存在を見つめてみると、今まで考えもしなかった共通点が見えてくるなど、きっと新しい発見につながるはずです。こうした新しい視点こそが、“世界一”の研究者や開発者になるための第一歩だと信じています。視点を変えて物事を見つめることを、ぜひ皆さんも試してみてください。

幼い頃の岩渕先生。ご両親、お兄さん、生まれたばかりの弟さんと一緒に。

「総合科学研究科」誕生

2017年4月、岩手大学では大学院修士課程と博士前期課程の研究科を統合し、新たに「総合科学研究科(修士課程)」を設置しました。文理の枠を超えた研究を目的とした、「地域創生専攻」「総合文化学専攻」「理工学専攻」「農学専攻」の4つの専攻があります。このうち、「地域創生専攻」では、「水産業革新プログラム」や「防災・まちづくりプログラム」をはじめ、東日本大震災からの復興の取組実績を活かした研究が進められています。また、「総合文化学専攻」の「日本文化理解プログラム」や「グローバル文化発信プログラム」などを通した、グローバルな視点から文化芸術資源をとらえ世界へと発信する分野も、これからの社会には必要となってくるでしょう。新しい「グローカル」な研究に注目です!

総合科学研究科の研究施設は、岩手県沿岸部の釜石市に設置された釜石キャンパスにもあります。