関塾が発行する親子で楽しむ教育情報誌、関塾タイムス

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2019年3月号 わたしの勉学時代

野球に夢中だった子ども時代

 我が家は、私が生まれてすぐに池袋から練馬へ引っ越しました。ちょうど「としまえん」の裏門のそばでした。遊園地が隣にある生活というのは、今振り返ってみると、なかなか経験できないことだったと思います。毎年7月から8月にかけ、土曜日ごとに花火大会が開催されたのですが、あの眺めは圧巻でしたね。ただ、困ったこともありました。花火は毎回、夜の8時頃から始まったのですが、それがちょうど楽しみにしていたテレビ番組の放送と重なってしまったんです。音声がまったく聞き取れなくて参りました(笑)。
 小学校の高学年頃になると、夢中になったのが野球です。チームをつくって毎日のように練習していました。野球といえば、印象に残っている出来事があります。小学5年生の頃だったでしょうか。父と一緒に後楽園球場で巨人対中日の試合を観戦しました。その初回、王貞治選手がライトへホームランを放ったのです。本当にかっこ良かったのですよ。当時は大の巨人ファンで、一時期は高校野球で甲子園を目指したいと思っていたものです。

1960~70年代は高度経済成長の真っただ中。ディズニーランドがまだオープンしていなくて、としまえんは屈指の人気レジャー施設でした。夏はプール目的の人が多く、特に混みあいました。

内気な性格を変えた出会い

 両親、とりわけ父は厳格な人でした。躾や家庭内のルールについて非常に厳しく、私や姉は朝の挨拶を怠ると叱られたものです。また、食事の際には、父が箸をつけた後でなければ、誰も手を伸ばすことができませんでした。悪いことをすれば叩かれたり、家の外へ放り出されたりもしました。もちろん、悪いことをしなければ叱られませんし、ふだんはとても優しい両親でした。「勉強をしなさい」と注意されたことは一度もありません。
 実は、小学2年生までの私は、とても内気な子どもでした。今の私を知る人は、にわかには信じられないでしょう。内気な性格を変えてくれたのは、3・4年生時のクラス担任だった田中先生です。先生は似顔絵が上手で、ご自身の特徴をよくとらえた自画像を描いて私たちに配ってくれました。その表現力の豊かさに心を動かされたことを覚えています。そして何より、先生は私たち教え子のことをよく理解し、一人ひとりを褒めてくださいました。そんな明るく気さくな先生と接するうちに、私もだんだんと気持ちを表に出し、誰とでも話せるようになっていきました。
小学校時代には、習字や算数の授業が特に好きでした。習字はクラスで上位を争うほど得意だったのですよ。算数は正答が一つではっきりとしているところが、父譲りの白黒はっきりさせたい私の性格にぴったりだったのだと思います。この頃から理系分野が合っていると自覚していたので、小学校の卒業文集には「将来は医師かエンジニアになりたい」と書きました。何か手に職をつけたいと考えていたんです。

英語の発音を褒められて

 中学生になって、英語が好きな教科に加わりました。発音を覚えて文法を学んでいくプロセスが、これまでの教科とは違って新鮮でした。中学2年生の時、英語の先生から「発音がきれいだ」と褒められたことがあります。それでますます好きになりました。数学は、因数分解に挑むのが楽しかったですし、論理的に考えながら解き進める証明も好きでした。思い返してみると、数学の勉強はゲームを楽しむような感覚に近かったかもしれません。そして、この頃の夢も変わらず、医師かエンジニアでした。
 高校は、池袋にある巣鴨高等学校に通いました。当時はサンシャインシティが建設中で、どんどん階が高くなっていく様子を教室の窓から眺めたものです。池袋駅の東口周辺はいつも賑やかで、私たちも学校帰りによく立ち寄りました。西武百貨店の屋上にあるフードコートで、友人たちとよく食事をしましたよ。友人とはのんびりと過ごす一方で、学校生活では心身共に鍛えられました。質実剛健を大切にする、規律に厳しい校風だったんです。柔道もしくは剣道が必修科目。卒業までに有段者になることが望ましいとされていて、私も3年生で柔道の初段を取りました。また、夏は千葉県館山市まで行って古式泳法を習うなど、いろいろな経験をしました。

小学校で田中先生と出会わなければ、内気な性格のままだったかもしれません。

将来の目標が変わった時

 父の知り合いで、大阪で学習塾を経営している先生がいました。高校3年の夏休みの間、その先生の大阪のお宅で寝起きし、昼は塾で勉強をしました。そうして1か月を過ごし、東京へ戻る前の晩。先生が「進路について話をしよう」というので、私は「患者を助ける医師になりたい、医学部に進みたい」と告げました。すると先生は、「社会全体を広い視野でとらえ、世の中を良い方向へ導く学問を志したほうがいいのではないか」と言うのです。その場は聞き流したのですが、一週間後、なんと先生はわざわざ東京までやって来られました。すると、説得を重ねる先生の話を聞いていた父も「実は私もそう思っていた」と言うではないですか。「経済学は、社会の構造を理解する学問で、その成果である分析や政策は、世の中を良くするものだ」という二人の熱弁を聞くうちに、私も「それはもっともなことだ」とすっかり納得しました。180度発想を転換させられた出来事でしたが、最後に選択したのは私自身なので、そこは迷いがありませんでした。ただ、高校3年の2学期に、いきなり理系から文系へ進路変更をしたものですから、学校の先生からは怒られましたけれど(笑)。
 医学から経済学へ大きく舵を切った私は、学びたい学問領域のあった法政大学経済学部を選びました。そして、大学4年生の時、ゼミの先生の勧めで立教大学大学院の経済学研究科に進みます。研究者時代、特に若かった頃は、論文を書くのに苦労したものです。父に似た融通の利かない、白黒はっきりさせたい性格が災いして、自分の正しいと思った理論だけを貫き、他の意見をあまり尊重できていませんでした。そんな博士課程の2年目、発表をすることになったある学会で私の研究スタイルを考え直す出来事がありました。発表する分科会の座長の先生が、私が論文上で批判していた相手だったんです。その時の私の発表には、若い博士課程の院生ということもあって、厳しい意見もいくつか出ました。ところが、その座長の先生だけは「私は彼の研究を非常に評価します」と言われたのです。これには驚きましたね。翌日、ホテルのロビーで偶然再会した際にも、「昨日の発表は良かった。誰も試みなかったアングルからアプローチをしている。そこがすばらしい」と褒めていただきました。「意見の相違はあっても、認め合えることもある。認めてもらえることは有り難いし、成長のきっかけになるのだな」と思えた出来事でした。

(左)幼稚園の頃の郭先生。
(右)お母様との思い出の一枚。中学校では、バスケットボール部で汗を流したそうです。

無限の可能性を信じましょう

 1874(明治7)年の創立以来、立教大学は「聖書」と「英学」を大事にしてきました。与えられた試練をどう克服するかを説き、人生の構想力を身につけるのが聖書です。また、英学は、英語を学ぶ他、英語圏の歴史や文化・習慣をも知り、多様な価値観を知る学問です。これらは、現代社会においても必要な知恵です。“人生100年時代”であり、インターネットやAI(人工知能)が急激に発達している複雑な社会の中で、これらの知恵を活かすための研究・教育環境を、私たちは実現していきたいと考えています。また、学生・保護者・卒業生の全員の結束を高める意味でも、2024年の創立150周年には、箱根駅伝100回大会への出場を果たしたいですね。同じ目標に向かって歩んでいく中で、立教への愛校心を育んでいけたらと思っています。
 関塾で勉強に励む若い皆さん。皆さんは、創造力と行動力に優れている、希望に満ちた存在です。立場にとらわれ、何事も経験則で考えてしまう大人にはない、無限の可能性があります。皆さんには、そんな若い自分の可能性を信じ、限界を決めず、決して諦めずに突き進んでほしいと思うのです。私たち立教大学は、教職員が一体となって、若い皆さんの可能性を伸ばし、一人ひとりの適性を見出 していきます。たくさんのチャンスを手に入れ、一歩を踏み出す勇気を育む場所を提供していく大学として、私たちは若い皆さんを応援しています!

立教時間

 立教大学には、学生一人ひとりが個別に利用できるWebシステム「立教時間」があります。卒業までの目標や各学修期の目標などが設定できる他、時間割の管理、学修成果の確認など、様々なツールを学校内外で気軽に使用できるのが魅力です。ボランティアやキャンプなど、大学主催のプログラムの申し込みもできるんですよ。こうした正課外の活動も、「立教時間」に実績として登録できるので、活動を振り返ったり、自分の考えをまとめたりするのにも役立ちます。立教大学では、国際交流協定を結ぶ約220の海外の大学への派遣留学、海外の企業でのインターンシップなど、学生全員が海外体験するためのプログラムも充実。「立教時間」は、もちろん海外体験の記録も一覧できます。とても便利ですね!

歴史を感じる赤レンガ造りの建物が象徴的な立教大学。